2005年08月24日

あとがきにかえて

 悪い作品をあとがきで救うことはできないが、よい作品をあとがきで傷つけることはできる。だとすれば、あとがきなど、書くべきではない。しかし私はこうして書く。
 ホラティウスの『詩論』によれば、つまらない詩は存在することを許されない。つまらない食料でも腹は満たせるが、つまらない詩は人をいらだたせるだけだから、と。
 存在を許されないもの。
 あえて極端な二者択一を仮定しよう。存在を許されることと、許されないことと、どちらかを選ばなければならないとしたら? 私は、後者を選ぶ。
 存在を許されないものはみな私の友である。私は、彼らを弁護したり、神に代わって許したりはしない。ただ彼らの友でありたい。私は、たとえ行く先が天国であろうと、友を置き去りにしては行かない。
 作品が神に捧げられるのだとしたら、あとがきは友情に捧げられる。我が友フィガロとの友情に、この一文を捧げる。



 波多野陸子について。
 「民営国王」や「抽選制国王」というアイディア自体は古い。たとえばジョシュア・ノートンは、19世紀アメリカに実在した狂人である。アメリカ合衆国皇帝を自称する、サンフランシスコの有名人だった。
 また、チェスタトン『新ナポレオン奇譚』。この小説に描かれた1984年のイギリスでは、国王が抽選で選ばれる。
 ヨーロッパにおける王権の衰退が、こうした発想を生み出し、人気のあるものにしたのだろう。その後はこうした発想をきかない。王に正統性を求め、正統性に血統を求める――いまではこの考えはすっかり自明のものとされ、まったくと言っていいほど挑戦を受けていない。
 では私がやろうと思った。
 これは営業的には自殺行為に近い。男が男らしく、女が女らしく、王が王らしくあること――もし世界が百人の村だとしたら(これはいい表現だ。死語にするのは惜しい)、九九人までもが、そのような作品を求める。たとえば『ハリー・ポッター』はその極みだ。ジョシュア・ノートンや『新ナポレオン奇譚』は、王が王らしさを失っていった時代だからこそ、受け入れられた。
 だが私は自殺志願者ではない。ラクダを針の穴に通すくらい難しいが、勝算はある。
 王座と王宮と大臣を、大道具と衣装と音楽できらびやかに飾れば、王は王らしくなるのか。なる。パイプ椅子とジャージとハーモニカでも、「王らしさとはなにか」を伝えることはできるだろう。が、その光景自体はけっして王らしくならない。だからフィガロで私は1000万円の予算を要求した。
 王座と王宮と大臣を、本物に似せれば似せるほど、王は王らしくなるのか。いや、ならない。「らしさ」は、形を似せることでかえって失われる面がある。うまく似せるほど、似ていない点が目立つ。
 これら二つの原理のはざまに、波多野陸子の王らしさが立つ余地がある。
 九九人を捉えることはできないが、三〇人なら自信がある。しかもその三〇人のなかには、九九人に入らなかった一人が含まれている。この一人を抱きしめない作品を、私は作ろうとは思わない。
 王らしさにもバリエーションがある。
 現在の日本では、イギリスのエリザベス女王と昭和天皇が主に「王らしさ」のモデルを提供している。エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世もいくらか影響力を残しているかもしれない。が、ほかにも王らしさのモデルはある。私が選んだのは、エリザベス女王の妹、マーガレット王女だ。
 マーガレット王女は、イギリスの大衆紙に他愛ないセックススキャンダルをしばしば提供し、イギリス王室の問題児として知られていた。が、歴史的にみれば、セックススキャンダルはまぎれもなく、王らしさの一部をなしている。
 もちろん、マーガレット王女の王らしさはそれだけではない。こんな逸話がある。
 あるパーティーで、テーブルの上に高く積み上げられたグラスの山を、給仕が倒してしまった。会場にはグラスの割れる音が響き渡り、その直後、会場は静まり返った。白い目に囲まれ、我を失う給仕。その瞬間、マーガレット王女が突然、『Happy Birthday To You』を歌い始めた。歌声の主が誰かわかると、すべての客が歌に加わった。歌が終わると、客はみな何事もなかったかのように歓談を再開した。こうして客も、給仕も、幸せになった。


 林三千歳について。
 最初は単に、トップクラスの吉原女郎が不老不死になって現在も生きている、というところから始めた。近世の闇から生まれた女。ごく単純な発想だ。
 が、時代考証をしてみると、事は複雑になった。
 近世の闇から生まれた女が、元禄からずっと生きているのでは、ピントがぼやける。どんなに早くても化政期が限界だ。もちろん黒船以降にするわけにもいかない。とすると彼女は、吉原没落の時代に、女郎としてのキャリアを歩んだことになる。吉原が、現在の売春業に通じる、「早い・安い・確実」の波へと飲み込まれていった時代に。
 こうして彼女に、強い虚栄心が与えられた。トップクラスを目指すのは、厳しいうえに見込みのないキャリアだったのに、あえてそれを求めたのだから。
 私はそれまで、虚栄心を意識してキャラを構想することはなかった。考証のおかげで新しい視点を得たわけだ。
 考証からの影響は、話し言葉にも表れている。
 売春は高級なものほど言葉の比率が大きい。その言葉も、低級なものは決まり文句に終始し、高級なものは創造性にあふれている。ある程度以上に高級になると、金だけでは割り切れない領域に入る。
 トップクラスの女郎は、この領域で働いていた。言葉には自信があったはずだ。話すだけではない。手紙も大きな役割を演じた。
 それなら、高級女郎の書いたものも、多く残っているだろう。そう思って調べてみたところ、愕然とした。ゼロではないが、驚くほど少ない。高級女郎についての一次資料は、大半が客の書いたもので、女郎屋の息のかかったものが少々(遊女評判記など)。高級女郎自身の手になるものはおろか、その息吹を感じられるものさえ稀だ。
 私は、近世の闇を甘くみていたことを思い知った。真の闇からは沈黙しか出てこられない。
 こうして、林三千歳は無口なキャラになった。
 言葉への矜持は、林三千歳をプロスペローに結びつけた。
 かつては一国の王であり、いまは万能の魔法使いでありながら、敵と和解することだけはできなかったプロスペロー。彼は、敵と和解するために、魔法の力を駆使して大騒動を起こし、さらには魔法の力を捨てた。映画『プロスペローの本』(ピーター・グリーナウェイ監督)では、その魔法は、言葉としてシンボライズされている。
 プロスペローは、娘のミランダが成人するころには、敵と和解することができた。対するに林三千歳は、140年ものあいだ地上をさまよった。なぜか。理由が要る。
 ひとつには、彼女にはミランダがいなかった(逆にいえば、ミランダを設定してしまうところに、シェイクスピアの男らしい手ぬるさがある)。もうひとつは、彼女が和解できなかった相手とは、敵ではなく自分自身だった。140年も生きる人間はいないが、彼女自身はそうではない。


 安西広重について。
 歴代のローマ教皇には、素晴らしい顔の持ち主が多い。特にヨハネ23世はピカイチだ。もし少しでもオヤジに興味があるなら、ぜひ見るべき顔である。マフィアのボスか、さもなければ教皇、それ以外ではありえない、という顔だ。
 安西広重にはピウス12世をあててみた。ヨハネ23世のようなスケールの大きさはないものの、フィガロに似つかわしい、繊細な味わいのオヤジである。もしこんな顔の大物ヤクザがいたら、きっと日本はもっと楽しくなるはずだ。


 川井文について。
 そういえば、名前の由来を解説するのを忘れていた。「波多野」「陸子」「林」「文」にはこれといって由来はない。「三千歳」は、歌舞伎の『天衣紛上野初花』のヒロインから。「川井」は民法学者の川井健から。
 主人公・佐藤初雪の愛を争う(というわけでもないが)人々は、魔法使い、国王、マフィアの指導者、みないっぱしの権力者だ。ただひとり川井文だけが、なんの権力も持たない。おまけにサブキャラである。だから、おそらく全キャラ中で彼女が一番人気だ。
 だから彼女には、私が友情を捧げすぎる必要もないだろう。言うべきことの大半は、『チェリスト』のなかに書いた。あとは、作品としてでなければ言えない。


 設楽光について。
 おそらく全キャラ中もっとも幸福な人だ。背負わされるものもなく自由に育ち、愛する人(波多野陸子)に出会った。愛する人のそばに、それも文字どおり物理的にそばにずっといて、その人を支えることだけを使命にしている。毎日が命がけで、脚光を浴びる仕事でもあり、しかもそれほど忙しいわけではない。おまけに公務員なので失業はない。いったいどうすれば、これより幸せになれるだろう。
 彼女のこの幸せは、もちろん、波多野陸子の王らしさを示すためのものだ。
 波多野陸子がロリコン(ストライクゾーンは中学生)を半ば公言しているのも、もしかすると、彼女のためかもしれない。もし設楽光が、自分がストライクゾーンに入っていることを知ったら、「長いあいだには、なにが起こるかわからない」と考えるだろう。その「なにが起こるかわからない」というプレッシャーが、設楽光の幸せに影を落とすだろう。セックススキャンダルは王らしい行いだが、その相手が設楽光では、彼女の辞任を招く。
 連載中、更紗さまから、「どうすれば二人は結ばれるのか」と尋ねられた。私は関係の安定性を理由に、そっけない答を返してしまった(このそっけなさは、字数制限も大きな理由である。この日記を読むのは読者諸氏の好き好きだが、更紗さまが私の書簡を読むのは義務だったのだ)。ここでもう少し考えてみたい。
 記憶喪失と時間経過。連載では、フィガロのトーンにあわせて上品なものを選んだが、もっと下品でよければ手はまだある。
 たとえば。陸子が脱いだ直後のワンピースを、かき抱いて匂いをかいでいる光。そのありさまを、陸子は物影からしばし眺め、そのあとで、「ひかるちゃーん、見ちゃったよー?」と声をかける。これは破局を招く行いだが、陸子もまた、光にやみがたい性欲を覚えていたのだ。そのときから陸子の言葉責めの日々が始まった――(本物の女王様、というわけだ)
 あるいは。風邪で高熱を出し、朦朧としている陸子。テロリストに襲われて急所を刺された、というシーンを夢でみて、目を覚ますと、光がひとりでそばにいた。夢からは覚めたものの、まるで自分がもうすぐ死ぬかのような錯覚に陥っていた陸子は、「キスして」と頼み、光はそれに応じる。さらに――「ひかるちゃんの指、なめさせて」――「ちょっとだけど、気持ちよくしてあげるね」――と続く。熱がひいたあとも、光はもちろんのこと陸子も、このことを覚えており――(記憶喪失をひねっただけだが、ずいぶん下品になる)
 なるほど、この二人は、なかなか妄想カロリーが高い。


 佐藤葉桜について。
 彼女の孤独さについて書く機会がなかった。これを伝えなければ彼女のキャラデザは不可能だと気づいたときには、すでに時遅しだった。時間切れになったのは、更紗さまではなく私である。いまさら手遅れだが、ここで触れておきたい。
 アウトローの孤独は恐るべきものだ。どれほど成功しても、この孤独から逃れることはできない。イタリア式マフィアが組織を「ファミリー」と呼び、日本の暴力団が上下関係を親子関係に擬するという事実は、彼らの孤独を如実に示している。
 佐藤葉桜も例外ではない。彼女が妹を溺愛するのも、その孤独さが一因である。
 川井愛もそうだが、堅気の人々とは、人間への感性が違う。「カモは食われる」、「精神的なダメージを恐れない」という原理が、血管のすみずみにまで行き渡っている。現在の日本人が自由と平等を奉じるのと同じくらい、これらの原理を自分のものにしている。
 だから、溺愛する妹を、(たとえ国王とはいえ)女をたぶらかすために送り出すことができる。アウトローでなければ、妹が傷つくのを恐れて、こんなことはできないだろう。
 名前の由来は、「葉桜」は初雪からの連想、「佐藤」は元首相から。退陣の際の記者会見で、「新聞は嘘を書く」と言って記者とスタッフをすべて追い出し、会見場にTVカメラだけを置いて会見を行った、あの繊細な人である。バックストーリーからはまったく見て取れないだろうが、実は彼女にはそういう繊細なところがある。


 佐藤初雪について。
 「初雪」はとっておきの名前である。山田圭子『ゴーゴーヘブン!!』の主人公、白雪ミシャエラ紅玉から連想した。
 初雪。おいそれとはつけられない大看板だ。いまにして思えば、この看板にふさわしい最強を求めるあまり、手が縮んだかもしれない。
 最強を求めた結果、久美沙織『丘の家のミッキー』の主人公・浅葉未来に範をとった。現代最強の少女のイメージは『赤毛のアン』というのが相場らしいが、アンとダイアナの運命を思うと、浅葉未来のほうが上だ。もし『赤毛のアン』ほど先まで話が続いていれば、こちらも辛いことになっただろうが(特にトコ)、現に書かれていないので、こっちのものだ。
 潔癖で上品志向。浅葉未来に倣った点は多いが、もっとも影響が大きかったのは、この点だ。私のお高くとまった芸風とあいまって、フィガロ全体のトーンを極端なものにしてしまった。そのうえ気の短さを削ったので、キャラとしての掴みが弱くなってしまった。
 主人公は薄味のほうがいい。もし川井愛が主人公だったら、誰もついていけない。が、掴みは濃さとは別のものである。たとえば波多野陸子は掴みの強いキャラだが、主人公が勤まる程度には薄味だ。
 今後フィガロがもしなにかにつながるのなら、佐藤初雪というキャラは仕切り直すことになるだろう。初雪という名前はやはり大看板すぎた。
 となれば、いまこの場では、ありったけの友情でもって、彼女を抱きしめよう。
 連載にも書いたとおり、彼女は、フィガロのなかで私がもっとも愛したキャラである。私は、世の常の人と同じく、接することの多い人を好きになる傾向がある。また、多くを与えた人を好きになる傾向がある。彼女は主人公なので、接する機会はもっとも多かった。少なくとも名前と使命だけは、私の知るかぎり最上のものを、彼女に与えたと思う。
 彼女の使命は、彼女の名前と同じく、私の手にはあまるものだった。
 「信用されることを信用される」という使命は、言葉の上では難解だが、すべての人々が暗黙のうちにやっていることだ。私はこういうものを明示的に表現するのが大好きだ。暗黙の曖昧さのなかでしか生きられない妖怪に、縄をうち、理性の光で照らすことのできる形にこねあげ、試験体にして観察するのだ。こんなことをしても、妖怪を根絶することはできないが、妖怪の妖怪らしさを削り取ることはできる。
 だが、この妖怪は巨大だった。
 このメタ信用ゲームは、人々の意識を構成する基礎部品になっている。愛について論じてもロマンチストと思われるだけだが(私に言わせれば、論じない人のほうがよほどロマンチストだ)、いわゆる「社会人」はみな毎日のように信用について論じている。愛について論じるときは、詩的な省略があっても見逃してくれるが、信用はそうはいかない。貨幣と資本について論じるのと同じレベルの論理的な綿密さ、莫大な量の前提の共有、そして飽きることなく論を追う聴衆が要る。これは物語にできることではない。いや、できるかもしれないが、私にはできなかった。
 私は理屈っぽい子供だったので、王や権力について考えることも多かった。振り返って思えば、拙い思考だった。いまでは、王や権力についてはいくらか格好がついてきたものの、やっていること自体は、あのころとまったく同じように拙い。王や権力がメタ信用ゲームに、説明が物語に代わっただけだ。
 どういう一致か、更紗さまもまた最上のものを、彼女に与えてくださった。更紗さまのキャラデザの白眉は、彼女だと思う。たとえ一つでもこのデザインが得られるなら、フィガロを何度やってもいい。
 友よ、赦してほしい。私はあなたを飾るだけで、生かすことはできなかった。


 川井愛について。
 私はまだあきらめていない。この怪物の生きるべき場所は、必ずこの地上にある。
 理屈から生まれた怪物である。理屈とはこうだ。クンデラ『不滅』の主人公・アニェスが、自分の思いを行動に移したら――「そんな馬鹿な」と思う人は、近代の生まれを知らない。そういう人はきっと、「クメール・ルージュの虐殺は、妄想を実現するためのものではなく、権力を維持するためのものだった」と思っているのだろう。時と場所を得れば、妄想は現実へと噴き出す。アニェスの思いも例外ではない。
 とはいえ、ありそうもなさでは、川井愛はクメール・ルージュの上を行く。生まれたばかりの娘を置いて、自由を求めて失踪し、しかもそれに成功した女。
 産後の身体は、ホルモンや神経伝達物質のバランスが嵐のごとく乱れるため、一貫性のある建設的な意思決定は難しい。初産ならまず不可能だ。これはいわば、弁慶が母の胎内に18ヶ月いたという伝説のようなものだ。ありえない怪物には、ありえない出生が必要になる。もしポル・ポトがこういうありえない生まれかたをしたのだったら、彼の存在はもっと穏当なものに感じられただろう。川井愛はポル・ポトとは違って、物語のなかに生を享けたので、このあたりの角は丸くせざるをえない。
 だが、この怪物がおとなしくしているのはそこまでだ。彼女は、「怪物」という枠の中にとどまってはいない。
 あなたの隣人として、あるいは、あなた自身の母であったかもしれない女として、川井愛は、しなやかに動き回る。
 あなたの手を取り、ダンスに誘う。
 やれやれ、といわんばかりの疲れた後ろ姿で、肩をすくめる。
 微笑み返すことしかできないような、卑怯なまでの笑顔を、投げかける。
 だがどうやら、その機会は、しばらく訪れそうにない。
 もしその日がきたときには、どうか川井愛を、あなた自身の母として感じていただけますように。すべての母親は、どこかに川井愛を置き去りにしてきたのだと、私は信じている。置き去り――ちょうど川井愛が、自分の娘に、そうしたように。


 では、友よ、しばしの別れだ。
 私はあなたを忘れるかもしれない。だが焦らずに待っていてほしい。なにしろあなたは死ぬことがないのだから。私もいずれ、二度と死ぬことのない存在になったときには、あなたのことを思い出すにちがいない。

Posted by hajime at 2005年08月24日 22:55
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