2006年12月04日

エロまんが的なるもの

 わけあってグリム童話を読んでいる。訳は金田鬼一。
 『千びき皮』(KHM 65)が面白い。あらすじは以下のとおり。

 
 あるところに王様がいた。王様の后は、黄金色の髪をした絶世の美女だった。后は若くして病に倒れ、今わの際に、王様に要求する。「もし私が死んだあと誰かと再婚するなら、それは私と同じくらいの美女で、しかも黄金色の髪をした人に限ると約束してください」。王様は約束し、后は死んだ。
 その後、この条件にあてはまる女を求めて、王様の家来は世界中を探し回ったが見つからなかった。ところで后には娘がいた。母と同じ黄金色の髪をしており、また日に日に美しく育って、母そっくりの美女になった。それを見た王様は、娘を恋しく思ったあげく、娘と結婚することに決めた。
 王様の相談役は反対した。「父親が自分の娘をめとるのは、神が禁じていること。罪を犯して幸せになることはない。この国も巻き添えをくって滅びるだろう」。しかし王様の決意は変わらない。相談役以上に恐れおののいたのは娘である。父を翻意させるため、無理難題をふっかけることにした。「三かさねの衣装をください。陽の光を放つもの、月の光を放つもの、星の光を放つもの。また、千種類の毛皮を集めて縫い合わせた外套をください。すべて揃ったら、お父様の望むとおりにします」。しかし王様はこれを成し遂げてしまう。
 婚礼の前日、娘は逃げ出す。持ち物は、黄金の指輪、糸くり車、糸巻き、そして例の三かさねの衣装。例の外套を着て、顔と両手を煤で汚して変装し、娘はいったん森に隠れる。その森で娘は、王様の狩人に拾われて「毛皮こぞう」と呼ばれ、王様の城に下働きとして入り込む。
 ある日、城で祝い事があったとき、娘は変装を解いて、陽の光を放つ衣装をまとい、どこかの国の王女のようなふりをして王様の前に現れる。王様はこれが自分の娘とは思わず、「こんな美女は見たことがない」と思いながらダンスの相手をする。そして娘は、誰にも気づかれずに姿を消し、また毛皮こぞうに変装して下働きに戻る。
 ある日、娘は王様にスープを給仕することになる。娘はスープの中に黄金の指輪を入れる。王様がそのスープを飲むと、とてもおいしかった上に、黄金の指輪が出てきた。王様が事の次第を追及すると、毛皮こぞうにつきあたった。王様は毛皮こぞうに直接、「あの指輪はどこから手に入れたのか」と尋ねるが、毛皮こぞう(娘)は「指輪など知りません」ととぼける。
 娘は同じことを三度繰り返した。三度目に王様のダンスの相手をした直後、変装をするときに指を煤で汚すのを忘れ、そのままスープを給仕しに行く。その指には、ダンスのときに王様が渡した指輪まであった。それを見た王様は、毛皮こぞうが謎の美女であることを悟り、その姿を暴く。だが王様は、それが自分の娘とは気づかない。そのまま王様は娘と結婚する。その後、二人はなに不自由なく楽しく暮らした。
 
 異様な話である。
 まず、『オイディプス王』に喧嘩を売っているかのような近親相姦タブー観が面白い。『オイディプス王』では母子ともに善意(近親相姦とは知らない)なのにタブーを犯したことにより罰せられる。しかしこの『千びき皮』では、娘が悪意(近親相姦と知っている)のうえ積極的に父を誘惑しているのに、罰せられない。
 また、王様が自分の娘を見分けられないのが面白い。娘が魔法で容姿を変えた、というような記述はない。この不条理は、なんの説明もなく起こっている。
 これらの異様さは、きわめてエロまんが的だ。
 ポルノのストーリーには、「主人公(男)が罪を犯し、罪に耽溺する」という定型が普遍的にみられる。罪の善意・悪意は問わない。この定型に以下のような特徴が加わると、ポルノ全般とはいえなくなり、エロまんがの匂いが漂ってくる。
1. 男は罪に善意だが、女は悪意
2. 男が悪意なら罰せられることが明らかだが、男が善意なら罰せられない
3. 女が積極的で、男は受動的
4. 男の善意・悪意に直接結びつくところで異様な不条理がある
 なかでも4が重要だ。1から3までは、男の責任回避とタナボタ待ちとして機能するが、4だけは違う。
 『千びき皮』のストーリーで、娘の容姿を変えることには、なんの困難もない。「王様に追っ手をかけられているから」とでも言い訳すればいい。だがそれをしていない。逆に、娘であることを示唆する数々のアイテム(衣装、外套、黄金の指輪など)を持たせて、父が娘を見分けられないことの不条理さを際立たせているように思える。
 この不条理さは、なんらかの機能を果たすべく配置されている。それはどんな機能なのか?
 「こんなとき自分ならどうする?」という問いを封じ込めること――それが4の機能だ。
 これは、BLにおける「強姦されてハッピーエンド」に似ている。女の主人公が「強姦されてハッピーエンド」を演じるストーリーを女性読者が読めば、「強姦されたとき自分ならどうする?」という問いに突き当たらざるをえない。この問いは、読むという行為に大きく影響する。だが主人公が男であれば、「強姦されたとき自分ならどうする?」という問いを封じ込めることができる。
 『千びき皮』に戻ろう。4は、「娘に誘惑されたとき、自分ならどうする?」という問いを封じ込めている。
 このような封じ込めは、いわゆる「文学」に期待されているものの対極にあるためか、ほとんど意識されていない。だがこれは、グリム童話にもみられる手法なのだ。「強姦されてハッピーエンド」のキャッチフレーズのもと、この封じ込め手法の存在を広くアピールしてゆきたい。

Posted by hajime at 2006年12月04日 21:13
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