2004年12月03日

『天空のシンフォニア』

 DQ8が流行る今日この頃、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。私は『天空のシンフォニア』というエロゲーをやっている。マップ戦闘育成系のゲームで、明らかにコンシューマ移植を前提としたギャルゲーである。あと半年もすれば、PS2版がフルボイスで出るだろう。
 現在ミルフィー(メインヒロイン)をクリアしたところだ。デウス・エクス・マキーナを積極的に使う、エロゲー独特の筋だった。
 が、ミルフィールートのデウス・エクス・マキーナには、すっきりしないところがある。なにがどうすっきりしないのか、今から説明してゆこう。
 デウス・エクス・マキーナは2000年以上の歴史を誇るが、アリストテレス以来、その地位は不当に貶められてきた。だが今日、オタク文化のあちこちで、デウス・エクス・マキーナ復権の火の手が上がりつつある。TVアニメや大部数まんがのようなハイ・カルチャーにはまだ浸透していないが、エロゲーやBLのようなロー・カルチャーではすでに一定の地歩を築いている。
 もちろんBLにおけるデウス・エクス・マキーナとは、「強姦されてハッピーエンド」のことだ。エロゲーにおいても同様にある一定のパターンが抽出できるはずだが、面倒なのでここではやらない。(そもそも「デウス・エクス・マキーナ」という言葉自体、ギリシャ悲劇からある一定のパターンを抽出して作られたものだ)
 復権したデウス・エクス・マキーナは、まさかその名のとおりに大道具で神を表現するわけではない。だいたい神からしてあまり流行らない。いまや神にかわって万能なのは、愛である。
 愛がかつての神の座にあることは、どの分野でも同じだが、エロゲーとBLのデウス・エクス・マキーナのあいだには、決定的な違いがある。
 エロゲーは、絶望を完結させるために、つまり「泣き」を表現するために、デウス・エクス・マキーナを使う。対してBLは、愛を愛として存在させるために、つまり救済を表現するために「強姦されてハッピーエンド」を使う。エロゲーはカタルシスを志向し、BLは信仰を志向する、と言ってもいいだろう。
 『天空のシンフォニア』のミルフィールートがすっきりしないのは、「泣き」のはずのところで救済に引きずられているからだ。
 デウス・エクス・マキーナには、物語の行き詰まりが必要だ。アリストテレスは「行き詰まりを打開するためにデウス・エクス・マキーナが登場する」というが、まったく逆である。デウス・エクス・マキーナを必然にするために、行き詰まりを作り出すのだ。
 が、ミルフィールートでまさにデウス・エクス・マキーナが登場するとき、主人公はまったく行き詰っていない。主人公の主観的にはなんら不条理ではないので、救済としても読めない。「強姦されてハッピーエンド」は不条理だからこそ救済たりえるのだ。ミルフィールートはそこの区別がついていない。
 ギャルゲーは少女まんがの影響下にあるため、こうした引きずられ現象がしばしば見られる。自戒をこめて注意を促したい。

Posted by hajime at 2004年12月03日 05:55
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