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 まだ、夏だった。
 私は陛下のご実家にお迎えにあがっていた。陛下の夏休みは今日で終わり、さっそく今日の夜から予定が入っている。独経会の国王記念セミナー20周年レセプション。夏休み明けの初めての公の場なので、TVカメラも入っている。が、他には特に気を使う要素もなく、気楽な仕事だった。当たり障りのない短いスピーチをして、会食するだけだ。
 私が参上したとき、陛下は外出なさっていた。財団の警護担当者は、異状ないとのこと。私は客間で、美しく造園された庭を眺めながら、陛下のご帰宅を待っていた。
 午後、日はまだ高く、室内にはあまり差し込んでこない。それよりも、芝生からの照り返しが、体感温度を上げている。私の上着はチャコールグレイのジャケットだから、なおさらだ。
 やがて物音がして、陛下のご帰宅が知れた。その直後に、客間のドアが開き、
 「ひかるちゃーん! 会いたかったよっっっ!」
と、もったいないほどのご心情をこめて、陛下がお声をかけてくださった。
 「恐縮の極みでございます。私も一日千秋の思いでございましたが、陛下の快活なお姿を拝見して、待ち遠しく思ったことなどすっかり忘れてしまいました。
 至らぬ身ながら、本日よりまた陛下の盾として、憎まれ役を勤めさせていただきます」
 「ありがとうね、がんばってね、私も手伝うから」
 陛下はそうおっしゃられ、私の手をお取りくださった。
 陛下はなにも、私に特別に親しくしてくださっているわけではない。身の回りの人々にはみなこうなのだ。お側仕えの者や官房職員ばかりでなく、たまに警備に動員されるだけの警官の顔まで覚えておられ、お声をかけなさるのには驚かされる。
 ただ――どう考えてもこれはうぬぼれなのだが――私の選任のこともあって――私は人一倍、陛下の寵に浴している――ような気がして仕方がない。
 きっと、お側仕えの者は一人残らず、私と同じように思っている。
 「ひかるちゃん、日に焼けた?」
 「先日まで実技研修でしたもので。しごかれました」
 護衛官はいざというときには格好よく戦う、と思っている人がいるが誤解だ。警護対象の上に覆い被さる、あるいは安全地帯まで対象を移動させる、そういう地味なことしかしない。武器のたぐいは寸鉄も身につけない。まさに盾だ。
 「いじめられた? ごめんね、私のせいだよね。ひかるちゃんは女の子なのに、こんなお仕事させたりして」
 「お戯れを。この役目は私の生き甲斐でございます」
 私は身長161センチ。さらに就任時には21歳だった。軍や警察の経験はない。私の選任は、国王財団、大統領府、内務省、つまり関係組織すべての強い反対を押し切ってなされたものだ。
 だから、どうしても私は、ほかのお側仕えのものよりも陛下の寵を厚くたまわっている、という錯覚をぬぐいきれずにいる。
 「無理しないでね。辛いことがあったら言って。ひかるちゃんに守ってもらいたいの」
 「身に余る光栄でございます」
 「そうだ! ひかるちゃんに見てほしいんだけど!」
 陛下は私をご自室にお連れになり、なにかと思えば、この夏の旅の土産物をお見せくださろうとした。私はそれを遮って、
 「恐れながら陛下、お話は、シャワーでお身体をすっきりさせてからではいかがでしょう」
 さきほどの外出では炎天下を歩かれたらしく、陛下のお身体からは真夏の熱が発散されていた。それに、スケジュールにあまり時間の余裕がない。話に夢中になって、シャワーを浴びる時間を逃すかもしれない。
 「汗くさかった? あ、そういえば暑っ!」
 陛下はその場でワンピースをお脱ぎになり、下着姿になられた。陛下は公邸でも、下着姿や、あるいは下着もなしに、部屋の外をお歩きになることがある。
 「待っててねー」
 陛下がゆかれると、日が沈んだように、静かに寂しくなった。
 私は左右を見回した。言い訳するかのように。
 あまり物のない、陛下のご自室。公邸のご自室にはもう少し華やぎがあるのだが、それはメイドたちの働きのおかげかもしれない。公邸のご自室にはいつも床の間に花が生けてあるが、陛下は花にご興味がないらしく、ここには花瓶ひとつない。
 関心を呼び起こすようなものは、これといって見当たらない。
 言い訳――自分への言い訳を終えると、私は、脱ぎ捨てられた陛下のワンピースを、手に取った。
 指先に、熱を感じる。真夏の熱と、陛下のぬくもり。
 それを胸の前に置き、立ち昇る熱を、顔に感じる。熱と、匂い。陛下の。甘い。
 私はしばらくそのままでいた。
 しばらく。たいした時間ではない。シャワーを浴びるほどの時間では。
 「ひかるちゃーん、見ちゃったよー?」
 陛下のお声が耳朶を打った。



 『公邸の女中の制服は、メイド服に変更』
 『中身は全員中学生』
 陛下が国王に即位なさった直後、国王財団理事会に最初に出した要求が、この2つだったという。この話を聞かされたときには、就職を誤ったかと思った。
 前者は問題なく通った。国王公邸は戦前に建てられた和風建築だから、洋装のメイドが働くのは、かなり奇妙な光景だ。とはいえ、公邸に暮らすのも、メイド服を着せられるのも、理事たちではない。
 後者の要求も、かなり真剣に検討されたらしい。要求が受け入れられなければ退位する、と陛下は主張なさった。そのときは即位式もまだで、しかも陛下は19歳であられた。ただの脅しと無視することはできない。陸子陛下ほどのスター性のある国王は、そうそう出るものではない。
 女同士なら、たとえ間違いがあっても子供ができるわけではないし、なんとかして――という流れだった。しかし最終的には、公邸の女中がつとまるような中学生がいないので、20代前半で揃えることで妥協した、と聞いている。
 陛下のご趣味には別段心を動かされなかった。が、『全員中学生』という要求が、私を不安にさせた。
 私が護衛官に選ばれたのは、私が女で、まともな選考対象のなかで一番若かったから、というだけなのではないか。
 
 私が初めて陛下にお目通りしたのは、護衛官選考の一次面接だった。
 護衛官選考の面接はすべて陛下ご臨席で行われる。最初のペーパーテストに通れば、即位したばかりの国王の顔を、間近に見ることができる。そのため野次馬受験も多い。たとえ露骨な野次馬受験でも、形式的には平等に扱わなければならない。野次馬受験者を振るい落とすのがこの一次面接の目的で、そのため一人に3分しか使わない。
 かくいう私も、その野次馬受験者のひとりだった。当時の私はまんが家を目指していた。見物できるものは見ておけ、というのが表向きの動機だった。つまり、面接官にきかれたら、そう答える予定だった。
 「1421番、設楽光さんですね? どうぞ」
 大統領府ビルの会議室。学校の教室のように広々とした部屋だった。部屋にあったのは椅子だけで、机がなかった。
 これはあとで知ったことだが、陛下は、人と相対なさるときには、けっして机を挟まない。演壇に立たれるときにも、自分の前には机を置かせない。机は、私とあなたのあいだに線を引いてしまうから、と。
 私が室内に入ると、脇に控えていた役人風の男が立ち上がり、書類を見ながら言った。
 「ご紹介申し上げます。こちらは設楽光さん、千葉市出身、21歳です」
 「はじめまして、設楽さん。私は波多野陸子と申します。どうぞおかけください」
 陛下のしゃべりかたは独特で、よく『アニメ声』と言われる。まるで子供向けアニメの声のように、抑揚が大げさで、特有のリズムがある。
 「設楽光と申します。陛下のご尊顔を拝しお言葉を賜り、光栄の至りでございます」
 大統領府の役人が、『面接対策はずいぶんなさってきたようですね』というような、野次馬受験者への嫌味を言い、私はそれを軽く受け流す。そのあいだ陛下は、私の顔をしげしげとご覧になっていた。私のほうが陛下のお顔を拝したいところなのに、あべこべになっている。妙な気分だった。
 陛下はまだ19歳であられた。だから私は、ご臨席での面接といっても、陛下おんみずからご下問くださるとは思っていなかった。が、陛下は、渡された書類をちらっと見ると、
 「設楽さんは今は、まんが家のアシスタントをなさっているそうですね? どんな作家さんとお仕事されてるんですか?」
 私は3人の名前を挙げた。すると陛下は、
 「もしかして、××編集部にご縁が?」
 「ご賢察恐れ入ります。もしかして陛下も――」
 編集のバイトかなにかで関係していたのだろうか。敬語の言いまわしが出てこなくて一瞬詰まると、
 「はい、描いてました」
 瞬間、なんとも言いようのない緊張が走った。
 即位からこのかた、陛下のことならどんな些細なことでもニュースになってきた。それなのに今まで、まんがのことは報道されずにきたのだから、ほとんど仕事がなかったにちがいない。あるいは、陛下の痛いところに触れているので、特に秘密にしているか。
 「あ、これ、秘密ですよ。だってもう新作は描けないんですから。
 新作をどんどん出していけば、昔のヘタなのも、埋もれてくれるかなー、見逃してくれるかなー、って思うじゃないですか。でもそうじゃないと、昔のヘタなのが埋もれないんですよ! ずーっとそのまんま! これ恥ずかしいですよね」
 「わかる! 昔の原稿なんて、もう目に入っただけでヤバい――」
 陛下は国王という特別な地位にあられる。では陛下ご自身は、その地位に見合うような特別さをお持ちだろうか。陛下の血は青いだろうか。陛下の額には特別な印が描かれているだろうか。
 いいや、まったく。陛下のどこにも、特別さを示す徴はない。国王という特別な地位は、陛下になんの影も落としていない。だから私は時々、陛下のおられる地位を忘れてしまう。このときが、その最初だった。
 「――失礼しました。矩を越えた口をききましたことをお詫びします」
 「えーっ、いいじゃん! そりゃ私は国王だけど、ひかるちゃんのほうが年上でしょう?」
 「恐れながら申し上げます。
 護衛官が陛下に礼を失すれば、陛下の威厳が損なわれます。我が国の人心の要(かなめ)となることが陛下の大業(たいぎょう)、威厳を損ねては妨げになります」
 「ま、『威厳の高揚』も護衛官のお仕事だもんね」
 そこへ役人が口を挟んだ。
 「陛下、お時間になります」
 「またねー、ひかるちゃん」
 
 私の人生はこのときを境に、道を変えた。
 数週間後、私は最有力候補として、最終面接に残っていた。陛下を説得しがたいと思ってか、私のほうにも財団理事がきて、辞退を要求したりもした。
 私と陛下の側には理はなかった。国王はつまるところ千葉の飾りだが、護衛官は国王の飾りではない。千葉王位わずか50年の歴史のなかで、6人の国王のうち半数がテロに斃れ、4人の護衛官が殉職していた。護衛官の能力は、千葉という国家の運命さえ左右する。私は、体が小さいというだけでも、護衛官失格だった。
 しかし私の覚悟は決まっていた。
 
 そして、最終面接。
 机を取り払った会議室のなかで、陛下と二人、向かい合う。
 陛下はいつになく落ち着かない様子であられた。はじめの二言三言は面接らしいことをおっしゃって、それから心中を打ち明けてくださった。
 「もし私がひかるちゃんを選んだら、ひかるちゃんが私の楯になってくれるんだよね?」
 「はい、誓ってお守り申し上げます」
 陛下は、座っているのがもどかしいというように席を立たれた。私も遅れず立ち上がる。陛下は一歩前に踏み出され、それから横を向かれ、
 「もし私が襲われて、ひかるちゃんが私のかわりにやられて死にそうになったら、私、どうすればいいの?」
 「どうしていただけますでしょう? 楽しみでございます」
 「楽しみだなんて!」
 陛下は身をよじるようにして振り向かれた。陛下には芝居がかったところがあられる。
 「私も、ときどき想像します。テロに遭って、自分は無傷なのに、陛下は致命傷を負われて余命いくばくもない、という場合のことを」
 感情を高ぶらせて赤くなっていた陛下の頬が、さっと白くなった。
 「きっと、どうしようもなく辛くて、悲しいだろうと思います。
 でも、そういう辛い悲しいことを想像すると、気持ちよくなります」
 陛下は、白い頬のままで、しばらく黙っておられた。
 「…………どういうこと?」
 「申し上げましたとおりです。辛い悲しい目にあうことを想像すると、気持ちよくなります。恐れながら陛下も、私と同じではないかとお見受けします」
 「気持ちいいわけ……ないじゃない……」
 白かった陛下の頬に、ふたたび赤みが差す。
 私は頭を下げた。
 「推参(*1)をお許しください」
 そして陛下のお側に寄って、その御手(みて)をとった。
 「大勢の前で言えば人の顰蹙を買うことでも、二人きりのときに言えば相手の心をつかむ、そういう言葉がございます。私は、さきほどの陛下のお言葉に、心臓をつかまれた思いがいたします。
 陛下、どうか私を護衛官にお選びください。
 私よりうまく陛下をお守りできる人は、ほかにいるでしょう。けれど、もし陛下の楯となって命を捧げる日がきたとき、満ち足りて死んでゆけるのは、ほかの誰よりも、この私です」
 私が申し上げているあいだじゅう、陛下はうつむかれて、小さく震えておられた。私の声がやんでからしばらくも。
 それから、ゆっくりと、私の手を握り返してくださった。最初は弱く、だんだん強く。
 「……ひかるちゃんの言うとおりだね。そういうこと想像すると、気持ちいいよ」
 「それでは、私をお選びになるべきではない、ということも、ご承知ください」
 陛下は、驚いたお顔を、私に向けられた。
 「陛下はその気持ちよさに目を奪われていらっしゃいます。私が護衛官にふさわしいかどうかを、もう一度よくご検討ください。護衛官の満足よりも、陛下の御身が大切でございます。御身を守ることだけをお考えください。私よりうまく御身をお守りできる人は、ほかにいるはずです」
 「……ひかるちゃんは、護衛官になりたい?」
 「はい」
 「じゃあ、やっぱり、ひかるちゃんが私の護衛官だよ」
 「恐れながら陛下――」
 「国王の威厳を高めるのも、護衛官のお仕事だよね?」
 「はい」
 「死ぬのが怖くて、そればっかりの国王には、威厳なんてないよ?」
 「陛下、それは――」
 「お黙りなさい!」
 私は口をつぐんだ。
 沈黙が、竜巻のように湧き起こり、陛下の一喝よりも強い力で、私を圧倒した。そして、
 「……こういうこと、初めて、言っちゃった」
 そのお言葉が、私を抱きとめた。永久に。
 「差し出がましい物言いをしましたことをお詫びします。
 護衛官のお役目、つつしんで承ります」
 
 もしかして、あの一幕はつまるところ茶番で、私は女で最年少だから選ばれたにすぎないのか――私はそんな不安に襲われた。

  *1:さしでがましい行動。



 「ひかるちゃーん、見ちゃったよー?」
 その不安は、この瞬間まで、薄らぐことはあっても消えることはなかったかもしれない。
 ドアの後ろから、陛下のお顔がのぞいていた。私はただぼんやりと、その光景を見ていた。
 「恐れながら申し上げます、これは――」
 これは――
 陛下のぬくもりと残り香を楽しんでいただけで、陛下を害するようなものでは決してございません――
 心臓が、がたがたとわめきはじめて、口が回らなくなる。
 「これは?」
 陛下は私のそばにお座りになり、あの表情豊かな目を輝かせながら、私を見つめておられた。
 「その――なんと申し上げてよいものやら――その――」
 自分の声も、陛下のお声も、心臓のわめき声にかき消されそうになっていた。陛下のお言葉を聞き逃すまいと、必死で耳をそばだてる。
 「ひかるちゃん、真っ青」
 陛下はお手をさしのべられ、てのひらを私の左胸にあてがわれた。ご自身の左胸にも同じようになさって、
 「すごーい、ひかるちゃんの心臓、どきどきしてる」
 きっと昔の貴婦人なら、こんなとき、都合よく失神してしまえるのだろう。意識が絶えないのが不思議なほどだった。
 「お優しいお心遣いに――その――言葉もございません」
 「ひかるちゃん、さっき、なにしてたの?」
 それを聞いた心臓が、一拍遅れて、大声でわめく。
 「あ、いま、すごい、どくんってした。おもしろーい」
 そのあとは陛下はなにもおっしゃらず、ただ私の胸に手を当てながら、じっと私の様子をご覧になっておられた。
 やがて心臓がいくらか落ち着いて、なんとか私は口を開くことができた。
 「とんだ醜態をお目にかけましたことを、お赦しください」
 「ひかるちゃん、なんか悪いことしたっけ? 私すごく楽しいよ?」
 「さきほどのご下問の件、つまり、私がなにをしていたのかを、申し上げます。お耳汚しとは重々存じておりますが、陛下の寛大なお心におすがりします。
 私は、このお召し物に残っておりました、陛下のぬくもりと残り香を、楽しんでおりました」
 「楽しかった?」
 私はしばらく考えて、
 「……よく、わかりません」
 「『楽しんでおりました』って言ったばっかりじゃん」
 「嘘でございました。どう申し上げたものか、わからなかったので、ついそのように口から出てしまいました。この痴れ者をどうかお赦しください」
 「楽しいんじゃなかったら、どうしてそんなことしてたの?」
 「……わかりません」
 「自分でも、わけのわかんないこと、してたんだ?」
 「はい」
 本当に、そのとおりだった。私はただ事実として、あんなことをしていた。
 わけがわからないからといって、『まるで誰かに操られていたかのよう』、とも思わない。私は確かに、あんなことをする人間だ。
 「ひかるちゃんて、ずっと前から、こういうことしてるよね?」
 ずっと前――初めてがいつだったか、思い出せない。少なくとも一年は過ぎている。
 「はい」
 「やっぱり、ねー。
 こんなことしちゃいけない、とか思わなかった?」
 「思いました」
 「どうしてそう思ったの?」
 「こんなことをするのは、気味が悪い、と思いましたので」
 私は言葉を選んで、『気味が悪い』、と言った。けれど陛下は、
 「うん。すごーく、気持ち悪いよ?」
と、容赦のない言葉に置き換えておっしゃった。私は耐えかねて、つい、
 「恐れながら陛下にお願い申し上げます。どうか私を、護衛官の役目から解いてくださいますよう。私はこの役目にふさわしくありません」
 口にした端から、悔やんだ。最終面接を終えたときから、こんなことは絶対に言うまいと決めていた。陛下を置き去りにはしないと。なのに。
 「ふさわしいかどうかは、私が決めるの。ひかるちゃんは、やめたい?」
 もう同じ過ちは繰り返さない。
 「いいえ、陛下にお仕えしとうございます」
 「それでまた、私の服の匂いをかぐんだよね?」
 さすがにそろそろ、陛下のお考えが、薄々ながら伝わってきた。陛下には、人並みに嗜虐的なところがおありになる。けれど、わかっていても、心の動揺は抑えられるものではない。陛下のお言葉に、私の身体は震えた。
 「もう二度といたしません。どうかお赦しください」
 「二度としない、っていうことは、原因がもうわかってて、対策もできた、ってことだよね?
 でもさっき、自分でもわけがわかんない、って言ってなかった?」
 陛下のお尋ねになったことは、口先の理屈のようでも、私の実感を突いていた。
 やめられるのだろうか。いままでも、すべきでないとはわかっていたのに、たいした葛藤も覚えずにしてきた。まるでおかしな夢をみているようだった。
 「……私の思慮が足りないばかりに、無責任な約束を申し上げてしまいました。お赦しください」
 「覚えてる? 『無理しないで、辛いことがあったら言って』――って、私さっき言ったよね?
 いま、ひかるちゃん、すごく無理してるみたいに見える。
 辛いんでしょ? 言って?」
 「はい――お願い申し上げます。
 私ひとりでは、自分を抑える自信がございません。私が同じ過ちを繰り返さずに済むよう、陛下がお脱ぎになったお召し物などは、私の手に届かないよう――」
 「そうじゃないでしょ!」
 陛下は一喝なさった。
 「それって、やっぱり隠してるだけじゃない。
 ひかるちゃんは、私と一緒だから、ひかるちゃんなの。そうやってひとりで黙って隠してる人なんて、ひかるちゃんじゃない」
 そして、奇妙に一瞬、なにか胸につかえたように言葉を途切らせてから、
 「……ごめん。言いすぎた。ひかるちゃんにだって、内緒のことがあるよね」
 「いいえ、陛下にそのように信じていただけるのですから、なにも隠すことなどございません」
 私にはもう逃げ道はなかった。どうしても、言わなければならなかった。
 「謹んでお願い申し上げます。
 陛下のお召し物の、ぬくもりと残り香を楽しむことを、どうかお許しください」
 陛下は、よくできました、とばかりに微笑まれた。
 「いいよ。
 ただし――」
 陛下は小考なさってから、
 「まず、ちゃんと楽しむこと。『自分でもわけがわからない』、じゃなくて。もし私が、『楽しい?』ってきいたら、『最高』とか『あんまり』とか、ちゃんと答えられるようにね。そしたら私も、ひかるちゃんがもっと楽しくなるようにしてあげられるから。
 条件その2。私が見てないところでは、しない。私は、ひかるちゃんに、嗅いでほしいの。ひとりで隠してる人じゃなくて。
 条件その3。したいときは、ちゃんと口でそう言って。おねだり、するの。
 条件その4。もし、こっそりしちゃったときは、すぐに私に言うこと。そしたら、ちゃんと叱ってあげるから。
 ……わかった? 約束できる?」
 「誓って、お申しつけのままにいたします」
 陛下は微笑まれ、私の手をお取りになった。
 「ありがとう、えらいよ、ひかるちゃん。
 それじゃ、いまから――してみて」
 そうおっしゃった陛下の、私をご覧になる視線が、いつもと少し違う。
 いつもよりお顔を後ろにそらされ、まぶたが下がっておられる。陛下は、いつもやや上目づかいで私をご覧になっていたのだと、そのとき気づいた。
 陛下のお手の温度が、下がった。毛細血管が収縮して、皮膚への血流が減少したためだ。つまり、陛下は、緊張なさっているということ。
 そう思うと急に、頭がはっきりしてきた。陛下のお気持ちとお考えだけでなく、さまざまなものが見えてきた。今日のスケジュールのことまでも。
 陛下を抱きしめたい、と感じた。
 胸で感じた。指先で感じた。頭で感じた。鼻で、目で、耳で、感じた。
 抱きしめて、それからどうするという考えもなく。わけもわからず。
 衝動を覚えるだけでなく、頭も回っていた。だから考える――私には考えがなくても、陛下はお考えをお持ちだろう。もしそれが実現してしまったら、ここを出るべき時間に間に合わなくなる。
 それに、もし私が陛下とそのような関係に陥って、そのことが公になれば、政治問題になる。私はお側仕えのメイドではなく、護衛官なのだ。
 いまの段階ならまだ、私が異常者で、陛下はそれを広いお心で受け止めてくださった、という形で済む。もし事が外に漏れても、病的な印象が強いので、公に口にするのは憚られるだろう。程度の問題ではあるが、政治問題はすべて程度の問題だ。
 雑念はいくらでも湧いてきた。私はそれをすべて、ため息といっしょに吐き出した。
 陛下のご緊張をやわらげ、嗜虐的なお気持ちを満たしてさしあげたい――その目標に集中する。
 「陛下、どうかお召し物を――ぬくもりと残り香を、賜りたく」
 「うん。ブラでいい?」
 私の返事を待たず、陛下はお脱ぎになられた。陛下は下着に趣味をお持ちで、今日も華やかなものを召されていた。
 陛下のお身体は、特に胸は、とても女らしくあらせられる。下着に遮られないお身体は、目に生々しく、私はよそを向いた。
 「そうだ、してるときは、『陸子さま』って呼んで」
 「かしこまりました、……陸子さま」
 よそを見ていた私の手に、温かい布が触れた。
 「はい、どうぞ?」
 「ありがたく頂戴いたします」
 お召し物を、胸の前にくるように持つ。顔をやや下に向ける。立ち昇るぬくもりと匂いが、顔にかかるようにするため。
 陛下は、首を伸ばされて、私の顔を下からご覧になりながら、
 「さっきもだったけど、鼻にくっつけないんだね。服が汚れるから?」
 「いえ、このくらい離したほうが、よく楽しめますので」
 といっても、楽しむどころではなかった。いや、楽しんでいたのかもしれない。それは自分でもわからない。自分でもわからないことはともかく、意識の上では、陛下にご満足いただくことしか頭になかった。
 「そうなんだー。さすが経験者って感じ」
 陛下は、首を伸ばしているのに疲れた、というようにお身体を倒され、私の膝にお顔を埋められた。
 「ひかるちゃん、変態だ」
 嬉しそうに陛下はおっしゃられた。どうやらご満足いただけた、と感じた。
 頭が、すっ、とした。
 時間感覚が一瞬途切れた。過ぎたのは1秒か、1分か。10分ということはなさそうだった。
 「――十分に堪能させていただきました。これはもうお返しいたします。
 出発まで、あまり時間がございません。シャワーをお使いになられては」
 陛下は、面倒くさそうにお身体を起こされて、眠そうな目で私をご覧になった。
 「……はーい」
 私の手から下着をお取りになると、それを指で振り回しながら、陛下は部屋を出てゆかれた。
 
 私が護衛官に選ばれたのは、私が女で、まともな選考対象のなかで一番若かったから、というだけなのではないか。
 それは真実だったかもしれない。
 けれどもう私は、それが嫌ではなかった。私は運がよかった。そのおかげで私は、陛下の前を通りすぎるのではなく、お側に仕えることができた。
 たとえようもなく信頼され愛されながら通りすぎるより、少しだけ信頼され愛されながらお仕えするほうが、いい。
 私は陛下のお側に仕えたい。ほかのことはみな言い訳と、口実と、照れ隠しだ。



 公邸には護衛官の執務室がある。屋敷の隅の四畳半だ。戦前にこの屋敷が建てられた当時は、書生部屋だったという。政府のオフィスのなかで畳敷きなのは、おそらくこの執務室だけだろう。
 護衛官は組織上、一個の独立した省庁のようなものなので、書類仕事は無限にある。一番の書類である予算と調達は、さすがにずいぶん楽にされているものの(もし予算と調達をすべて自分でやっていたら警護をする暇がない)、他省庁とのやりとりがある。警護上の要望や、その調整のための根回しといったことだ。
 こうしたことはみな、手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。私がやらなくても、財団の警護部がそれなりにやってくれる。完璧にやったからといって、完璧な警護ができるわけでもない。警護が失敗する日がきたときに、「私はちゃんとやっていた」と主張しても、自分自身への慰めにさえならない。
 手を抜かずにやっても、効果はあまりない。各省庁の担当者の人事のほうが、はるかに効く。私が書類を何センチ作っても、無能な担当者はどうすることもできない。護衛官はただ意見を述べるだけで、権限はなにもないのだ。財団の警護部長は、『10年も勤めていれば自然とみな言うことをきいてくれるようになるよ』と言っていた。しかし、はたして10年も生きていられるのかどうか。過去50年で4人の護衛官が殉職している。
 けれど私は暇さえあれば書類仕事に励んだ。陛下のためになにかしている、という自己満足が大きな理由だった。
 国王の仕事は、公邸外でのものが当然多いが、公邸でこなすものもある。たとえば、文通相手の小学生に手紙を書くこと。
 子供に国王への親しみを持たせるために、小学生と文通する、という制度がある。相手の小学生は毎年、希望者のなかから5人が選ばれる。代々の国王陛下はみなこの手紙を楽しみになさっていたとか。陸子さまも例に漏れない。月に一度、まる一日をかけて、幸運な5人への手紙を書いておられる。
 今日がその手紙の日だった。
 陛下は、国王官房の職員を相手に、手紙を口述なさる。私は会議などに出ることもあるが、今日は公邸で書類仕事をこなしていた。
 こんな日の昼食は楽しい。陛下は、客のないときの昼食は、お側仕えの者と食卓を共になさる。メイドたちはみな、身の回りで起こった愉快な出来事を、無限にためこんでいるらしい。『どうしても陛下のお耳に入れたい』という小話が、尽きることなく飛び出してくる。
 そんなお昼休みのあと、おやつの時間(このとき陛下は私をお呼びになる)の前、私は執務室で、警備計画の改善すべき点をこねくりまわしていた。
 「ひかるちゃん、はいるよー?」
 陛下のお声に、私はとっさに居住まいを正した。
 「お通りください」
 襖がすべる。
 「いま忙しい?」
 「いえ、なんなりとお申しつけください」
 「それじゃあね――実験」
 私の目の前で、陛下はブラウスをお脱ぎになった。
 「これ、ここに置いておくからね。ひとりで勝手にしちゃだめだよ? もししちゃったら、ちゃんとそう言うんだよ?」
 「心得ております、陸子さま」
 「じゃーねー」
 上半身を下着姿で、陛下は出てゆかれた。
 いくら公邸の中とはいえ、官房職員の前に、あのお姿でお出でにはならないだろう。大沢さん(お召し物を担当するメイド)に言いつけて、新しいものを召されるのだろう。が、そのとき、このブラウスの行方を、どう説明なさるおつもりなのか。
 まさかこんなことに使われているとは、誰も夢にも思うまい。けれど、もし私の以前のあのときの姿を、使用人の誰かに見られていたら――こういう噂は、本人にだけはけっして届かない。
 それに、陛下はいま、小学生へのお手紙を草しておられる。その最中に、なぜこんなことを思いつかれたのか。もしかしたら陛下は小学生にも――不敬な疑いではあるれど、まるで的外れとも思えない。
 あれこれと心配しながら、私は陛下のブラウスを手にとっていた。
 手にとっていた。
 手に。
 狐につままれたような、とはこのことだった。自分ではまるでそんなつもりはなかった。『どうしても手に触れたい』というような衝動もなかった。
 自分に言い聞かせる。大丈夫、このことを正直に陛下に申し上げて、叱っていただけばいい。自分ひとりで抱えていてはどうしようもないことでも、陛下が叱ってくだされば、きっとなんとかなる。
 私はブラウスを畳んで、文机の前に戻った。
 書類仕事を再開する気になれず、ブラウスを遠くから、ちらりちらりと眺める。
 この実験で、どんな結果が出れば、陛下に喜んでいただけるのだろう。我慢できたかどうかは問題ではないはずだ。問題は、どんな経過をたどり、それをどうご説明申し上げるか。
 さっきの経過は、そのままでは、あまりにも劇的でなさすぎる。「気がついたら手に取っていて、驚いた」。これにどんなストーリーをつけられるだろう。
 いっそのこと、心ゆくまで楽しんで、それを叱っていただくほうが、陛下を楽しませてさしあげられるのでは?
 いや。陛下のお言いつけは、『ひとりで勝手にしちゃだめだよ』のほうが優先だ。陛下の御為と言いながら、陛下のお言いつけに背くわけにはいかない。出来事を作ることはできない。
 ああでもない、こうでもない――私はひとしきり熱心に考えて、結局、『告白するタイミングで盛り上げる』という結論を出した。
 最初は、問題なく我慢できたような顔をする。しかし、ブラウスが畳んであるのをご覧になった陛下は、私がその服に触れたことにお気づきになられるかもしれない。そうしたら、『実は……』と告白する。もしお気づきになられなくても、やはりすぐに告白する。
 「じゃーん!」
 襖がすべった。
 予想外に短い実験時間だった。陛下はまだ上半身を下着姿でいらっしゃる。これなら大沢さんに言い訳することもないわけだ。
 「ちゃんと我慢してるんだー、えらい、えらい。
 ……これ畳んだのって、ひかるちゃんだよね?」
 陛下は見逃されなかった。
 「それは――」
 陛下はブラウスに袖を通され、手づからボタンをおはめになりながら、
 「触ったんだよね?」
 「はい」
 「匂いはかいだ?」
 「いいえ」
 「楽しかった?」
 「気がついたら、手に取っておりました。自分でもよくわからないままでございました」
 「ちょっと進歩したんだね。よくできました」
 意外にも陛下はお褒めの言葉をくださった。陛下はこういうことを皮肉でおっしゃるかたではない。
 「でも、できなかったところは、ちゃんと叱ってあげる」
 そうおっしゃると陛下は、まるでなにかを待っているかのように、私の顔を見つめたまま、しばらく黙っておられた。
 と、不意打ちのように微笑まれ、おっしゃった。
 「おあずけもできないだめなへんたいのひかるちゃん、今度はちゃんとしてね?」
 「はい…… 陸子さま」
 私は、なにかに抱きしめられたように、身体の力が抜けて、あたたかくなった。
 「じゃーねー」
 陛下はゆかれた。
 
 あとは何事もなく、おやつの時間になった。
 座にいるのは、官房職員と私と陛下。官房職員が邪魔だったが、もし彼がいなければ、今度はお茶の世話をするメイドが邪魔になっただろう。公邸では、メイドの目の届かないところで陛下と二人きりになるチャンスは多くない。
 口述相手の官房職員は、いかにも宮廷人という風の、顔も弁舌も滑らかな男だった。陛下が、子供たちの手紙のことを話し終えたと見ると、彼はこう言って水を向けた。
 「そういえば陛下、平石さんからのお手紙のことですが」
 「あーそうそう」
 平石というのは、2年前に陛下と文通していた子供で、それが久しぶりに手紙をくれたのだという。
 「面白いんだよ。小学校を卒業してすぐに、イギリスに行って、そこのおじいさんの養子になったんだって」
 「未成年の国際養子ですか。人身売買を禁止する法律にひっかかりそうですが」
 「年をごまかしたんだって」
 「にわかには信じがたいお話です」
 官房職員が言う、
 「いま、この件で外務省が、日本とイギリスの当局と揉めています」
 世の中いろんなことが起こるものだ。
 「まず、そのおじいさんの紹介で、貴族のお屋敷で一年間働いて、そこから転職して、バッキンガム宮殿に半年」
 「イギリス貴族の使用人の世界というと、よそ者が入り込めるものではなさそうですが、東洋人も採用されるのですね」
 「ひかるちゃん、話きいてる?」
 「ええ――」
 小学校を卒業してすぐに――すぐに?
 平石という子が陛下と文通していたのは――2年前?
 「わかってきたみたいね?」
 「……いま、その平石という子は、中学生のはずでございますね?」
 「正解! その子、このあいだ千葉に戻ってきて、いまから財団にかけあうんだって。ここで働きたい、って」
 中学生のメイド。陛下が即位後、最初に要求なさったもの。
 「お話をうかがったかぎりでも、叩けばホコリの出そうな子ですが――」
 年をごまかして国際養子? 小学校を出たばかりの子供がそんなことを? ひとりでは無理だ。相当な力のある誰かがやらせているか、力を貸している。
 「面白そうでしょ?」
 私は官房職員の顔をちらりと見た。その顔を見て、はっきりした。この平石という子をどうするか、財団内で問題になる。
 陛下はぜひ雇いたいとのご意向だろうが、財団はこんな怪しい人間を公邸内に入れたくはないだろう。どちらの側につくか、態度を示せ――陛下と官房職員は、暗にそう言っている。
 私はもちろん、陛下の側についた。
 「中学生をメイドに雇うのは、陛下の夢でございましたね。ただ、まるで子供らしいところのない子だと思いますから、一度お会いになってから改めてご検討なさるのがよろしいかと存じます」
 留保をつけたようでも、実はまるで留保ではない。陛下は、凛とした行動力のある人がお好きだ。平石という子が本当にそんなことをしてきたのなら、陛下のお気に召さないはずがない。
 ふと気がついた。
 さきほどの、陛下のご実験。
 あれは、もしかして、平石という子からの手紙に触発されてのことでは。その子がお側仕えになっても、以前と変わらず私に接してくださるということを、態度で示されたのでは。
 そう考えて――それがあまりにも自分勝手な推理なので、そんなことを考えてしまっただけでも恥ずかしかった。