2005年09月05日

Web 2.0

 バズワードはコンピュータ業界の名物である。
 最近のバズワードといえば「Ajax」だった。これがバズワードになったのは、Gmailによるところが大きいだろう。見ることは信じることだ。また、APIと直接に関連しているという点も重要だ。「ソリューション」というのは、「実装については言いたくありません」という意味の専門用語だが、なんらかの「ソリューション」がバズワードになることなどありえない。具体的な実装に近ければ近いほど、それはバズワードになりやすい。
 「CMS」(コンテンツ管理システム)もなかなかがんばっている。WikiとblogとDreamWeaverとバージョン管理システムに分断された世界を統合しようとする試みである。現状のCMSはどれも幼稚なので、これからが面白いバズワードだ。美しいデータモデルを作り上げたものが勝つだろう。
 対して、「セマンティックWeb」や「Web 2.0」のほうは元気がない。
 セマンティックWebのほうは理由は単純で、まだ誰もセマンティックWebを見たことがないし、実装もないからだ。が、10年後には、実装先行の連中(Dave Warnerなど)を打ち負かすだろう。NetscapeもそうやってW3Cに滅ぼされた。W3Cは、デタラメな先行実装を滅ぼし、まともなコードを素早く書ける企業(=MS)に道を開くために生まれた団体なのだ。
 さて、Web 2.0である。
 初めてこの言葉を聞いたとき、なぜこれが人の口にのぼるのか、さっぱりわからなかった。読者諸氏の大半もそうだろうと思う。
 まず、人の目に見えない。これは人々の認知モデルと深く関連しているので、あとで詳しく論じる。
 また、どう贔屓目にみても、APIよりはソリューションに近い。つまり、実装から遠い。Web 2.0には、「とにかく目新しいもの」という意味もあるので、ソリューションよりもさらに実装から遠いとさえいえる。
 が、実際に自分でWeb 2.0的なこと(Referer Hound)をやってみると、なるほどと思えた。Web 2.0とは、プログラマの苛立ちを表現する言葉なのだ。なにに対する苛立ちか。野蛮人の認知モデルである。
 「ディープリンク禁止」「無断リンク禁止」という、野蛮人の風習がある。かつての私はこうした風習を、いわば迷信のようなものだと思っていた。フレームという悪習と同様、特定の状況から発生した誤解の一種であり、取るに足らないものだと思っていた。そうではなかった。これらの風習には、重要で動かしがたい根源がある。それが、認知モデルだ。
 野蛮人の認知モデルによれば、Webページは自我の一部である。
 私の言っていることがわかるだろうか。もし野蛮人を観察したことがあれば、「いまさら」と思えるだろう。そうでない向きのために、もう少し詳しく述べたい。
 同様の事例として古くからよく知られているものに、個人の邸宅がある。一代で財を成した人々が邸宅を建てるとき、機能性や美観とはほとんど関係のなさそうな部分に情熱を注ぐことがよくある。「自我の一部」とはこういうことだ。人間は、機能性や美観のために存在しているわけではない。それと同様に、成金の邸宅のおかしな部分は、機能性や美観のために存在しているわけではない。それは善悪とは無関係に、そうでなければならない。
 自我の一部である以上、それに接するには礼儀が求められる。礼儀を守ることは相手側の義務とされるので、本人は、様式を明示する以上のことはなにもしない。それが「ディープリンク禁止」「無断リンク禁止」という風習の深層だ。
 自我の一部である以上、機能性によって分断することはできない。完全なWYSIWYGの世界である。そのためにはブラウザウィンドウのサイズまでも強制する。セマンティックWebなど、縄文人と量子力学くらいに無縁だ。
 営利企業のサイトではさすがに野蛮人の認知モデルは影をひそめたが、かつてはトップページに無意味なFlashをつけるなどの形でみられた。個人サイトでは衰退の気配さえない。最近のマスコミによるblog・SNSの大合唱も、啓蒙の戦いではないかとも思えてくる。野蛮な邸宅の建設を防いで機能的なWebを、というわけだ。
 マスコミによる大衆操作が資本によるアプローチだとすれば、Web 2.0は権力によるアプローチだ。
 人々がみな合理的(=プログラマ的)であってほしい、あるべきだ、という信念。さらには、合理的(=プログラマ的)な人々だけを相手にすればいい、という世界観。そのためには合理性(=プログラマ性)による独裁も是とされる、という傲慢。これはかつてW3CのCSS (Cascading Style Sheet) として結実し、プログラマが独裁権力を握っていることを証明した。個人サイトを作っている人々の大半は、いまもCSSをほとんど理解しておらず、おそらくは理解する能力もないが、必要に応じて使わざるをえない状態にある。彼らは収奪されたのだ。
 Web 2.0はたしかに未来を指し示している、10年前のCSSのように。営利企業は積極的に利用するようになるだろう。だが企業の腰はあきれるほど重い。プログラマは、素早い動きを個人に期待するのだが、野蛮人の認知モデルではうまく処理できないものにぶつかると、彼らは立ち止まってしまう。そこでプログラマは苛立ち、つぶやくのだ――Web 2.0、と。
 Web 2.0とは、上(=プログラマ)から仕掛けられた階級闘争の名前だ。プログラマ側の勝利はすでに確定している。だがそれはけっして華やかなものではない、10年前のCSSのように。

Posted by hajime at 2005年09月05日 20:23
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