何年か前、エロゲーのシステムの仕事をしていたときのことです。私はプロデューサーに尋ねました。
私:「世の中には名作といわれるエロゲーがたくさんある。名作だからといって必ずしも中古はプレミア価格ではなく、安く売られていることも多い。同人で流行った作品をやれば二次創作も楽しめる。新作を買う人はみな、そういう過去の名作をあらかたやり尽くしたうえで、さらに新作を買っているのだろうか?」
プロデューサー:「いや、そんなことはないだろう」
私:「安くて確実に楽しめるはずの過去の名作をやらずに、我々のような三流ブランドが出す海のものとも山のものともつかない新作を、税込9240円で買う人がこの世に何千人もいるのは、いったいどういうわけだろう?」
プロデューサー:「さっぱりわからんね」
私の読者の皆様にも、やはりお尋ねしたいところです。『新ナポレオン奇譚』、『兵士シュヴェイクの冒険』、『レストレス・ドリーム』、我が師・栗本薫先生の最高傑作『魔都』などの神々しい名作の数々はすでにお読みでしょうか? どうしても百合をというのなら、『荊の城』などは? もしそうでないとしたら、いったいどういうわけで私の作品などを?
言い訳なら思いつかないこともありませんが、私の言うべきことではないでしょう。二流の酒や食べ物はそれなりに用いられて役に立つが、二流の詩はなんの役にも立たない――ホラティウスの言葉はいまだに真実です。少なくとも、真実であるべきです。このことを認めない人を私は尊敬しません。
とはいえ、神々しい名作など、奇跡のように稀なものです。一流といえる作品さえ、容易に見出せるものではありません。もしこの世が理屈どおりに動く人ばかりなら、新作を読む人はおらず、たとえ名作が新たに書かれてもそれを知る人はおらず、そもそも新作が書かれることもないでしょう。
(いわゆる「古典」を無邪気に信奉なさっているかたに一言。18世紀以降の「古典」は信用できません。それらはあまりにも多くの場合、ごく狭い範囲でほんの一瞬のあいだブームになって名前が売れただけの作品にすぎず、その質は現代の流行りものと大差ありません)
もちろん現実には、新作を読む人も多く、そのため一流の作品は絶えず見出されつづけるのですが、おおまかに捉えれば、現実は上に描いたとおりである、と思います。
生まれてから一度も小説を読んだことのない人は稀でしょう。しかし、めったに小説を読まない人は、この世の圧倒的大多数です。小説ではなくゲームやテレビドラマでも事は同様であり、「圧倒的大多数」がただの「大多数」になる程度です。
この世の圧倒的大多数の人々は、人生のどこかで、小説を読むのをやめました。苦情や批判がましいことは言わず、黙ってただ読むのをやめました。こうした人々は、ほとんどの新作や「古典」がなんの役にも立たないということを知ったのだと、私は思います。
この世に新作が現れるのは、それを読む人々がいるからです――いったいどういうわけでか。
その謎の根源については詮索しないとして、では、この有難い人々は、どんな待遇を受けているでしょうか。
エロゲー業界では、事態は唖然とするほど悪いものです。値段はより高く、質はほぼ常に凡庸かそれ以下。謎の根源には、これほどの悪条件をも覆す奇跡の力が備わっているようです。こんな奇跡を見せられては、「さっぱりわからんね」と言うほかありません。
待遇面でもっとも納得がゆくのは、テレビドラマでしょう。新作は決まった時間に無料で提供されており、古い名作を見るには手間暇と費用がかかります。
小説やゲームに比べて、テレビドラマを見るのをやめる人が少ないのは、テレビが無料だから、手軽だから、普及しているから、それだけでしょうか。その効果も当然あるでしょうが、しかしテレビには弱点も多いのです。たとえば、過去の作品はしばしばDVD化もされておらず、多少の手間暇では見ることができません。二流以下の作品――ほぼすべての新作は必然的に二流以下です――ばかり視聴者に見せておいて、「もっとテレビドラマを見てください」というのは理不尽な話であるばかりか、名作傑作をもたらそうとする作り手の気概をも損なうものでしょう。
どの業界も、言い訳ならいくらでもできます。法律が悪い、業界の慣行が悪い、云々。それは各業界の当事者に任せておくとして、私は自分にできることを見つけ、実行しました。
新製品の値段は、発売されたときが一番高く、時とともに下がってゆく――それがこの世の原則です。例外はもちろんありますが、まさに例外というべき珍しいものです。少なくとも、今のところは。
この原則に支配されているかぎり、新作を読む人々に金銭面で報いることはできません。「金銭面は無理でも他の面で」という言い訳がどんなに空しいものか、私ごときが言うまでもないでしょう。
「二流の詩はなんの役にも立たない」という言葉があてはまる分野では、値段は発売されたときが一番安く、時とともに上がってゆくべきです。
一流や名作に高い値段がつくことには、おそらく異議はないでしょう。
古い二流以下の作品は、たとえタダでも、ごくわずかな人々が読むだけです。そのごくわずかな人々の大半は、強い動機や事情(きっと大学の卒論に必要なのでしょう)のために読むのであって、バーゲンセールに惑わされて読むのではありません。バーゲンセールに惑わされる少数の人々をつかむために、大枚をはたく用意のある多数の上客から雀の涙ほどしか取らないというのは、間尺に合わない話です。
今のところ現実がこの要請に反しているのは、作品が物理的な媒体に縛られているか、または、物理的な媒体に縛られていたときの慣習にとらわれているからです。
すなわち、この要請に応えるには、
1. 作品を物理的な媒体から切り離す
2. 古い慣習との折り合いをつける
という2つの条件を満たす必要があります。
作品を物理的な媒体から切り離すにあたっては、媒体をネットに移すのは当然として、決済手段が大きな壁になります。少額を扱える、頻繁に値付けを変えられる、広く普及した、信用のある、手軽な決済手段が必要です。これらすべての条件を満たしたネット上の決済手段は、長らく存在しませんでした。
「発売されたときが一番高く、時とともに下がってゆく」という原則に反するものは、貴金属のように希少か、あるいは企業(=株)のように変化し成長するものがほとんどです。ネットを媒体とする作品は無限に複製できるので希少ではありえず、また作品は発表されたときから変化しません。こういうものの値段が上がるのは、慣習に反することです。
決済手段については、iOSのApp Storeが登場しました。これは上に挙げた条件をおおよそ満たすもので、たとえ疑問符がつくとしても「広く普及した」という点のみでしょう。また一応、Android Marketも数に入れておきましょう(私はほとんど期待していませんが)。
作品は発表されたときから変化しない――なら連載にして、連載が進むにつれて値段を上げればいい、というのが私の回答です。この回答がどのように迎えられるかは知りません。それを知るために私はこうしています。
かくして、連載配信プラットフォームflowerflowerと、それを使った作品『紅茶ボタン』ができあがりました。