香田証生氏の死は、感想を抱くのがなんとも難しいものだった。
すべての人が死ぬべくして死ぬように、彼もまた死ぬべくして死んだ。多くの人々は老いによって死にゆっくりと近づいてゆくが、彼は愚かさによって死に急速に近づいていった。もし彼の愚かさが滑稽だとしたら、人が老いることも滑稽だろう。
彼の死になんらかの感想を抱きにくいのは、それがなんともあけすけに、死そのものであるからだ。
老いと死のペアは重々しいドラマになるし、運命と死もまた同様である。が、愚かさと死はどうか。「運命」のような観念を一切排除した純粋な愚かさを、死と組み合わせたとき、どんなドラマが生まれるだろうか。なにも生まれない。生まれるところか、組み合わせることさえできない。
純粋な愚かさは、純粋な自由の領域にのみ存在する。もしその自由がわずかでも歪められているなら、愚かさは「運命」の臭いを発するだろう。純粋な自由は、死と触れ合うことができない。そこには死があるか、ないか、どちらかだ。純粋な自由には限界はない。私たちが普段暮らしている、不純な自由の領域で感じられるような、「ここで生が終わり死が始まる」といった界面は存在できない。
つまり、純粋な愚かさと死のあいだには、どんな相互関係も想定することができない。
彼の愚かさは、きわめて純度が高く、傍目にはほとんど純粋と見える。だから彼の死をなんらかのドラマで飾ることはできない。だから彼の死は、彼の愚かさと同じくらい純粋な、死そのものとして認識するほかない。
人はみなあのように死ぬ。なるほど、人は死ねばみなホトケになるというのは、もっともらしい話だ。