21世紀最大級の愚問を思いつきました。「百合に男性の登場人物は必要か?」。
これではあまりにも愚問なので、もう少しマシな形にしましょう。「男性の登場人物を活躍させれば、百合は面白くなるか?」。
多くの場合、その逆が正解です。よい作品の基礎となるのは、よい制限です。「字余りにすれば、短歌はよくなるか?」。答えは自明でしょう。
しかし、字余りの傑作、字余りであるがゆえの傑作が存在することも事実です。
この比喩でいえば、前回取り上げた『海の闇、月の影』は、自由律ということになるでしょう。百合と言われなければ百合とは思わないかもしれない、というわけです。
今回は、いわば字余りとしての男について考えてみます。
TVアニメ版『神無月の巫女』が傑作かというと、否です。が、なにかしら悪くないもの、捨てがたいもの、見るべきものがあります。野心作、という評価が妥当なところでしょう。なお野心作の常として、あらすじを紹介しても意味がないので、読者諸氏はすでにこの作品をご覧になっているものとします。
なにがこの作品を野心作にしているのか。
姫子の女受け最悪感と、ソウマの収まりの悪さ(まさに「字余り」)が主な要因である、と私は考えています。前者については後日に譲るとして、ソウマの収まりの悪さを詳しく見てゆきましょう。
「姫子への愛」と「オロチとしての宿命」。この2つの行動原理が衝突する焦点がソウマである、と言えます。ベタでエンタメな作劇術なら、
最初は矛盾するかに見えていた2つの行動原理が、実は矛盾せず、相補的なものであることを発見する。あるいは、そのようなものになる地点にたどり着く。
という展開になります。具体的には、「オロチとして世界を破壊することが姫子を救う唯一の方法であることを発見する」わけです。
が、「姫子を救うために世界を破壊する」という展開は千歌音に使われています。ではソウマはどうなったかというと皆様ご存じのとおり、「オロチとしての宿命」を完全に打ち負かす、という展開になりました。
オロチとしての宿命を背負わされていない千歌音に「姫子を救うために世界を破壊する」という展開を与える一方で、ソウマのジレンマには「姫子への愛」の完全勝利というあまり釈然としない展開を与える――TVアニメ版『神無月の巫女』という作品の抱える根本的なねじれが、ここにあります。
このねじれが、百合における男という「字余り」に、照応している。
私がこの作品を野心作と呼ぶのは、かなりの部分、この照応関係のゆえです。そして、傑作ではなく野心作にとどまるのは、この照応関係がうまく機能していないからです。
謎の機械を眺める心境、と言えば伝わるでしょうか。素性や目的のわからない、大きな複雑な、しかし明らかに動作しない機械を眺めて、「これが動いたら、どんなにすごいだろう」と空想する――そんな楽しみともどかしさを、TVアニメ版『神無月の巫女』は与えてくれます。
どうすればこの照応関係が機能するのか。
もし満足のいく答えが容易に見つかるものなら、私はTVアニメ版『神無月の巫女』をこれほど評価しません。
ベタでエンタメな作劇術を忠実になぞるのでは、けっして見えてこない地平が、この世にはあります。五七五七七を厳守していては詠めない短歌があるのと同じです。その地平を拓くのには非常な困難を伴うということも、重ねて申し上げておきます。
次回のテーマは、「姉妹」です。なお『紅茶ボタン』と『完全人型』もよろしくお願い申し上げます。