2007年12月11日

「中国語の部屋」を作る

 レベッカ・ワーフスブラック、アラン・マクキーン『オブジェクトデザイン』(翔泳社)を読んでいる。
 「中国語の部屋」という思考実験がある。本書を読んでいて私は、この「中国語の部屋」を連想した。
 「中国語の部屋」で注目すべきは、部屋の中ではなく外だ。
 
・中国語
・部屋の外にいる中国語を理解する人間
・部屋を構築・運営する作業
 
 自然言語は社会活動の中にある。形式言語の文には「形式的に正しい」という状態が想定できるが、自然言語にはそれはない。話者の社会の中でどう機能するか、しかない。とすると、「部屋の外にいる中国語を理解する人間」とは実質的に「中国語」と同じものだ。
 話者が世界中に一人しかいない、そしてその話者のほかに資料が一つもない言語を想定しよう。これを仮に「ヴォイニッチ語」と呼ぶ。「ヴォイニッチ語の部屋」という思考実験の持つ意味は、「中国語の部屋」とは根底から異なる。
 部屋がヴォイニッチ語を理解しているかどうかを判定する方法が、世界中にたった一人のヴォイニッチ語話者では、あまりにも胡散臭い。中国語には10億人のピアレビュアーがいるが、ヴォイニッチ語には一人もいない。
 話者以外のヴォイニッチ語の資料といえば、その話者からの聞き取り調査で作ったものだけだ。その資料をもとに部屋のヴォイニッチ語理解を判定するのは、中の人がマニュアルどおりに動いているかどうか、マニュアルが資料と整合するように書けているかどうかを判定することでしかない、つまり「部屋を構築・運営する作業」を見ているだけで、ヴォイニッチ語を見ていない。
 というわけで、「中国語の部屋」で注目すべきは、部屋の中ではなく外だ。部屋の中で起きていることは単純だ。複雑さは部屋の外にある。
 
 中国語の部屋を、実験装置や見世物ではなく、なにか現実的な仕事をさせるために作るなら、完璧な中国語の実装をあきらめるべきだろう。現実的な仕事のための予算では、中国語のあらゆるニュアンスをマニュアルに押し込むことはできない。
 実装すべき言語は、中国語の形式化されたサブセットになるだろう。これを仮にミニ語と呼ぶ。ミニ語にはわずかな語彙だけを採用する。その語彙も、元のニュアンスをはぎとり、あいまいさを形式化で切り捨てる。中国語にはない語彙も、必要に応じて追加する。
 このような変形・人工化を推し進めてゆくと、ミニ語は中国語から遠ざかるかわりに、「ミニ語の部屋」をより経済的なものにすることができる。
 だが、話者が一人もいないミニ語は、一人はいるヴォイニッチ語よりも、胡散臭くはないか。
 
 ソフトウェアの設計とは、ミニ語(とそのマニュアル)を作るだけでは十分ではない。ミニ語話者を作り出すことも必要だ。
 CRCカードのセッションはまさにそのようなものだ。ミニ語を作ると同時に、ミニ語話者を作り出している。「CRCカードのセッションは百聞は一見にしかず。説明を読んでもよくわからないが、実際のセッションを見るとすぐ自分でもできるようになる」「コードができたらCRCカードは捨てる。ドキュメントなどに流用しない」という逸話(出どころを失念)も、ミニ語話者を作り出す作業としてセッションを理解するなら、なるほどと思える。
 
 本書『オブジェクトデザイン』は、ミニ語の人工化を高度に推し進めることを目指して書かれている。ミニ語に採用すべき語彙の選択、あいまいさの発見と除去、中国語にない語彙の創造や採用について、広範かつ詳細に述べている。これほど高度な人工化を目指し、これほど広く深く書かれた本を、私はほかに知らない。
 だが、その質の高さにもかかわらず、なにか途方もなく片手落ちだという印象を抱く。本書が、ミニ語を作る作業ばかりに饒舌で、ミニ語話者を作り出す作業については寡黙だからだ。
 だがこれは、著者の関心が偏っているせいなのか。
 
 CRCカードのセッションが百聞は一見にしかずなのは、なぜなのか。ミニ語話者を作り出す作業のなかには、なにか根本的に説明困難なものがあるのではないか。
 オブジェクト指向の発祥から40年近くが過ぎてもまだ言語化のできない、口移しでしか伝えられない「術」にソフトウェア設計の本質がもしあるのだとしたら、コンピュータシステム(ハードとソフトと運用のセットという意味で)はすでに、クルマや建築物のような道具ではなく、意識というべき何かを持っている社会の一員なのかもしれない。

Posted by hajime at 2007年12月11日 19:16
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