フランク・ヴァートシック・ジュニア『脳外科医になって見えてきたこと』(草思社)を読んだ。
医師、それも外科医は体育会系の世界だと聞く。勤務条件が肉体的にハードなせいだろうと漠然と思っていたが、実は体育会というより海兵隊だった。
著者はハートマン軍曹のように率直だ。「また内科のローテーションでは、医師というものに授けられた恐るべき権威を目のあたりにすることになった。他人を――しかも合法的に――侵せるという力。人間の直腸に手袋をはめた指を差し入れ、脊椎に針を押しこみ、結腸にホースを通すことのできる資格だ」(47~48ページ)「わたしはこれからの年月のあいだに、食べた物を吐かせたり鼻血を出させたりするどころか、もっとひどいことを――もっとずっとひどいことを――他人の体にするだろう。それでもこのとき、わたしはひとつの里程標を過ぎた。血まみれのゼリーのこびりすいた経鼻胃管を投げ捨てながら、医師であることにまつわるあるものの存在をうすうす感じはじめていた。うっとりするような力の感覚を」(50ページ)。これは医師も患者も知っていることだが、知っていることと語ることは違う。これを出版物で公言し、しかも読者に真に受けてもらうには、ハートマン軍曹の率直さを要する。
その率直さを鍛えるのは、次から次へと患者が死んでいくという、実も蓋もない体験だろう。死はあまりにも実も蓋もない出来事なので、ほとんどの人は、葬式だの悲嘆の涙だので覆い隠して直視しない。だが医師は、それも脳外科医のように患者の平均余命がごく短い医師は、覆い隠している暇などない。実も蓋もなさに耐える力が養われ、率直に語ることができるようになる――のだろうと思う。
それに脳外科医の患者は、万事がうまくいけば、死の淵から劇的に回復する。「飛行艇乗りの連中ほど気持ちのいい男達はいないって、おじいちゃんは いつも言ってたわ。それは海と空の両方が奴らの心を洗うからだって」(『紅の豚』より)。回復と死の両方に洗われた心は、本のページの向こうにいてくれるぶんには、たまらなく魅力的だ。目の前にいたらハートマン軍曹のように恐ろしいかもしれないが。