ホメロス『イーリアス』を読んでいる。松平千秋訳。
まだ前半だが、気になったこと――前半、アカイア勢(ギリシャ)はイリオス(トロイエの王の都。木馬を引き込んでしまい滅びるあそこ)を包囲していない。あの有名な「包囲10年」は嘘だったのだ。
『イーリアス』開始時の情勢を説明しよう。
・トロイエ侵攻は9年目
・戦争開始からこのかたアカイア勢の将兵は一度も祖国に戻っていない。軍勢の士気は下がっている
・制海権はアカイア勢が完全に握っている(補給物資が滞りなく海路で届いており、トロイエ勢の海軍による補給路への攻撃を心配する様子もない。後の木馬作戦も、完全な制海権を前提としている)
・アカイア勢はイリオス近くの海岸に船をあげ、船のそばに陣を構えている
そしてアカイア勢が決戦を求めてイリオスに迫ると、トロイエ勢は受けて立つ、という展開になる。
アカイア勢が継続して支配しているのは海岸線だけで、海岸線からイリオスまでのあいだは戦場、それ以外の土地はすべてトロイエ勢が自由に通行できる、というようにしか読めない。
……では、包囲が10年続いたというあの有名な話は一体どこから?
どうやら『イーリアス』以外の現存するトロイエ伝説文献はすべて『イーリアス』の二次創作らしい。あらすじを見たかぎりでは、どれもかなり原作に忠実で、「包囲10年」などというはっちゃけた設定は出てきそうにない。
「包囲10年」というのは、「トロイエ侵攻は10年続いた」「イリオスを包囲したが城壁を破れず、木馬作戦を要した」という2つの要素が混じって生じた誤解なのか? ありそうな思い違いだ。
だが――フィンリー『オデュッセウスの世界』(岩波文庫)316ページにこう書いてあるのを読むと、事態は重大になってくる。
「だれでも知っているように、ホメロスはトロイアの包囲攻撃を十年作戦に引き延ばしたが」
こんなことを書いてもツッコミを入れられず、ホメロス研究の古典として邦訳されているのだ。
「包囲10年」というのは単純でありがちな思い違いではなく、なにか学問的なルールに従っているのだろうか。トロイエ伝説の世界では「包囲」というのは「侵攻」と同じ意味というルールになっているのか? イリオスは知名度が低いのでトロイエ=イリオスはいいとしても、包囲=侵攻はどうにも納得できない。「包囲10年」は、ありがちな思い違いの域を超えて、都市伝説と化しているのではないか。
(ちなみに上記引用の直後、「アカイア軍の補充兵や糧秣を考慮に入れることは怠った」というのも妥当でない。近くの島から酒が運ばれてきて、戦利品と交換しているくだりが第7歌末尾にある。また定期的な補充兵については、「祖国を離れて十年」というシチュエーションを薄めてしまうので、作劇上の必然性により設定されていないのだと理解できる。
もちろん、10年という期間や10万人という兵力はどうやっても正当化できるものではないが、量の観念の希薄さと、補給の概念の欠落は、ひとまとめにしていいものではない)