2008年02月24日

スーツという宗教

私は本については、書く努力の5倍、売る努力をするということを決めています。

 私のような部外者の目には、この発言はきわめてスーツ的に映る。だがその理由はあまり自明ではない。この発言のスーツ性がどのように発生しているのか、そのメカニズムを説明してみたい。

 
スーツの行動パターン:自分の話の相手が、自分とグルになると決めてかかる
 
 スーツ的世界観においては、「パートナー」「ステークホルダー」といった概念が重要だ。つまるところ、経済的利害の共有を中心にした人間関係である。こういう関係をまとめて「グル」と呼ぶことにする。
 スーツは常に、自分とグルになる人間を増やそうと務める。グルになる見込みのない人間とは、そもそも話さない。対話の可能性がないので、存在を忘れ去る。こうして生まれるのがスーツなお言葉、「私は本については、書く努力の5倍、売る努力をするということを決めています。」だ。
 「書く努力の5倍、売る努力をする」は、単なる読書人として聞くなら、不可解きわまりない。映画の宣伝で、「制作費×億ドル」とは言っても「宣伝費×億ドル」とは絶対に言わない。そんなことは映画自体とは関係ないうえに、「その金を内容に回せ」という無用の怒りをかきたてる。
 しかし、スーツの行動パターンを理解すれば、「書く努力の5倍、売る努力をする」も理解可能なものになる。このスーツなお言葉は、編集者や出版社(=自分とグルになりうる人間)に向けて放たれているのだ。単なる読書人ばかりが何百人も集まっていて、編集者など一人もいない場であろうと、スーツの目には、単なる読書人(=自分とグルになる見込みのない人間)は見えない。
 
 これほど著しく認知を歪める世界観や生活様式は、たいてい「カルト」と呼ばれている。
 だがスーツをカルトと呼べば、別の危険をもたらすだろう。たとえばナチスをカルトと呼ぶようなものだ。それに、カルトを教義としてしか認識できない人々への配慮を欠く。スーツには教義らしいものは見当たらない。「自分とグルになる人間しか見えない」という世界観は、宗教のような社会現象に一般的にみられるもので、スーツに特有のものではない。
 
 貨幣は最強の共通言語のはずであり、スーツは資本主義、市場主義の産物のはずなのに、そのスーツが宗教的な排他性・独善性を帯びるとは、どういうわけか。
 グル、他者、公共性、グローバリズム的な拡大、疎外、あらゆる種類の原理主義――たくさんの問題へと通じる交差点が、このあたりに確かにあるのだが、まだうまく説明できない。もどかしい。

Posted by hajime at 2008年02月24日 21:25
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