http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20050829#1125327476
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20050829#1125332167
いい機会なので一言しておきたい。
私の知るすべての声オタは、「堀江由衣にはちんこが生えている」との共通見解を抱いている。私は声オタではないが、同じ見解を抱いている。
これはもちろん、解剖学的な事実をいうものではないし、トランスセクシュアルだというのでもない。演技の発想、キャラクターの解釈が、「ちんこが生えている」という隠喩がぴったりくる、という意味だ。
たとえば、To Heartのマルチをショタくさく演じるという発想。あれは私にとってはコペルニクス的転回だった。ロボットだから中性的に演じる、という手は常にある。セリオが無性的なのに対してマルチは両性的、という手もやはり合理的である。が――想像を絶する発想だった。
少し急ぎすぎた。話を戻して、「ちんこが生えている」という隠喩の示すところを私なりに述べたい。
精神分析における男根の乱用にみられるように、「ちんこが生えている」という隠喩は、文脈を限定しなければほとんど意味をなさない。この文脈では主に、ヴァルネラビリティとコケットリーのありかたとして用いられている。
ショタ物がお好きなら、ヴァルネラビリティとしてのちんこの意義がおわかりだろう。内面を暴露する表示の機能(勃起・射精)と、内面を揺り動かす感受性の機能(性感帯)。これらはまさに弱点である。この弱点が、コケットリーとして働く。
(ちなみに、80年代にあれほど流行した触手が滅びたのは、ヴァルネラビリティとしてのちんこの意義を欠くものだったから、という理由が大きいと思われる)
ショタ的な演技は、ヴァルネラビリティとしてのちんこと結びついている。堀江由衣は、ごく当たり前のヒロインを演じるときにも、コケットリーを出す方法として、ショタ的な演技をよく使う。「コケットリーを出す方法として」、というところが重要だ。ただなんとなくショタくさいのではなく、それをコケットリーに使う、という点が重要だ。そこをとらえて、「ちんこが生えている」と言うのだ。マルチをショタ的に演じるという解釈も、さきほど説明したような蓋然性をたどって出てきたものではなく、「ショタ=コケットリー」という発想がまずあったとしか思えない。
さて諸君、残念な知らせがある。
堀江由衣が、長年にわたって、正統派メインヒロインを演じる声優として通用しているという事実。これは、男がどれほどちんこを好きかを示している。
かつて私が百合の普及発展を思い描いたとき、こんな事実は計算に入っていなかった。百合のインフラ面での問題が解決されつつある今日、この事実は、百合の壁として立ちふさがりつつある。