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 平石緋沙子は私に尋ねた。
 「設楽さまは、陸子さまの内縁の配偶者とうかがいました。本当でしょうか?」
 背の高い女だった。
 15歳だそうだが、「子」ではなく「女」だった。身長は170センチ近くあるだろう。お側仕えのメイドはどういうわけか、たいてい私よりも背が高いが、なかでも彼女は上位グループに属する。
 私は想像してみた。自分が彼女と並んだとき、どんな風に見えるか。ちゃんと自分のほうが年上に見えるだろうか。24歳と15歳。顔つきや物腰からして違う、そういう差のはずだ。けれど15歳が彼女なら、肌をよく見なければ、わからないのではないか。
 「いいえ。
 さっそく、からかわれましたね。ここはバッキンガムとちがって小さなところですから、そういうことはよくあります。私のほうから、たしなめておきましょうか?」
 新しくお側仕えになった人は、先輩たちに挨拶回りをする。私は公邸にあまりいないので、なかなかつかまらない。彼女が私をつかまえたときには、私以外の先輩にはもうすべて挨拶をすませていただろう。
 だから、こういうおかしな話を吹き込まれることにもなるのだろう。
 「お気遣いありがとうございます。でも、いまのは嘘です」
 「嘘?」
 「『うかがいました』、のところが。そんな話はうかがっていません」
 平石緋沙子。
 今年7月、ヒースロー空港からの便で関西国際空港に降り立ったところを、出入国管理法違反で日本の警察に逮捕された。他人名義のパスポートの交付を受け、行使した疑い。その後、未成年の千葉人とわかり、外務省を経て鑑別所に移送。8月中旬、審判準備期間が切れて釈放、同時に不審判決定。これは外交上の理由による決定だった。もし審判をしたら公判になり、千日英3国の外務省と内務省・警察、さらにはイギリス王室を巻き込んだ大騒動になったはずだという。
 そんなでたらめな女が、釈放されてから一ヶ月もたたないうちに、国王公邸で働いている。彼女のバックは、ずいぶんな大物らしい。
 「そうですか。それなら私も嘘で答えるべきでした」
 「別の答に変えますか? いいですよ?」
 「いえ。厄介事は嫌いですので。嘘は厄介事の極みです」
 「じゃあ、私と約束してください。
 もし設楽さまが、陸子さまのことで私に嫉妬したら、そのことを私に隠さないでください。私も、設楽さまへの嫉妬を隠しません」
 そんなにも私の思いは目に見えて明らかなのだろうか。自分が嘘のつけない性分とはわかっていても、これは少し悲しかった。
 「それは、なんのための約束でしょう?」
 「陸子さまのお心を安らかにしてさしあげるためです。嫉妬がよくないのは、嘘や隠し事を招くからです。嘘は厄介事の極みです」
 「自信ありげなご様子ですね。陛下とはもうなにか、具体的なことが?」
 「約束していただけたら、お答えします」
 話しているうちに、だんだん彼女が15歳に思えてきた。頭はいいらしく、言葉は大人びている。けれど心は素直で、あどけない。『嫉妬がよくないのは、嘘や隠し事を招くから』――嫉妬したことがない人の言い草だ。
 「……誠実に努力する、という約束ではどうでしょう?」
 「かまいません」
 「では、お約束します。さきほどのお返事を聞かせてください」
 「遅番に回されました。それだけです」
 遅番は午後3時から深夜までのシフトだ。体力的には厳しいが、陛下のお顔を拝する機会がもっとも多い。ただし彼女の場合は、遅番といっても、午後4時から9時までだろう。学校と労働法がある。
 「平石さんは学校がありますからね。――ああ、これは嫉妬です、おそらく」
 平石緋沙子は初めて笑った。
 こんな風に笑う人なら、陛下がお気に召されるのも当然だし、そうあるべきだ、とさえ思った。



 護衛官はいつもは、公邸の玄関前で、一日の仕事を始める。陛下のご外出に付き添って警護するのだ。外出から戻ると、同じ場所で仕事を終える。
 今日は、午後5時ちょうどに、公邸に戻った。9月の初旬のことで、日はまださんさんと照っている。
 「ひかるちゃん、今日もありがとうね。じゃーねー」
 陛下をお見送りしたあと、私は官舎に帰ろうと、通用門に向かった。そこへ、勝手口からメイドが走り出てきて、私に声をかけた。
 「設楽さま、少々お時間をよろしいでしょうか」
 女中頭の橋本だった。女中頭のしるしである髪飾りが、カチューシャ型のヘッドドレスについている。この髪飾りは、金銀と玳瑁で薔薇をかたどった豪奢なもので、陸子陛下おんみずから、かなり念を入れてお選びになった品だという。しかし中身は髪飾りとは正反対に地味で堅い。
 「ええ。中で話しましょう」
 台所の隣にある控室に入り、引き戸をぴしゃりと閉めると、彼女はエプロンのポケットからB5の紙を取り出した。雑誌記事のコピーのようだった。
 「明後日発売の、日本の週刊誌です」
 見出しにはこうあった。『千葉女王、愛人の女子中学生をメイドに?』。
 中身にざっと目を通す。『かねて同性愛のロリコンを噂される千葉女王』『即位の直後、公邸で働く女性の制服をメイド服に変えさせ』『女子中学生を雇うことについに成功』――醜聞というほどのものではないが、気になる記事にはちがいなかった。護衛官以外のお側仕えの人事は、安全上の理由から秘密にされている。関係者の誰かがリークしたのだ。
 話題の女子中学生こと平石緋沙子が、まるで平凡な子供のように書かれていることも気になった。これはおそらく、無邪気で偶発的なリークではなく、なんらかの狙いがある。
 「これは、私に見せてはいけないものでは?」
 明後日発売ということは、印刷所どころか出版社から取ってきたものだ。国王財団の諜報活動の成果にちがいない。
 「読んだあとでおっしゃいますか」
 「秘密にします。
 陛下には内縁の配偶者がいる――なんて嘘を平石さんに教えたのは、あなたでしたか」
 「なんのことでしょう?」
 女中頭はいったい、とぼけているのか、本当に知らないのか。容易に判断がつくようでは、この仕事はできないだろう。女中頭は、公邸内における非公式な人間関係について責任を負っている。非公式な人間関係とは、派閥、いじめ、そして恋愛沙汰だ。
 「忘れてください。
 広報部はこれの対抗宣伝をやるわけですね?」
 「はい。明日、平石さんがTVに出るそうです」
 あのでたらめなキャリアを、全国に公表するとは。ここで引き下がっては、なんのためにお側仕えになったのかわからない――というわけだろう。私はちょっと平石緋沙子に同情した。
 「心の準備はできました。ありがとうございます」
 「平石さんがここをお辞めになれば、もっと丸く収まると思うのですが」
と、女中頭は目論見を白状した。
 私は彼女のあさはかさを指摘した。
 「この件はまだ私には秘密のはずですが、漏らしたのは誰でしょう? あの子なら気がついて逆ねじを食わせます。機密保持にかかわる問題提起を、橋本さんの裁量で止めることはできないはずです」
 「設楽さまは、それでよろしいのですか? 広報部がどんなストーリーを作るか、設楽さまならご想像がつくかと思います」
 相思相愛の線を強くアピールするだろう。
 「陛下はお心の広いかたです。いまさらファンがひとり増えたくらいでは、気に病んだりはなさらないでしょう」
 「私は、設楽さまのお気持ちを慮って、申し上げているんです」
 なにをおためごかしを――一瞬そう言いそうになって。
 そのとき私は初めて、女中頭の顔を、ちゃんと見たような気がした。
 女は、自分よりずっと美しい女を長いこと見ていると、自尊心をすり減らすという。陛下と女中頭なら、すり減るのは女中頭のほうだ。だとすると女中頭の自尊心は、もし減ったのだとしても、元が十分に多かったのだろう。きりり、という音がしそうなほど、顔に出ている。
 嘘のない顔だと思った。
 「……いつまでも篭っていては、目立つかもしれません。裏庭でも歩きましょう」
 私は返事を待たずに控室を出て、靴をはいた。
 裏庭は立ち木もなくがらんとして、学校の校庭を思わせる。屋敷のそばに花壇があるのがまた校庭らしい。私はその花壇のそばを歩きながら、
 「橋本さんがその髪飾りをつけてから、もう1年半になりますか。よくお似合いです。
 お子さんはいま幼稚園でしたか? ……ああ、かわいい盛りですね。旦那さまもおかわりなく? ……それはなによりです」
 年はきかなかった。たしか、26か7だったと思う。陛下が即位されてお側仕えの者が総入れ替えになったとき、メイドは20代前半で揃えた。当時の女中頭に次いで年長だったのが、彼女だった。
 のんびりと彼女のことを尋ねていると、
 「あまり長いこと持ち場を離れたくありません。単刀直入におっしゃってください」
 「橋本さんは、実るべきものを実らせている――そう思いまして。
 私は陛下をお慕い申し上げています。この気持ちは、なにを実らせるべきでしょう。
 橋本さんは、私のことを、ご自身のなさりようにひきつけて考えていらっしゃると思います。けれど私は、橋本さんのなさっているようには、物事を実らせることがありません」
 「そんな……! 設楽さま、もっとお気を強く持ってください。
 設楽さまがそのおつもりになれば、陸子さまとどんな道でも歩むことができます。私は女中頭です。この判断には自信があります」
 私は笑ってみせた。
 「どんな道も必要ありません。いま、ここが、私のいるべきところです。陛下のお許しがあるかぎり、私はここにとどまります」
 陛下がなにかの折りに雑談で、おっしゃっていたことを思い出す。
 『でも天才って、目指すものがないから、辛いんじゃないかな』
 私も陛下も、かつてはまんがを描いていたので、ときどき作品制作のことが話題になる。もし自分が、まんがの天才だったら? そんな話に及んだときだった。
 数学や自然科学の世界なら、天才は、論理や自然に働きかけて成果を得る。凡人のまんが家は、切れ味鋭いネームや説得力のある構図を求めてさまよう。どちらも、自分の外にあるものを求めている。けれど、まんがの天才は、きっとそういうものではない。凡人のまんが家の目標が意味を失うような別の世界に、その作品はある。まんがの天才には、きっと、自分の外にあるものが不要なのだ。
 なら、まんがの天才は、なにに働きかけ、なにを求めればいいのか。自分の外にあるものが不要だというのは、作品を作るうえでは素晴らしいことでも、生きるという面では不幸なことではないのか。
 いまの私が、それと同じだ。
 「設楽さま、それは嘘です」
 女中頭の顔が、きりり、と音をたてたように思えた。
 突然――私は、抱きしめられていた。
 「人は否応もなく変わっていくものです。立ち止まっていることなどできません。
 設楽さまが陸子さまとゆかれるのでなければ、私が設楽さまをさらってゆきます」



 私は昔から同性受けのする人間だった。
 背も高くなければ、顔も女らしい部類に入ると思う。運動部どころか、まんがを描いていた。それなのに、なにかと好意を寄せられることが多かった。昔の友人にいわせれば、『ひかるは女くさくないから』とのことだった。
 だから告白や、突然の抱擁は、これが初めてではない。唇を奪われたことまではないが、それは私が雰囲気に流されないからだ。
 最後にそんなことがあったのは、もう5年以上も前だった。私も相手も、まだ子供だった。いまはちがう。彼女は国王公邸の女中頭で、夫も子供もいる。私は護衛官を務めて3年になる。遊びや軽はずみで済まされることではない。
 さらに恐るべきことに、ここは公邸の裏庭だった。お側仕えの誰かに見られているかもしれず、それどころか、陛下のお目にさえ入るかもしれない。
 「橋本さん――」
 「『美園』とお呼びください、ひかるさま。でなければ離しません」
 「美園さん、人目があります」
 「今夜、お電話くださいますか?」
 「はい」
 彼女は身体を離した。
 頬は頬紅をさしたように赤く、自尊心もいくらか影をひそめていた。いつもよりも髪飾りが似合う顔だった。
 「こちらにお電話ください」
 お側仕えのメイド服は装飾的だが、実用性も高い。たとえば、物を入れてもラインの崩れない実用的なポケットが多い。彼女は、そんなポケットの一つから名刺入れを出し、束の底から名刺を取ってよこした。携帯電話の番号が書き加えてある。
 「……はい。
 橋本さんのお気持ちはわかりますが、強引ですね。私の趣味ではありません」
 「ええ、強引です。ですからさきほども、『さらってゆきます』と申し上げました。
 貴重なお時間をありがとうございました」
 彼女は一礼して去っていった。
 いまさらながら公邸に目をやる。人の姿はない。それはそうだろう。でも平石緋沙子なら、隠れもせずにずっと見ているかもしれない。
 平石緋沙子に会いたい、と思った。
 ただ今日は会う口実がない。TV出演の件はまだ私には秘密のはずだから、口実にはできない。明日はぜひ会おう。TVを見て、嫉妬したと言おう。どんな顔をするだろう。



 発信者番号通知。
 プライベートの携帯番号を、女中頭――橋本美園に知らせたものかどうか、考える。もし非通知でかければ、彼女を拒絶するというメッセージになる。それよりは、かけないほうがいい。番号を通知すれば、彼女の話を聞くというメッセージになる。だが、こちらの携帯番号を知らせることは、それ以上のメッセージになりはしないか。
 だいたい、『さらってゆきます』というのは、なんのつもりなのか。
 女中頭は公邸内の非公式な人間関係に責任を負う。ただのメイドならともかく、女中頭が護衛官と特別な関係に陥れば、公邸にはいられない。彼女はそこまでするつもりがあるのか――あるのだろう。でなければ、公邸の裏庭であんなことはできない。
 彼女の顔を、思い出す。 髪飾りの重さに負けじとばかりに、胸を張って顎を引いた、誇り高い顔。
 あの顔に、目をそらしたくない、と思った。
 番号が通知されるままにして、名刺の携帯番号にかけた。
 が。
 つながったのは、留守電だった。
 拍子抜けして、床にごろりと転がる。
 私の家は、公邸のそばの官舎だ。庭つき一戸建てで、ひとりで住むと庭仕事や掃除に手が回らない。そこで、ありがたいことに、お側仕えのメイドがときどき来てくれる。独身だから特別に、とのこと。
 陛下との雑談に備えて、ゲームをしようかと思った矢先に、携帯に着信があった。かけてきたのは、橋本美園。
 「設楽です」
 「ひかるさん?
 ほんとにかけてくれたの?
 実はあのとき陸子さまがご覧になってて、陸子さまのお言いつけでやってる、なんてことないでしょうね?」
 さすがは女中頭、疑り深い。
 「かけてはいけませんでしたか?」
 「嬉しいけど、ちょっと意外だな。そんなに女の子に飢えてるの? うちの子を誰か食べちゃえばいいのに。ほら、陸子さまがあれだからさ、みんな食べられるよ?」
 「意外といえば、橋本さんが、職場と同じかたとは思えないのですが」
 「そう? 敬語に惑わされてない? ――そうか、あっちのほうが萌えるんでしょ? ちょっと待って、頭切りかえるから。
 ……お待たせしました、ひかるさま。
 こんな人さらいのところに、暢気にお電話をくださるだなんて、正気の沙汰とは思えません。ひとつのところに長く居すぎて、正気をなくしてしまわれましたか?」
 「どう考えても、敬語だけの問題ではないのですが」
 「ちがった話し方にはそれぞれふさわしい申しようがございます。
 ひかるさまは、私のような女に抱きしめられるのは、慣れておいででしょう。わかります。でも逆はそれほどでもないご様子」
 突っ込まれてもペースを崩さない。さすがは女中頭だった。
 「おっしゃるとおりです」
 「慣れないことを避けてばかりでは、もうじき私にさらわれてしまうことでしょう。もっとも、ひかるさまも、それをお望みのようですけれど」
 「橋本さんが――」
 その瞬間、ぴしゃりと、
 「美園、とお呼びください」
 素晴らしい威厳だった。
 「――美園さんが、なにを望んでいらっしゃるのか、私にはわかりません。私を陛下にけしかけたかと思えば、私をさらってゆくとおっしゃる。お気持ちをきかせてください」
 「そうやって人の気持ちを忖度してばかりのお心から、迷いを取り除いてさしあげたい、それが私の望みでございます。陸子さまとゆかれるにしろ、私がさらってゆくにしろ、ひかるさまのお心に迷いがなくなるのは同じこと」
 彼女がどれくらい本気なのか、つついてみたくなった。
 「私をさらってゆくとおっしゃいますが、客観的にみれば、美園さんの立場は弱いと思います。
 もし女中頭が護衛官と特別な関係になって、それが公になれば、女中頭はお側仕えから外されるでしょう。それに美園さんは結婚なさっています。仕事と家庭、両方でトラブルになるわけです」
 返答は力強かった。
 「それは弱みではなく、強みでございます。
 もし国王陛下と護衛官が密かに特別な関係を結んで、それが公になれば、どうでしょう? 護衛官は務めを続けるのが難しくなるはず。でも相手が私であれば、露見のあとも、ひかるさまは陸子さまのお側を離れずにいられます。
 家庭のことについて申し上げれば、危険な恋ほど燃えやすいもの。たとえその危険が、自分のものでなくても」
 「そんな卑怯者ではありたくないものですね」
 「ひかるさまが卑怯であればこそ、私は純情ぶっていられます。これが恋の勘定、貸し借りはございません」
 「美園さんのお考えはわかりました。でも、まだわからないことがあります。
 美園さんが私にそこまでかまってくださるのは、私へのご好意からだと思います。それは嬉しく思います。
 私にかまいたくなるそのお気持ちを、『恋』と呼ぶのは、ふさわしくないようです。美園さんは、そのお気持ちをどう名づけますか?」
 「『萌え』です」
 まるで陛下のようなことを、と思ったが、口には出さなかった。



 明日はぜひ平石緋沙子に会おう――しかし朝のブリーフィングで、その希望はかなわないとわかった。
 陛下のスケジュールは、安全上の理由から、ほとんど秘密にされている。重要な行事のほかは、直前になってから出席や参加が発表される。秘密にする相手には、一般の国民だけでなく主催者も含まれ、さらには護衛官さえ含まれる。護衛官が陛下のスケジュールを知らされるのは、当日の朝のブリーフィングのときだ。
 それでも、たいていの日は、公邸から出て公邸に戻る。だから公邸に戻ったときに、平石緋沙子に会おうと思っていた。
 が。
 外房のリゾートホテルの開業式に出席するため、午後から現地に飛び、一泊する。それが今日のスケジュールだった。
 午後1時、公邸そばの陸軍基地から、ロシア陸軍のヘリで移動。
 午後2時、地元の市長や有力者とともに、ホテルの施設や、近くの名所を見学。
 午後4時、陛下の逗留される部屋へ。このあとは、7時からの晩餐会まで、なにも予定が組まれていない。晩餐会は陛下のスピーチもない。気楽なものだ。
 部屋へ向かうエレベーターのなかで、私とふたりきりになったとき、陛下はおっしゃった。
 「こういうホテルって、緊張しない? お金持ちっぽいから」
 「陛下のご実家も、このホテルとそう違わないように思いますが」
 「うん、だからね、いっつも緊張してたよー? ありえねー、って感じ。シンデレラの服と馬車、って感じ」
 陛下のご両親は、11歳のとき、陛下を引き取って親となられた。
 陛下はそれまでは、千葉市の子供の家(孤児院)におられた。陛下は捨て子だった。『陸子』という名前は、千葉市の福祉総務課長補佐が、本人の顔も見ずにつけたのだという。
 「公邸はいかがでしょう?」
 「実家より落ち着くよ。古臭いところがいいよね! 雨戸とかトイレとか。
 お風呂が離れにあるのもポイント高いでしょう。冬なんか、お風呂上がりに渡り廊下を歩くから、凍えそうになったりとかね」
 エレベーターを降りると、お側仕えのメイドの遠野さんが待っていた。彼女の先導で廊下を歩いてゆく。その先のドアの前に、財団の警護部の担当者二人が立っていて、「異状ありません」と私に告げた。それを聞いて私が合図すると、遠野さんがドアを開ける。
 「では、晩餐会の時間にお迎えにあがります」
 「ひかるちゃん、これから忙しいの? ね、遊んで遊んで!」
 「光栄です。お招きにあずからせていただきます」
 室内に入ると、太平洋と海岸線が目に飛び込んできた。
 ホテルの外壁に沿った、細長いアーチ型の部屋で、部屋の中央に立つと、左右の視界が180度を超える。ここの夕日は素晴らしい眺めだろう――と一瞬思ったが、外房だから朝日しか見られない。
 陛下は見晴らしのよい景色を好まれる。しばらくのあいだ、その場に立ったままで、景色を楽しんでおられた。
 「……これで夕日が見れたらなー」
 「私はさきほど、ここの夕日を想像してしまいました」
 陛下は声を立ててお笑いになった。そこへメイドの遠野さんが、
 「陸子さま、お召し替えを用意してございます」
 「あ、待たせちゃってごめん」
 遠野さんがジャケットとスカートを脱がせ、ブラウスのボタンを外す。
 私の目はいつのまにか、そのブラウスに吸い寄せられていた。
 「ひかるちゃん?」
 いつもと少し調子の違う、陛下のお声。
 「はい」
 「なんでもない」
 そのお顔も、いつもよりまぶたが重そうで、そう――あのときのお顔だった。
 見抜かれている。
 コットンのサマーセーターと、足が透けて見えるほど薄いスカートを召されると、陛下はソファにお座りになった。私は向かい合わせに座る。
 陛下は、人と相対するとき、机やテーブルを挟まないようになさる。この部屋も陛下のお好みにあわせてある。テーブルが、ソファそれぞれの左右に置いてあり、前にはない。
 「こーんないい部屋に、ひとりで泊まるのかー。つまんないの」
 「では私の部屋にいらっしゃいますか?」
 冗談だった。が、陛下ははなはだ真剣なお顔で、
 「いく」
 「もっとも、本当に陛下がいらっしゃいましたら、警護に大穴を開けたということで、私は辞任しなければならないでしょうが」
 「あーっ、すぐそういうこと言うんだ。かわいくなーい」
 遠野さんが茶器をテーブルに並べてゆく。少し遅いが、おやつの時間だ。
 「平石緋沙子は最近どうしていますか? 夢の中学生メイドのご感想は」
 「ひさちゃんはかわいいよ! でも、夢の実現ってなかなか難しいね」
 最初、平石緋沙子は他のメイドと同じように仕事させていた。が、なかなか陛下のお目に入らない。
 まず、遅番だけでも4人いる。お召し物担当、美容担当や女中頭ならともかく、担当のないメイドは、庭仕事や掃除や洗濯など、あまり陛下の目につかない仕事をしている。必ず会えるのは夕食のときくらいだ。さらに、労働法の制限により、平石緋沙子は午後9時で帰ってしまう。
 そこで陛下は、平石緋沙子本人に相談なさった。
 「ひさちゃんがいうには、私をコンパニオンにしなさい、って。
 コンパニオンってなに? お水の仕事? ってきいたら、レディの話相手とかする仕事だって。でもそれってメイドじゃないでしょう? ひさちゃんも、そうだって言ってた。コンパニオンがハウスメイドの格好をしてたらおかしい、って」
 「和風建築の公邸にメイドがいるのですから、いまさら細かいことを気にしても仕方ないと思いますが」
 「そうなんだよね。だから、ひさちゃんに、格好はそのままでコンパニオンになってもらったんだけど――」
 隣の部屋で控えていて、呼ぶと来る。ゲームを一緒に遊んでくれる。学校の勉強を教えてあげることもあれば、英語を教えてくれたりもする。が、なにかが違う。
 「ひさちゃんのコンパニオンって、友達みたいなもんなんだね。私は、もうちょっと、なんだろ、お母さんみたいなことをしてほしいんだけど――」
 8つも年下の子供に、『お母さんみたいなこと』を求めてしまえる、陛下の飾らないお心。尊敬に値するといえば嘘になるが、私はどうにも、陛下のこういうところにも惹きつけられてしまう。
 「――あ、お茶をいれてくれるのって、お母さんみたいだね。遠野さん、いつもありがと」
 陛下は、お茶の用意をしていたメイドの遠野さんに、ねぎらいの声をかけられた。
 「陸子さまのお褒めとお気遣いにあずかり、身に余る光栄です」
 この瞬間、私は気がついた。
 『ひかるちゃん』『ひさちゃん』『遠野さん』。女中頭のことは『橋本さん』、お召し物担当のことは『大沢さん』。
 私と、平石緋沙子だけが、ファーストネームにちゃん付けだ。
 心のなかの嫉妬メモに、このことを書きつけた。彼女に会ったときにぜひ言おう。そう決心すると、あまり動揺もせずに済んだ。こうしてみると、彼女の提案は、そう馬鹿にしたものではないかもしれない。
 遠野さんがカップにお茶を注ぐと、鮮やかな香りがたちのぼった。
 会話が途切れたとみたのか、遠野さんが言った、
 「その平石さんですが、本日ついさきほど、TVに出演しました。こちらに録画が用意してございます。ご覧になられますか?」
 「TV? 見せて。またなんか悪いことして逮捕されたのかな?」
 すると遠野さんは、ぷっと吹き出し、そのまましばらく腹を抱えて、笑いをこらえていた。私にはなにが面白いのかわからなかったけれど、同僚だからわかることもあるのだろう。それとも、録画を見ればわかるのかもしれない。
 「……失礼しました」
 遠野さんがリモコンをいくつか操作すると、房総テレビのワイドショー番組が途中から映し出された。視聴者のリクエストに答えて、さまざまな労働現場で働いている人に生放送でインタビューをする、というコーナーだった。シベリアの石油パイプラインや遠洋漁業の漁船のような、一般の人の目に触れない労働現場がよく取り上げられている。今日の労働現場は、国王公邸。
 インタビューは、公邸の庭にカメラを入れて行われていた。画面に映し出された平石緋沙子は、生で見るよりも年相応らしく見えた。陛下のほうがだいぶカメラ写りがいい、ということもわかった。ただ陛下は、カメラに応対する訓練を受けておられるうえ、経験も豊富なので、不公平な比較かもしれない。それでもやはり、平石緋沙子のそっけない雰囲気よりも、陛下の大げさな身振りや表情のほうが、TVカメラには向いていると思う。
 『国王公邸でアルバイトをなさっている、平石緋沙子さんです。ではさっそく、質問です。国王公邸では、何人くらいの人が働いているんでしょう?』
 『特にイベントのない日には、16人前後が働いています。早番・昼番・遅番の勤務シフトがあるので、16人が朝から夜まで働くわけではありません。内訳は、私たち女中が8人、料理人が2人、警備員が6人です。そのほか庭師なども必要に応じて来ていただいています』
 『国王公邸で働く人は原則として全員フルタイムで採用されているそうですが、平石さんだけ特別にパートタイムで採用されているそうですね。どうしてでしょう?』
 『私が中学生だからです。私の歳ですと、専門の職業教育を受けていないということで普通は採用されませんが、私はイギリスでクリーニングスタッフをしていましたので、採用していただけました』
 『普通の中学生では、国王公邸で働くのは無理ですよね』
 インタビュアーは驚いた顔もせず、『普通の』のところを視聴者に強調してみせた。イギリスで働いていた、というところは突っ込まずに流してしまう。財団の広報部が書かせた筋書きだろう。
 仕事内容について何度かやりとりをしてから、
 『平石さんは国王陛下のお側で働いていらっしゃるわけですが、そういう立場からみて、陛下はどんなかたでしょう?』
 魔法をかけたように、花が咲くように、平石緋沙子の表情がほころんだ。
 『素敵なかたです。この仕事の一番の魅力は、陸子さまにお仕えできることです』
 『マスコミの人間からみると、陛下は大変親しみやすいご気性であられますが、お側で働いていると、どう感じますか?』
 『想像以上でした。本当に誰の名前でも覚えておられて、会うたびにお声をかけてくださいます。あまりのお気遣いに、こちらの胸が痛くなるほどです』
 目が潤んでいる。まさに恋する乙女だ。
 『では最後に、国王陛下へのメッセージをどうぞ』
 『お慕い申し上げております、好きです、陸子さま』
 インタビュアーは一瞬固まったが、
 『……以上、かわいいメイドさんへのインタビューを、国王公邸からお送りしました』
 画面がスタジオに切り替わり、
 『いや、若いって、いいですね』
 『私も、あんな青春を送りたかったですね。うらやましいです』
 CMに切り替わった。遠野さんがTVを切った。
 「ひさちゃん、かっわいーいっっっっっ!」
 両の拳をふりまわして、陛下は感動を表現なさった。
 「そうだ、ひさちゃん呼ぼう! この部屋に一緒に泊まってもらうの」
 「公邸からここまで、車や電車では2時間はかかります。彼女は明日も学校でしょう」
 「こんなことがあったんだから、ヘリ飛ばしてもらってもいいじゃない」
 「まずは電話で本人とお話しになられては」
 「……ふーん?」
 声のトーンが、微妙に変わる。まぶたの重そうな目。私はあわてて、
 「陸子さま、これは――」
 護衛官は『陛下』と呼ばなければならない。遠野さんが横にいるのに、思わず『陸子さま』と言ってしまう。
 「ま、とりあえず電話しよっか。――あ、早ーい。さすがー」
 遠野さんはさっそく携帯で公邸と話しはじめていた。ほどなくして平石緋沙子の声が聞こえた。陛下は携帯を受け取ると、
 「ひさちゃん、いまTVみたよ! すごいすごいすっごいかわいかった! 私もひさちゃんのこと好きだよ愛してるよ大好きだよ!」
 私は心の嫉妬メモにしっかりと書きつけた。
 「私がいまどこにいるか知ってる? 外房のホテルなんだけど、ひとりで泊まるとつまんないから、ひさちゃんに来てもらおうかなーって。……やった! すぐ足を手配するから、そっちで待ってて。乗り物は、ヘリでいい? ……うん、待ってるからね」
 陛下は電話を切ると、
 「遠野さん、ヘリをなんとか回して。できるだけ早く。明日の朝の分も」
 「承りました。ただ、努力はいたしますが、ご希望には沿いかねるかもしれません」
 遠野さんは部屋を出ていった。
 私はようやく一息ついて、ポットからお茶を注いだ。お茶は冷めていた。
 陛下はおっしゃった。
 「ひかるちゃんの部屋に泊まるんだったら、呼ばなかったのにね?」
 どう返答したものか、少し考えた。
 私は珍しく、陛下に対して、苛立たしい気持ちになっていた。嫉妬をかきたてられたせいだろうか。いや、そうではない、と思える。
 「……恐れながら申し上げます。
 私は、陛下の慰みものにしていただけるだけでも、幸いでございます。ですが、平石緋沙子を私と同じように扱うのは、おやめください。
 私は純情とは程遠い人間ですが、彼女はあのとおりです。守ってあげるべきではないでしょうか」
 陛下は目を丸くなさった。
 「うわ、ひさちゃん、すごいなー。魔性の女だ。ひかるちゃんを取られちゃうかも。
 ま、そうなったら、ひさちゃんには辞めてもらうけどね。ひさちゃんが辞めても、ひかるちゃんは辞めないでしょ?」
 陛下は、人の苦しみへの同情をけっして惜しまないかただが、時として、人間の感情に対してきわめて冷酷な態度をお見せになる。捨て子として子供の家でお育ちになったせいかもしれないと、私は思っている。
 「なんと申し上げてよいのかわかりませんが――」
 「ひかるちゃん、いま私のこと、『育ちの悪い奴だなー』って思ったでしょ?」
 そして、人間の感情に対してきわめて敏感でもあられる。
 嘘をつくのは簡単だった。陛下はこういうことにこだわるかたではない。ただ、つきたくなかった。
 「……はい。ですが、だからといって――」
 「私は気にしてるけど、ひかるちゃんは気にしないで。
 それ、みんな思ってることだから。ひさちゃんなんか露骨だよ。だから、ひかるちゃんは気にしないで。私は気にしてるけどね」
 「陛下、恐れながら――」
 陛下は眉を寄せ、唇をとがらせて、おっしゃった。
 「ひかるちゃん、さっきから言い訳してばっかり」
 「……申し訳ございません」
 陛下はソファから腰をあげられ、その場でくるりと半回転なさると、私の隣にお座りになった。肩が触れたので、私は身体をずらして、陛下のための空間を作った。
 「あ、逃げた」
 陛下も身体をずらして、私の作った空間をなくしてしまわれた。
 「恐れ多いことでございます」
 「ひかるちゃん、笑って?」
 陛下はこういうことをよくお望みになる。その慣れで、私はとっさに作り笑いをした。
 「もっと。目をうるうるさせて、頬を赤くするの」
 その陛下のお顔は、まぶたの重そうな、あのお顔だった。
 「私の服の匂いを、かいでるときみたいに。
 ――そう。そういう顔」