「いじめ」というのは悪い言葉だ。
暴行、窃盗、名誉毀損、侮辱、恐喝。これらの言葉はみな犯罪行為を指し示す。「これをやったらアウト」という一線で区切られた、一定の領域を指し示す。加害者と被害者が、通りすがりの他人同士であろうと血を分けた親子であろうと、これらの犯罪行為はなされる。現実の事件としても起こっているし、世間一般にも犯罪として認識される。
「いじめ」という言葉は、そうではない。それは犯罪行為ではなく、人間関係を指し示そうとする。その結果、「いじめ」という言葉は、犯罪行為から目をそらしてしまう。
犯罪行為をみるべきだ。
「強くなれ」だの「逃げろ」だのというメッセージは、当事者に感情移入したものだ。だが感情移入とカタルシスでは物事は変わらない。「同情するなら金をくれ」だ。
この場合は金では解決しない。では、なにをすればいいか。まず、認識の枠組みを変える必要がある。
学校のような空間のすみずみまで、「みんな仲良し」を行き渡らせることなど、最初からできない相談だ。生活を共にする家族が暮らす家でさえ、うまくいかないことも多い。なんの絆もない赤の他人を寄せ集めた学校が、すみからすみまで「みんな仲良し」になるわけがない。
学校では、悪いことが、当然に起こる。すべての悪いことに公的な第三者が介入するわけにはいかない。どこかに一線を引く必要がある。
第三者の目には、人間関係はつかみどころがない。学校による「いじめ」認定があれほど恣意的なのは、「いじめ」という言葉が人間関係を指し示すものであり、その人間関係につかみどころがないからだ。一線を引く基準としては明らかに役に立たない。
そこで、司法というシステムの知恵を借りよう。具体的な行為を基準とするのだ。
暴行、窃盗、名誉毀損、侮辱、恐喝。
学校で起こる悪いことは、これらの言葉で語られ、記録され、認識されるべきだ。
悪いことがみな犯罪になるわけではない。犯罪未満の悪いことは、認識をすりぬける。だが、第三者であるということは、そういうことだ。当事者にしかわからないことがある、それも膨大にあるのだと知ったうえで、自分の無知に耐えること。これも司法というシステムの知恵だ。
学校と実社会の違いを考慮に入れて、刑法よりも細かいところまで認識してもいい。たとえば、厳密には侮辱には当たらないような言葉による嫌がらせなど。しかしその場合も、あくまで具体的な行為を基準とする。
以上の理由により、文科省と教育委員会は、以下のように行動すべきだと考える。
・学校の記録や報告から「いじめ」という言葉を廃止して、侵害行為にもとづく記録や報告を行う。
・そうした記録や報告が、生徒児童の生活実感を反映できるように、侵害行為を分類する体系を整備する。
・偶発的な侵害行為をかならず記録・報告するという姿勢を築く。偶発的な侵害行為を、「将来にかかわるから」などという理由で隠蔽すれば、連続的・組織的な侵害行為も隠蔽せざるをえなくなる。