2004年04月22日

口にできないこと

 「おそらく、最も人の怒りを買う主張は、真実であるかもしれないと恐れられている主張だろう」
 逆にいえば――ある主張に対して怒ってみせることで、それが真実かもしれないという恐れを生み出すことができる。
 私の知るかぎり、このほうがはるかに一般的なケースだ。中世においては、無神論者はなかば想像上の存在であり、言及されることは多くても実在するかどうか疑わしいものだった。「自分は無神論者だ」という主張がまじめに受け取られるには、いくらか努力を要したはずだ。が、聖三位一体の否定は、わずかの苦労で激烈な反応を呼び起こすことができた。
 いま、聖三位一体を肯定するにせよ否定するにせよ、そのなかに重大な真実があるという考えは流行らない。では、聖三位一体をめぐる問題は、ちょっとした歴史の偶然からくるある種の自然災害であり、人間のなかには原因を求めることができないのか? そうではない。それは明らかに、必要なものだった。もし聖三位一体が問題にならなかったとしたら、別の対立軸が浮かび上がり、同じような役割を果たしただろう。
 こういう種類の、真実らしく見えるものを、「政治的真実」とでも呼ぼう。
 政治的真実の裏をかくには、おそらく、独特の才能がいる。目標に向かってまっすぐ歩いているつもりが、同じところをぐるぐると回ってしまっている、というような。だが、その円周の軌道がいつのまにか、目標そのものを無に帰してしまうのだ。
 百合は、そういうものであってほしいと願っている。

Posted by hajime at 2004年04月22日 05:44
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