香織派のいうところの百合についてメールでお尋ねがありましたので、ここでお返事させていただきます。
香織派は百合を「非レズビアンの立場から書かれた非ポルノの女性同性愛(もしくはそれに近いもの)のストーリー」と定義しています。では「レズビアンの立場から書かれた女性同性愛のストーリー」にはなにがあるか。古くはラドクリフ・ホール『さびしさの泉』、近年では仁川高丸の多くの作品がそれにあたります。
作品の外側では、
・作者がカミングアウトしているか、あるいはそれを強く推測させる言動を継続的に行っている
・作者の活動中にレズビアンコミュニティから「レズビアン小説」として受容されている
・社会的な現実(というイデオロギー)との関わりの観点から評価されている。いわゆる「アクチュアリティ」というもの
これらの要素があると、百合とは言いづらくなる確率がかなり高まります。特にアクチュアリティが問題となります。同時代性や社会性という武器を捨て、徒手空拳で遊戯するのが百合の美学です。
作品の内側にもいくつかの特徴がありますが、それに関しては意見を述べるのを差し控えます。
百合の射程を私がどう構想しているか。
「人間」と同程度のものです。人間が人間に注目するたびに、百合は現れるでしょう。逆に、徹底した身分制度が張り巡らされ、人間が身分の影でしかない時代には、百合も忘れ去られるでしょう。
人間関係の捉え方や規範は刻一刻と移り変わります。「性」だの「セクシュアリティ」だのは激しく移り変わりつつある概念です(しかしどう移り変わろうとも、こうした概念の生殖中心主義、勃起射精中心主義ぶりは抜きがたいもののようにも思えますが)。百年後に「レズビアン」という概念が消滅していても不思議ではありません。そのときにも、もし人間が影でなく実体であるなら、百合もまたあるでしょう。とはいえ、香織派の百合の定義は通用しなくなりますが。
百合の現状を私がどう捉えているか。
現状というのがここ数年のことなら、さしたる定見はありません。成り行きを見守るだけ、というのが正直なところです。
新しいものが出てくるのには時間がかかります。明日にでも出てきていいはずのものを10年20年と待つ、くらいはよくある話です。新しいものが広まるには運が必要です。鐙を発明した人はきっと無数にいたでしょう。前世紀の平均に比べれば現在は、百合にとっては運のいい時期だと思います。
とりあえず今は、石見翔子『flower*flower』の続きを楽しみにしています。