2006年10月13日

1492:72

 小さな素描が好きだ。葉書くらいの大きさの、作品というほどのものでもない、落書きのような素描。代表作がつまらない画家でも、小さな素描はたいてい面白い。
 きっと、膨大な数のなかから、一番面白いものを学芸員が選び抜いて展示しているのだろう。

 
                       *
 
 諸々の手続きに2週間かかった。家や車はみな私の名義になっていた。名義変更の手続きにはやたらに時間がかかる。ここはロシアだ。
 そのあいだに私は、暇さえあれば、陛下のお姿を描いた。緋沙子が欲しがったからだ。ひさしぶりにペン入れもしてみた。けれどすぐに投げ出した。昔からペン入れは苦手だった。
 ヌードもたくさん描いた。恐れ多いことでもあったし、外に漏れたらスキャンダルにもなる。けれど緋沙子の願いは断れなかった。
 一枚描きあがるたびに、緋沙子はその絵をパネルに入れて、壁に飾っていった。ヌードは寝室に飾った。葉書サイズの絵も描いて、これは写真立てに入った。
 家のすべての壁と棚に陛下のお姿が掲げられ、そして、私がそこを去る日がきた。
 
 朝、緋沙子が宣言した。
 「今日は、なんにもしない日」
 『なんにもしない日』は安息日だ。外出はできるだけ避ける。本を読むのも、TVを見るのも、音楽を聞くのもいけない。ぼけっとするか、お茶を飲むか、おしゃべりするか、居眠りするか。とにかく、暇にしていなければならない。
 このモスクワの家には、畳がある。リビングの隅に、畳を三畳敷いて、ちょっとした和風空間を作ってある。客がきたときには、ここで茶道ごっこをやってみせる。『なんにもしない日』には、ここで座布団を枕にして寝転がる。
 朝食後、私はすぐに、畳に寝転がった。緋沙子も隣で横になる。
 指を重ねあわせる。握らない。
 そのままずっと、日差しが変わるのを眺めていた。モスクワは千葉に比べて、夏でもあまり日が高くならない。部屋の奥まで日が差し、じりじりと動いてゆく。
 私も緋沙子も、なにも言わない。
 ときどき寝返りをうつ。指が離れないようにしながら。
 
 お昼の時間になり、私はうどんを作った。通販のおかげで、生鮮食料品以外は、モスクワでも千葉と同じものが食べられる。和食にかぎらず、この家の食材は、半分以上が通販だった。
 「護衛官やってたときも、通販ばっかりしてたな」
 「昔のドラえもんは机の引き出しから出てきたけど、今なら通販で届くかもね」
 「それ、『ローゼンメイデン』」
 食事中はおしゃべりがはずんだ。
 食後も、他愛ないおしゃべりが続いた。いつもどおりなのに、いつになく楽しかった。呼吸がぴたりぴたりと合った。まるで時間が止まっているようだった。
 そんなおしゃべりのさなかに、
 「これは言わないでおこうって思ってたんだけど、言っちゃうよ――やっぱりやめとこうかな?」
と私が気を持たせると、
 「葬式には来ないでほしい?」
 「どこの偏屈じいさんよ。
 あのね、ひさちゃんに約束する。
 陛下のところに帰れるようにしてあげる」
 緋沙子は黙って苦笑いした。
 それから、窓の外を見た。
 そして、時計を見た。
 私がここを発つ時間になっていた。
Continue

Posted by hajime at 2006年10月13日 22:38
Comments