中里一日記

[先月の日記]

1999年4月

4月30日

 To Heartの、智子と芹香のエンディングを見た。
 ヌルい気分がたまらなく心地よい。21世紀はヌルめの時代にちがいない。21世紀にはきっと銭湯のお湯の温度制限(42℃)も撤廃されて、ヌルめの銭湯が流行するのだ。

 ヌルめオッケーと自分に言い聞かせつつ、超ハ級長篇百合小説を書きつづける私である。21世紀の百合の四番打者は自分のことを「ボク」と呼ぶのだ。しかしこいつが四番か… ま、いい。真打ちは三番打者である。マルチもアスカも三番だ。
 目下の問題は五番打者で、うまい案が出ない。いい感じの28歳がどこかに転がっていないだろうか。

 セント・マシューズ・シリーズを読み終えた。やはり徳田央生はいい。

4月29日

 マチダに行ったら、なぜか帰りの電車賃がなかったので、歩いて帰った。
 おかげで、この世にはたくさんのラーメン屋があるということがわかった。日本人のラーメン好きは相当なものらしい。

 ISAバスなしのチップセット、i810が6月に出るらしい。
 実物が出てこないとわからないが、記事を見るかぎりでは、どうも性能に不安がある。i820まで待つべきか。

4月28日

 SGIのNTワークステーションの液晶ディスプレイを見た。
 発色の素晴らしさに目を見張った。なんでもCRT以上という話だが、嘘ではなかった。一体、液晶だけでいくらするのだろうか。色のいいエロCGをあれで見たらさぞ綺麗だろう。

 ギャル理論の基礎のうち、昨日書き漏らしたことを書いておく。

ベクトル配置論[1]:
 キャラの恋愛感情にかかわる行動・心理を、方向と強さ(ベクトル)によって把握し、複数キャラのベクトルを総合してその配置を分析する方法。

シチュエーション主義[2]:
 「おいしいシチュエーション」と呼ばれる種類のシチュエーション(ただしストーリー上の構造的なものではなく、シーンに近い概念)を、ギャル作品のプライマリな構成要素と見なす考え方。

スペック[3]:
 ギャルの持っている魅力的な性質の質と量。
 例:猫耳・一途な性格・自分のことを「ボク」と呼ぶ

 それでは、ギャル理論にもとづいて提出されている、いくつかの代表的な仮説を紹介してゆきたい。

「萌え」の原理
 「萌え」と呼ばれる現象は、理解しにくい側面を持っている。「萌え」は、自己同一化の第一層にも第二層にもあてはまらない。「萌え」の人は、「おいしいシチュエーション」が展開されることなしに、ただキャラがそこに存在するだけで喜びを感じる。
 この現象を、含みによって説明する説が提出されている。この説は「萌え」を、キャラの持つ含みに感応して生じる現象であると説明している。

含み戦略
 ストーリー中で「おいしいシチュエーション」を展開するよりも、その含みを持たせるだけにとどめるほうがより最適であり、可能なかぎり豊かな含みを持たせることを目指すべし、とする説。

原主義(はらしゅぎ)
 マルチギャル構造のギャル作品において、四番打者すなわちヒロイン役のギャルは、あまり強烈なスペックを持たない、それほど人気の出ないキャラであるべきとする説。「サクラ大戦」や「ときめきメモリアル」が例として挙げられるが、「新世紀エヴァンゲリオン」が有力な反証となっている。
 名称は、元巨人の原辰則選手の名前に由来する。

 もちろん、ギャル理論から生まれた仮説はこれだけではない。ここに挙げた説のほかにも、「家族的関係性」などの概念が詳細な理論化を待っている。

参照:
[1] 魔ほか: 「座談会 理想のギャルアニメを求めて 第三章 小説への応用 第ニ節 応用への道程」 『月猫通り』 2084 (1999) 51-57
[2] 堀内樹那: 「あなたはギャルを分析的に見ていますか?」 『月猫通り』 2084 (1999) 88-90
[3] 魔ほか: 「座談会 理想のギャルアニメを求めて 第二章 作品分析 第ニ節 『エルハザード』シリーズ」 『月猫通り』 2084 (1999) 38-42

4月27日

 ここでいったんギャル理論の基礎を整理して説明してみたい。

ギャル[1]:
 主人公と恋愛関係になりうるキャラのこと。主人公への恋愛感情を持ちうる、コミュニケーション可能な存在であれば、男でも女でも犬猫でもよい。ギャル理論においては、語の本来の意味である「若い女性」に限定されないので注意されたい。

含み
 ストーリー中でまだ実現してはいないが、可能性として示唆されている物事。将棋用語に由来する。
 背の低いキャラがエプロンドレスを着て頭に大きなリボンをつけていれば、その外見は「ロリ」という含みを持っている。ギャル作品のヒロイン(四番)が料理下手なら、それは「ヒロインの失敗作を主人公が(無理して)食べる」というシーンを含みにしている。
 (なお、実際の含みは、ここで挙げた例よりもはるかに豊富な意味内容を持っている。例に挙げた「エプロンドレスにリボン」のキャラが、単純に「ロリ」とだけ言ってすませられない含みを持っていることを想起されたい)

マルチギャル構造[2]:
 一人の主人公と複数のギャルとのあいだにそれぞれ、恋愛関係への発展の含みを持たせている構造のこと。

最適化原理
 ギャル作品を制作する際には、限られた資源から最大のパフォーマンスを引き出すことが求められる。理論上の最大値にたどりつく確かな方法はないが、制作者は少なくともそれを目指す。限られた資源の有効利用を前提としたギャル作品構築の原理を一般に「最適化原理」と呼ぶ。
 なお、以前の日記では「最適化理論」と表現していたが、より適切な名称に変更した。

野球理論
 最適化の方法のひとつとして提案されている理論。マルチギャル構造のギャル作品に登場するギャルをそれぞれ、野球の打線の一番・二番・クリーンナップ・下位打線にたとえることで、最適化の手助けになるとする。また、ギャル作品の最適化の程度を把握する目安としても用いられる。

自己同一化の第一層・第二層
 読者が物語の主人公に自己同一化するとき、そのありかたには二種類ある、という説。第一層は、ヤクザ映画やハーレクインに代表されるありかた。第二層は、ボーイズラブや男性向けショタに代表されるありかた。

参照
[1] 堀内樹那: 「あなたはギャルを分析的に見ていますか?」 『月猫通り』 2084 (1999) 88-90
[2] 魔: 「ギャルアニメ小史」 『月猫通り』 2084 (1999) 14-16

4月26日

 昨日に引き続き、自己同一化の第一層・第二層をめぐるギャル理論について考えている。
 「受動的な交換可能性」という概念は、少なくともこの表現には、問題があるような気がする。「私も(ギャル作品の)主人公であれるかもしれない」という可能性(これを仮にA可能性としよう)がすなわち交換可能性である、という誤解をされやすい。A可能性が否定されていても交換可能性は否定されたことにならない、というのが「受動的な交換可能性」の言わんとするところなのだ。
 考えてみると、A可能性には2種類ある。ボーイズラブや男性向けショタにおいて否定されているA可能性と、ヤクザ映画やハーレクインを受け付けられない観客が否定するA可能性だ。
 そう――A可能性の否定のしかたには、あらかじめ「否定されている」か、読者自身が「否定する」かの2種類がある。A可能性があらかじめ否定されている場合には、交換可能性は(受動的な交換可能性として)残される。A可能性を読者自身が否定する場合には、交換可能性は奪われる。
 ここでの「A可能性」と「交換可能性」という言葉を別のものに置き換えれば、「受動的な交換可能性」という概念はすっきりとして理解しやすくなるはずだ。

 そこで現在、「否定可能な交換可能性」「否定不可能な交換可能性」という表現の使用を検討している。なお、この節での「交換可能性」とは、前節での「A可能性」に相当する概念である。
 ヤクザ映画やハーレクインにおいては、主人公と読者の交換可能性は、読者が否定しうるものだ(否定するような読者がヤクザ映画やハーレクインに接するとは思えないが、それはまた別の問題)。
 ボーイズラブや男性向けショタにおいては、読者は交換可能性を否定することができない。なぜならそれはあらかじめ否定されているからだ。
 交換可能性があらかじめ否定されている状態での主人公への自己同一化は、通常理解されるところの「自己同一化」という概念とはかなり異なる。新しい用語を用意すべきだろう。
 以後の日記では、特に断りのない場合、「交換可能性=A可能性」を前提とする。混乱なきように。

4月25日

 明後日はコバルトの新刊の発売日である。都心部の書店にはもう出回っていることだろう。
 賢明なる読者諸氏はすでに、今野緒雪「マリア様がみてる」の続編をチェック済のことと思う。明日が楽しみだ。
 また、×××氏から指令が飛んだので一応書いておくと、スーパーファンタジー文庫の「アーサー王子乱行記」の新刊もゲットせよとのことである。噂によれば、ショタ+女装の話らしい。

 超ハ級のトンデモ長篇百合小説を、あきらめもせずに書いている。
 とりあえず一番・二番は展開し終えた(このトンデモぶりで二番打者が生きるかどうかは疑問だが)。これからクリーンナップの展開である。いよいよ本番だ。
 (「超ハ級」:かつて少女小説がブームだったころ、トンデモ小説が大量に生産された。なかでも林葉直子という作家のトンデモぶりは群を抜いており、多くの人々を驚かせた。ここから、小説が非常にトンデモであるとき、そのトンデモぶりをあらわすのに、「林葉級」略して「ハ級」という表現が使われるようになった。「ハ級」でさえ過小評価と思われるほど言語を絶してトンデモであるとき、「超ハ級」という表現が使われる。類義語:「超シ級」)

 2月13日・16日の日記に書いた、「自己同一化の第一層・第二層」という概念の再検討を迫られている。
 ギャル作品における読者の主人公への自己同一化を理解する鍵は、「主人公と読者の交換可能性」であるという指摘がなされたためだ。この交換可能性が失われたとき、読者はギャル作品に失望するのだという。有力な説だ。
 そこで現在私は、「心理的距離の大小」にかえて「受動的な交換可能性・能動的な交換可能性」という概念を使えないかどうか検討している。
 受動的な交換可能性とは、「私も(ギャル作品の)主人公であれるかもしれない」という可能性があらかじめ否定されているところから出発する。可能性を否定するのは、たとえばボーイズラブなら性別の違い、男性向けショタなら年齢と容姿だ。この状態では読者は、「主人公でありたいか?」という問いに直面することがない。このため読者は、「主人公でありたい」という能動的な意思を持つことを迫られることなく、読者の受動性という特権のなかで主人公に自己同一化できる。
 能動的な交換可能性とはその逆である。「私も(ギャル作品の)主人公であれるかもしれない」という可能性が高く設定されており、このため読者は「主人公でありたいか?」という問いに直面させられる。この問いを迷い(=精神的な苦痛)なしに肯定できるような主人公でなければ、交換可能性は否定され、ギャル作品として失格になる。
 この概念が、「心理的距離の大小」という概念にくらべて優れている点は、第一層の自己同一化に適したキャラの性質を導き出せる、というところにある。また、受動的なキャラが第二層の自己同一化に適していることも説明できそうだ。キャラの能動的な行動は、「主人公の行動を是認するか?」(=「主人公でありたいか?」)という問いにつながるためである(少し弱いかもしれない)。

4月24日

 眠い。きゅう。

 選挙がうるさい。
 都知事ともなると雲の上の人だが、市議はかなり身近なので、選挙のやり方も泥臭い。駅の改札前に深刻そうな顔で突っ立っていられても困る。

 21世紀のスタンダード百合あらため23世紀のギャグの長篇が、読者の尊厳への真摯な挑戦へと化しつつある。
 ここまで書いた分を思い返してみて、戦慄した。正真正銘のトンデモ物件だ。うーむ。

4月23日

 セント・マシューズ・シリーズを読んでいる。
 ネタバレであしからずだが、「実は男(女)」のパターンを使っている。まったく、ギャル作品のやることは、男性向けも女性向けも変わらない。

 賢明なる読者諸氏はもしかしてお気づきかもしれないが、この日記はあるときから「JUNE」という表現を廃止し、代わりに「ボーイズラブ」という表現を採用している。
 私は長らく、コミケカタログの分類に従って「JUNE」を用いてきたが、世間は「ボーイズラブ」で統一されたようなので、こちらに切り替えた。小Jがボーイズラブ本流と微妙に距離を置いているため、「ボーイズラブ」と「JUNE」は別、という認識が生じつつある現在、「JUNE」という表現はますます不適切になりつつある。コミケカタログもそろそろ切り替えるべき時期と思うが、どうなるだろうか。

4月22日

 SFファンのあいだでは今、「SFは売れない」というスローガンが流行しているらしい。
 こんなスローガンが流行する原因は、気のせいだと思う。いわゆる集団ヒステリーではないか。日に三度「SFは売れない」と唱えれば、本当にSFは売れないような気がしてくるものだ。
 では、「SFは売れる」という気がしてくるにはどうすればいいか。
 まずは日に三度「SFは売れる」と唱える。基本だ。
 次に、「あれもSF、これもSF」と主張する。売れている作品はすべてSFなのだ。「リング」や「パラサイト・イブ」はSFだ。「ゼルダの伝説」やFF8は議論の余地なくSFだ。大川隆法も池田大作も当然SFだ。御手洗潔シリーズや京極堂シリーズがSFであることは言うまでもない。
 第三に、「SFは売れない」というスローガンに感染した患者を黙らせ、「SFは売れない」ウィルスをこれ以上広めないようにする。患者のなかでも評論家の類は伝染力が大きいので、特に厳重に隔離しなければならない。SFのファンジンやファンページには検閲を施すべきだ。
 第四に、「××はSFじゃない」という発言をした人間をシベリア送りにする。「××はSFじゃない」などと口にする人間は、「売れる作品はSFじゃない」という誤ったテーゼを信奉するトロツキストと決まっている。彼らは、強制労働によって思想改造を受け、「売れる作品はSFである」、「売れない作品もSFである」よって「すべての作品はSFである」という正しいテーゼに目覚める権利と義務がある。
 そして最後に、考えてみるのである。SFは、百合よりはずっと売れている、と。

 プロバイダの移行を進めている。
 新しいところに今のコンテンツをそのまま持っていくのでは、いかにも能がない。なにしろほとんどの部分が4年前に作ったままである。どう考えても全面作りなおしの時期だ。
 とりあえず、メールアドレスから変更していきたい。新しいメールアドレスはkaoriha@pk.highway.ne.jpである。

4月21日

 今週のサンデーの「タキシード銀」が百合入りである。
 当然のごとく百合レベルは低いが、前進には違いない。

 少年誌の百合といえば、咲香里のヤンマガUppersの連載を忘れるわけにはいかない。
 今回もまた傍若無人に飛ばしている。レベル的にはまだまだながら、やはり百合への情熱を感じさせる。いったい読者の何割がついてきているのか気になるところだ。

 ギャル作品研究のために、徳田央生のセント・マシューズ・シリーズを読みはじめた。
 私の知る某ボーイズラブ専門家は、「マルチギャル構造の長篇ボーイズラブ小説の最適ギャル数は4」と言っていた。この作品がまさに四人である。なるほどさすがは専門家、と唸らされた。
 徳田央生といえば、私は「メイド・イン・ロンドン」を6巻かそこらまで読んで放りっぱなしである。古本屋で叩き売りしていたのが6巻までで、そのあとも時々探しているのだが、どうも縁がない。なかなかいいので、ぜひ最後まで読みたいのだが。

  WWWをふらふらしていたら、某氏の某日記で、Jのことではないかと関係妄想してしまうような記述を発見した。
 「××の××××を3日ほど徹夜させたあと深夜に書かせたような感じ」って、それはJの書いた「ヤンキー・ゴー・ホーム」(仮題(嘘))そのものではないか。特に、××××という表現が関係妄想させてくれる。それともJではなく×××氏のことか。某氏はSFの人なので、後者の可能性のほうが高そうだ。

4月20日

 四方田犬彦の「オデュッセウスの帰還」を読んだ。
 夏石番矢の俳句、「降る雪を仰げば昇天する如し」を読んで、私はもちろん、「雪色のカルテ」の雪降りエンドを連想した。もしかして、雪降りエンドの案を出した人間は、この句から想を得たのだろうか。だとしたら優れて秀でた誤読力だ。
 ゲルシャム・ショーレムの本のどれかに、「誤解とは想像力の皮肉な一形態である」というような一節があった。それを読んだときには、鋭い物の見方とくらいにしか思わなかったが(私の誤読力の悪さを証明するような過去だ)、のちに柳瀬尚紀が、「ある種の創造は誤読によって生じた。この創造的な誤読をストロングな読み方といい…」云々という話を書いていたのを見て、あれはそういうことだったのか、と初めて知った。
 私も誤読したいものである。

 「オデュッセウスの帰還」によれば、クンデラは「存在の耐えられない軽さ」のなかでキッチュを次のように定義しているという。
 『「存在との絶対的同意の美的な理想は、糞が否定され、すべての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界ということになる。この美的な理想を俗悪なもの(kisch)という」
 人間の生物学的条件である排泄、肉体の汚穢、馬鹿騒ぎ、ノンセンスをことごとく否認し、清潔にして十全に肯定的な価値観で貫かれた世界を思い描くこと。未来への確信に満ち、微笑に溢れた世界のなかで、多幸症に酔い痴れること。『存在』の著者によれば、こうした天使的な理想主義こそがキッチュの本質であり、それは「人間の性」に属するものと考えられている。』
 感心したので、長いが引用した。私の歳になってこんなことに感心するのもどうかと思うが、本当のことなので仕方ない。
 無論のこと、私はキッチュの擁護者だ。キッチュの擁護者というのはつまり、気に食わない種類のキッチュを糞として否定するのに熱心である、ということだ。信仰の擁護者とはたいてい、異端や異教徒を攻撃する人である。
 私の奉じるキッチュによれば、「BOYS BE…」は許されず、「(個人的理由により削除済)」は称揚される。読者諸氏もぜひその差を見極め、キッチュの道を深く正しく歩んでいってほしい。

 前日の日記を読み返しつつ対耕一デッキの構想を練っていたら、盾戦にされると智子デッキでは対抗できないというのは間違いではないかと思えてきた。
 相手のデッキが耕一・梓の鬼二枚で攻撃してくると仮定すると、梓の鬼化にコスト1が必要になり(鬼化しないなら盾戦で勝てる)、残るキャラは四枚。二枚で攻めて二枚で受けるとすると、相手は最大3回しか攻撃できない。が、こちらは同じく盾二枚でも、最大4回攻撃できる。盾二枚ならうち2回は耕一への攻撃となり、これが耕一に4ダメージを与える。対してこちらの智子は最大2ダメージで切り抜けられる。これを4回繰り返せば、最初に倒れるのは盾ではなく相手のリーダーの耕一である…と、ここまで書いて気がついたが、対耕一デッキの盾戦に4回目の防御はないのだ。少し計算を外されれば盾をダウンさせられて智子を直撃される。
 が、昨日思ったほど対抗できないわけではなさそうだ。相手が梓の鬼化をやめて4回攻撃にしてきたら、耕一・梓と智子のパラメータの差(攻撃には4があるほうが強い)で勝てる。盾戦をきっちり詰めれば、智子デッキよしの線が見えてきそうだ。

4月19日

 Leaf Fightで負けがこんでいる。
 原因はわかっている。耕一リーダーのデッキだ。小資金(一万円以内)の世界では、耕一デッキの優位は圧倒的だ。必要なレアカードが耕一だけで済むからだ。
 というわけで現在、対耕一デッキを模索している。それも耕一デッキと同様、必要なレアカードが一枚だけで済むようなデッキを。
 一枚のレアカードに賭けるとなれば、そのレアカードは当然リーダーキャラということになる。候補に挙がるのは瑠璃子と芹香だ。瑠璃子はカードを待機状態に戻し、芹香はゴーストを出すことができる。瑠璃子と理緒を組み合わせると、常に場に待機状態の理緒を出せるようになるので、これはゴーストと同じく盾の役割を果たす。一回で受けるダメージを4以内に抑えられれば、ゴーストよりも優秀な面のある盾といえる。
 が、この案はどうやら成立しそうにない。
 なぜかというと、瑠璃子も芹香もパラメータが弱い。わざわざ耕一で殴らなくても、そのへんの適当なキャラ(たとえば梓)で殴れば一回で4ダメージを与えられるのだ。よって、相手の攻撃ターンには、相手はまず耕一で攻撃してくる。もしこちらが盾で受ければ、相手は鬼を発動せずにやりすごし、次に梓で攻撃してくる。このとき盾がなければリーダーで受けることになり4ダメージ。もし二枚目の盾があっても第三波がありうる。盾三枚を用意するなら、こちらの攻撃ターンで使えるコストはわずか3、うち2までは盾の用意に予約されている。1コストの攻撃では、相手に盾で受けられておしまいである。盾二枚として、2コストの攻撃でリーダーに6ダメージを与える方法があれば誰も苦労しない。
 では、レアカードをリーダーにするのをあきらめて、智子リーダーではどうか。盾と違って放棄にはコストが要らないので、強力な攻撃が可能となる。
 放棄は1ターンに1回しか使えないので、相手の場に梓が出ていてこちらに盾がなければ、1ターン5ダメージを食う。このとき、向こうの盾一枚(耕一と梓の鬼化で3コスト使えば盾は一枚以下)をはじいて、耕一に7ダメージを与える方法があるだろうか。
 アレイによる力攻早さ受(格闘技)、たまによる早さ攻力受(マラソン)のどちらか一方があると仮定すると、耕一への攻撃は3回まで可能だ。こちらは根性、賢さ、感性の3つで攻めることになるが、賢さ攻では2ダメージが限界だ。ただしリーダーの智子がこれに使えるので効率はいい。根性攻はマルチが3ダメージを与えられるが、これはおそらく盾で受けられる。応援の発動による4ダメージも同時に避けられるので、相手にとっては効率のいい受けだ。感性攻は志保&カラオケもしくはあかり&料理で3ダメージだが、後者のバトルカードはアンコモンなので小資金の世界ではあまり期待できない。
 以上の攻を合計すると、2+2+3で7ダメージとなる。一見よさそうだが、必要なカードのことも考えねばならない。こちらは、マルチもしくは葵・志保・アレイもしくはたま・バトルカード3種類が要る。6種類の異なったカードを確率50%で揃えるには、いったい何枚のカードを引く必要があるだろうか。対する相手は、梓・不特定キャラ3枚(コスト源)・バトルカード2種類の、4種類6枚のカードを引けばいいだけだ。さらに相手は、不特定キャラ2枚・バトルカード1種類の、2種類3枚のカードを引くだけで攻撃が開始できる。先手を取られる確率は高い。
 一方、こちらの攻撃が3回までの場合、盾を二枚使える場合が多いので、これで後手に回る不利を相殺できるかもしれない。盾のどちらかがダウンするまでにカードが揃えばいいわけだ。また、こちらの構想が実現した場合も盾は二枚になるので、ここでも後手の不利がやや吸収できる。
 以上で、智子デッキならリーダー戦では拮抗しうることがわかった。では、盾戦はどうか。
 この場合、相手の攻撃ターンは梓から始まる。たいていの場合、なにで受けても2または3ダメージだ。ということは理緒以外の盾は最大2回しか使えない。盾になりうるキャラが三枚ある(ただし同時に使えるのは二枚)として、梓単独ならおそらく5回までは梓の攻撃を吸収しうる。耕一の鬼化を捨てて、別のキャラで攻撃を2回かけるなら、これまた単独なら盾は5回まで持つだろう。二つの攻撃をあわせると、おそらく3回で盾役三枚はボロボロになる。もちろん智子もダメージを受ける。一方、こちらの攻撃ターンのときはどうなるか。同時に使える盾こそ相手もこちらと同じ二枚(耕一の鬼化を捨てた効果)だが、相手は梓と耕一以外の全部を盾に使えるので、盾役が四枚ある。智子より耕一のほうが気力が多いことからも、相手のほうが長く持ちこたえられることは明らかだ。
 以上、智子デッキが耕一デッキに対抗できない理由を示した。小資金の世界ではおそらく、耕一デッキに対抗する手段は存在しないのではないかと思う。きゅう。

4月15日

 Leaf Fight、初戦は勝利した。
 どうやらLeaf Fightには3つの戦いがあるらしい。序盤、中盤、終盤(ロックアウト)だ。序盤で勝てば中盤はない。紛れる余地がないので、ただ一方的にボコボコにするだけだ。もちろん中盤で勝てば終盤はない。となると、序盤に勝つこと、少なくとも負けないことを、なによりも重視せねばならない。
 序盤とはもちろんキャラの展開速度である。とりあえず、ノーコストのキャラはあるだけ入れるべきだ。こちらが5枚を展開し終えたとき、相手がまだ3枚しか展開していなかったら、もう7割方は勝ちである。また、2コストのキャラを序盤で引くと「一回休み」に等しい効果を発揮してくれるので、2コストキャラは入れるべきではない。

4月14日

 眠い。きゅう。

 Leaf Fightのデッキを一応組んだ。スターター×2ではこれといった構想が描けるわけもないので、弱点を分散することを狙ってみた。逆に言えば、いたるところ弱点である。見るからに勝てそうにないデッキで、どうも面白くない。うーむ。

4月13日

 エロゲーの採算ラインの試算について新たな情報がいくつか入った。
 まず、売り上げ一本あたりのマージンは定価の半分ほどであるという。また、有象無象クラスでは採算分岐点は五千本に設定されるという。前に私が試算した、総コスト六千万円というのは超大作クラスらしい。
 採算分岐点を五千本、一本あたりのマージンが2500円とすると、総コストは1250万円と逆算される。いくら有象無象クラスにしても少々、いやかなり無理がないかと思える額だ。今月2日の試算から、年間雇用コストを30%カット・スタッフ数を40%カット・制作期間を50%カットしても、まだ少し足りないのである。
 この三つのカットのうち、一つくらいならまだなんとかなるが、三つ重なればもはやアクシデントとトラブルと非効率の魔窟だ。たとえばプログラムが50%完成段階で、チーフプログラマが倒れて辞めたとしよう。とたんにプロジェクトは1ヶ月、2ヶ月と遅れるだろう(プログラマの技量は個人によって天地の開きがある)。この遅れは、平行して進む他のプロジェクトにも深刻な影響を与えるだろう。最終的な損害が一千万円で済めばいいほうだ。
 また、プロジェクト当たりのスタッフは少ないほど、制作期間は短いほど、会社のスタッフを効率的に回してゆくのが難しくなる(グラフィッカーやプログラマがテストプレイする姿を想像してみればわかる)。スタッフを効率的に回せないということは、制作費を効率的に使えないということだ。
 一人当たりの年間雇用コストを七百万円まで値切れば、およそ待遇は最悪を下回る。社員教育になど一円も回らないはずだ。これでは愛社精神が育つわけもない。能力ある人材にはすぐに見限られて去られ、残るのは、経験豊富な働き者ではあっても無能な人材ばかり、ということになるだろう。(経験豊富かつ無能な働き者――恐るべき存在だ)
 こんな魔窟を経営するとは、中小のエロゲー制作会社の経営者はみな魔法使いなのだろうか。

4月12日

 Win版To Heart、あかりとマルチのエンディングを見た。
 マルチーーーー!!!! くわっ、マルチだよ君!!! マルチだ!!! いいな、マルチだ!!!
 …それはともかく。
 確信犯ぶりが素晴らしい。朝に優れたギャル作品を作れれば夕べに死すとも可なり、という覚悟と気合がひしひしと伝わってくる。ギャル作品たるもの、こうでなければ。

 エロゲーのシナリオについては、印象に残っている話がある。
 これは私が見たわけではなく、人から聞いた話だが、「バーチャコール」シリーズのどれかのことだ。ハッピーエンドでは、ギャルのロボット(かなにか)が、なんの理由づけも伏線もなく、とにかくいきなり人間になってしまうのだという。
 この話を聞いたとき、私は笑うと同時に深く感動した。このシナリオを書いた人は、物語がどんなものかは知らなくても、幸せがどんなものかはよく知っているに違いない、と。
 「ロボコップ」の「お前はクビだ」もそれなりに味わいのあるオチだが、やはり本当のどんでん返しはなんといっても「スーパーマン」だ。腕づくで地球を逆に回して、時間を逆戻りさせてしまうのである。
 地球を逆に回して時間が戻る道理などあるわけもないが、言うまでもなく、そんなことは問題にならない。「なんの理由もなくいきなりロボットが人間になる」というオチを書いた人も、物語というものをもう少しだけ知っていれば、地球逆回しに相当する何かを思いつけたかもしれない。

4月11日

 次期MBT、Leaf Fightを入手した。
 ガイドブックで「雫」と「痕」のキャラを見ると、やはり私の趣味と似ているような気がする。こんなメジャーな人と芸風がかぶっては致命的である。うーむ。

 HDDの消音箱・Silent Driveの吸音材を、東急ハンズで売っていた「ショックノン」というウレタンシートと交換した。
 効果は上々で、シーク音が一回り小さくなった。同時に外側に鉛の小粒を詰めようかと思ったが、手ごろな小粒がハンズになかった等の理由により断念した。シートを入れるという手もあるが、加工が難しそうで、二の足を踏んでいる。
 ここまできて、再び冷却ファンの音がクローズアップされてきた。さらにファン駆動電圧を下げるべきか。

 劇場版ウテナでは、暁生の声はミッチーがあてるとの話が伝わってきた。
 王子様が元王子様の声をあてるのだから、ハマリ役と言って言えないこともない。もしかして、ほかの声優もメンバー変更があるのだろうか。

4月10日

 コミティア落選。きゅう。

 私の周囲で次期MBTと目されるLeaf Fightだが、アキバでスターターキットが品切れ中との情報が薔薇十字団筋から伝わってきた。
 事態をこの目で確かめるべくアキバに急行してみると、事実そのとおりだった。アキバ中のオタク屋からLeaf Fightのスターターキットが消えている。どうやら大人買いが大量発生したらしい。(それにしても今週のサンデーの「かってに改造」はナイスタイミングだった。まさに私は文化基盤を破壊された思いだ)
 おそらく、レアカードを手に入れるための大人買いだろう。はじめから予想されていてしかるべき事態である。意図的な品薄によって物欲を煽る作戦か。
 次の入荷は4月下旬とのこと。今度こそ次期MBTの波に乗り遅れないようにしたい。

 今、アキバは二つの色に染まっている。マルチの緑と、あかりの赤だ。
 右を見ればマルチ、左を見ればあかり。ほとんど洗脳である。
 もしかなうものなら、私もいつかアキバを染めてみたい。そのためにはまず、エロゲー制作会社の社員を目指すべきか。うーむ。

 Win版To Heartを、とりあえずエンディングまで見た。
 野球理論がぴったり当てはまる。打順は一番から、レミィ・志保・マルチ・あかり・来栖川、あとは下位打線だ。こうまで野球理論が当てはまる作品も珍しいのではないか。
 ことに志保がいい。二番打者の役割をきっちり果たしている。志保がいるからマルチとあかりが生きるのだ。To Heartのキャラでは志保が断然不人気トップという話だが、二番打者の宿命である。断言しよう、To Heartは、志保抜きでは弱い。
 よい二番打者は、よい三番打者よりも得がたい。ギャル作品を作ろうとする読者諸氏は、マルチやあかりと同様に、志保をも見習うべきである。

 最近は不完全な静音化に精を出している私だが、完全無音マシンへの意欲は依然衰えていない。
 今日はヒートシンクと熱抵抗について調べ、その結果、もし10W台後半のCPUを選んだとすると10cm角×高さ5cmのヒートシンクが必要だということがわかった。アキバで十分手に入るサイズだ。
 チップセット等にも大型のヒートシンクをつけて、ケースの外板を穴あきのものに交換すれば、自然対流で十分冷やせる。HDDは何度も言うようにUltra2 SCSIのLVDで隣の部屋だ。
 読者諸氏よ、完全無音マシンは可能である――金さえあれば。
 私の試算では、通常のCeleronマシンに9万円を追加投資するだけで完全無音が達成できる。ISAバスなしのチップセットと0.18μプロセスのCPUが登場したら、ぜひ完全無音マシンを作りたい。

4月9日

 私の周囲で次期MBT(Main Battle Trading-card)がLeaf Fightになりそうな気配なので、とりあえずWin版の「To Heart」を始めた。現在、噂のマルチが登場したところである。
 背景の色彩感覚がすごい。すごいだけでなく、それで人を納得させてしまうところがさらにすごい。しかしいまどきパレット切り替えを使うのはどうかと思う。

 現在、マルチが退場してしばらくしたところである。
 拙作「旧世界秩序」で使った手が、私よりも先に使われている(文脈は大いに違うが)のを見て愕然とした。…ジョニー、僕は、僕はどうすればいいんだい?
 教訓:有名作品は早めにチェックしよう。
 どうもこのシナリオを書いた人は、私と趣味が似ているような気がする。早急に「雫」と「痕」もチェックせねば。きゅう。

4月8日

 今月のヤングユーの「Papa told me」が百合である。
 例によって不幸系で、それもすっきりしない不幸なので、うーむ感が高い。もしかして、「ピエタ」の続きを描かせろという無言のデモンストレーションだろうか。

 21世紀のスタンダード百合を目指して23世紀のギャグになりつつある長篇の雲行きが、どうも怪しい。序盤に綺想が足りない。キャラが類型的なので展開でごまかす必要があるのだが、どうもごまかしきれそうにない。うーむ。
 とりあえず、電撃か富士見ファンタジアに速攻で突っ込んで速攻で忘れることにしよう。

 前に、マシンの冷却ファンの電源を、+12Vと+5Vの差から7Vを取って作ったら、電源にノイズが乗るようになった、と書いたが、間違いだった。真の原因はソフトウェアCPUクーラーだった。
 考えてみれば簡単な話である。ソフトウェアCPUクーラーは、CPUが遊んでいるときにHLTを投げてCPUを止め、消費電力を減らすものだ。CPUが止まったきりでは意味がないので当然復帰するが、この復帰が問題である。復帰するとき、20Wという負担が瞬間的に電源系にかかる。これが瞬間的な電圧降下を引き起こしてノイズになる。Windows98のタイムスライスは20msなので、完全にCPUが遊んでいる場合、復帰は毎秒50回生じるから、ノイズも毎秒50回生じる。
 Windows9xではソフトウェアCPUクーラーを切ればこのノイズはなくなるが、WindowsNTではOS自体がソフトウェアCPUクーラー機能を持っている。この場合、ノイズの発生を防ぐには、CPUの電源系を強化するしかない。
 おそらくサーバ用のマザーボードというのは、こういうところがしっかりしているのだろう。次のシステムのマザーボードには、サーバ用のものを選びたい。

4月7日

 私がこの日記でときどき用いている、ストーリーの「筋」という概念について説明したい。
 いきなり実例を持ち出して申し訳ないが、くらもちふさこの「天然コケッコー」というまんががある。以下の話は「天然コケッコー」を読んでいないと理解できないと思うので、まだ読んでいない読者諸氏は読み飛ばしていただきたい。
 この作品に出てくる、「シゲちゃん」というキャラがちょうど一つの筋をなしている。もしシゲちゃんというキャラがいなくても、「天然コケッコー」のストーリーは大体において成立しうる。このことは「天然コケッコー」のあらすじ――頭のなかの漠然としたイメージではなく、きちんと文章にした形の――を思い浮かべてみればわかる。つまり、シゲちゃんというキャラはかなり独立して存在している。この独立性が、シゲちゃんというキャラを一つの筋としている。
 なくてもいいものを、なぜ入れたのか。それが必要だと作者が感じたからだ。
 シゲちゃんという筋は、演出上のさまざまな効果も担っている。田舎の小さな村のいわくいいがたい雰囲気を、シゲちゃんという筋以上に的確に表現することは難しいだろう。こういう、演出上の狂言回しとしての筋とキャラは、どんな作品にもよく見られるものだ。
 しかしシゲちゃんという筋は、演出上の狂言回しにとどまらない。現在までで10巻にわたる長尺の物語のなかで読者は、シゲちゃんというキャラの精神構造を把握させられる。この精神構造こそ、シゲちゃんという筋を単なる狂言回しにとどまらない、強力なものにしている。
 もし単行本が手元にあれば、10巻の103・104ページをご覧いただきたい。これが、シゲちゃんという筋から生まれる鮮やかなシーンだ。演出上の狂言回しの筋からは、こんなシーンは生まれない。
 シゲちゃんのような筋が見える――ストーリーの構築に伴って思い浮かぶ人は少ない。たとえ見えても、使う人はさらに少ない。これが見えて、使うところに、くらもちふさこの力と個性がある。

4月6日

 PC WAVEを出していた出版社、ラッセル社が倒産した。
 偉い会社といい雑誌は潰れる、と昔から言う。いい雑誌など、作るものではない。特に、香具師による香具師の香具師のための業界である、パソコン業界においては。
 「グリーナウェイは答えた――映画は文化であり、文化なぞというものはレヴェルが高ければ高いだけ、パトロナージュなしでは成り立たない。」(佐藤亜紀「陽気な黙示録」(岩波書店)83ページより抜粋)

 最近噂のポケットUSBモデム(Leopardなんたら)のことをよく調べてみたら、最近流行りの邪悪な物件、ソフトウェアモデムだった。
 言うまでもなく、ソフトウェアモデムはCPU時間泥棒である。強まった人はけっして買わない。IntelがソフトウェアxSDLモデムを作ろうとしたのでMSがやめさせた、という事件があったらしいが、MSよくやった、である。

 ユーゴスラビアで、市民が自発的に「人間の盾」になっている模様である。
 もし地上軍が投入されれば、天安門事件の「戦車の前に立ちはだかる市民」の図が再現されるかもしれない。これをどうやって蹴散らすかが見物だ。こんなもの、機動隊なら催涙ガスと警棒で一発だが、軍では毒ガスのついでに催涙ガスまで禁止している。もしかすると、なにか新兵器が拝めるかもしれない。
 コソボ死守とアルバニア人追放は、少なくとも天安門事件における民主化要求と同じ程度には「市民の意思」である。先進諸国の軍事力をもってすれば、セルビアごとき小国の市民の意思くらい容易に打ち砕ける、のだろうか。

4月5日

 噂のベストセラー、大野晋「日本語練習帳」(岩波新書)を読んだ。
 感想:『1ページごとにあなたは激しくうなずく』。この本は、出版社をインプレス、タイトルを「できる! 日本語」にして売れば百万部は堅い、かもしれない。

 ユーゴスラビア情勢は目下のところ、ミロシェビッチの策が成功しているらしい。
 地上軍は投入しにくい。なにしろチャーチルが例によって血迷って「枢軸の柔らかい下腹部」と言い放った、スイスと並ぶヨーロッパの難攻不落地帯、それがバルカン半島である。原爆投下のフィルムを見て拍手するアメリカ人の気持ちが、初めてわかった。

 それにしても、なぜチャーチルが英雄扱いされるのか、私にはわからない。「悲劇の英雄」として美化して扱うならわかるのだが。
 彼の人生をよく見ると、逆境もさることながら、決定的な瞬間の敗北が多い。これは悲劇の英雄にこそ似つかわしいものだ。また、結局のところ得た勝利はあまりにも苦く、敗北とあまり変わらないようなものだった。
 おそらく今から一千年後には、スターリンが英雄扱いされるのだろう。いま、三国志の曹操がそうなっているように。嫌な気分だ。
 ちなみに私にとって英雄とは、シャルル勝利王である。卑小な魂と偉大な勝利。本人も、あえてそんなものを望んだのではないだろうに。

4月4日

 M IIが落ちる原因が判明した。CD-ROMドライブだ。スピンアップする瞬間に電圧降下かなにかがが起こって、そのとき一定の確率でCPUリセットが生じていた。
 このCD-ROMドライブはもとから地雷物件だが、この件でさらに捨てたくなった。とはいえSCSIのCD-ROMドライブはとてつもなく高価なので、買い替えるのは容易ではない。きゅう。
 気をつけよう、暗い夜道と地雷物件。

 冷却ファン駆動用のスイッチングレギュレータをマシンに仕込み、さらなる静音化を実現した。
 次なる目標はシーク音である。鉛の小粒詰めが効くかどうかを試したい。一番いいのは熱伝導性の高いゲルでくるむことなのだろうが、そこまでするならUltra2 SCSIのLVDでHDDを隣の部屋に置くほうがいい。

 「21世紀のスタンダード百合」を目指したはずの長篇に着手した。
 しかし……ホワーイ? 21世紀のスタンダードじゃなくて23世紀のギャグだこれは。最新のギャル理論を応用して設計したはずなのに、なぜこんな話に。うーむ。

4月3日

 「Re-leaf」をクリアした。
 一言:シリーズ物でもないのに、続編を前提にしたゲームを作ってはいけない。(もしかするとノベライズで決着をつける予定なのかもしれないが。「謎解きは小説のほうで」とやって売れば、小説版を売る材料になる)
 少し期待していた純百合な展開は、最後までほとんどなかった。百合的にはあまりお勧めできないゲームなので、読者諸氏がやる意味はあまりないと思う。

 どうしたことかM IIが弱まり、頻繁に熱暴走するようになった。大型ヒートシンクと6cm角ファンで冷却しているというのに。仕方なく、現在は66MHz×3.5で使っている。うーむ。

 エロゲーの売り上げの採算ラインについて友人たちと討論したところ、「一万本より上ということはないはず」という意見が各方面から出された。
 とりあえず、売り上げ一本当たりのマージンを二千円とし、開発コストを半分に圧縮して三千万円とすると、採算分岐点は一万五千本。ここからさらに半分近く削るのは不可能のような気がする。
 それに考えてみれば、一万本を採算ラインとするなら、18禁より人気声優のほうが底堅いはずだ。エロゲーは、プロデューサーの感性がまずくて悪い原画をつかんだら、平気で売り上げはどん底になりうるはずだが、人気声優なら一定数のファンがかならず底を支えてくれる。

 つだみきよ「革命の日」(ウィングス・コミックス)を読んだ。
 百合のような、百合でないような、微妙に嫌な感じが面白い。真琴がラブリー。

4月2日

 わけあってエロゲーの売り上げの採算ラインを調べている。
 インターネットで検索したかぎりでは、そうした情報は見当たらない。というわけで当て推量をしてみる。
 まず、現代のエロゲー一本を作るには、何人の人間がどれくらいの期間フルタイムで働く必要があるだろうか。プロジェクト管理、原画、グラフィッカーは間違いなくフルタイムだ。私のカンでは、この三つの職種がフルタイム労働する期間は半年程度ではないかと思う。グラフィッカーが4人として、フルタイムの半年が6人。社員一人当たりの雇用コストを年に一千万円とすると、最低でも三千万円かかる。
 半年より短い期間フルタイム労働する職種がある。シナリオライター、テストプレイヤー、プログラマがこれにあたる。これらの職種が仮に三ヶ月間フルタイムで働き、テストプレイヤーが3人、プログラマが4人として、計7人、二千万円なり。
 ゲームを作るだけで五千万円、このうえさらに広告費や設備投資などがかかる。これらをまとめて一千万円として、全部で六千万円が総コストということになる。
 新作のエロゲー一本当たりいくら会社に入るのかわからないが、仮に千円とする。
 結論:採算分岐点は六万本。
 どれくらい当たっているかわからないが、一桁違うということはないと思う。

 「Re-leaf」の時車をようやく揃えた。あとは最終ルートを回るばかりだ。
 このゲームも、構想はいいのに実装の細部にボロが出る、という典型的なパターンだった。実装こそすべて、とは言わないが、実装の大切さを思い知らされた。

4月1日

 まさかとは思うが、極端に純情かつ疑うことを知らない読者がいるといけないので、野暮と知りながらも断っておくと、この日記に書いてあることには嘘が多い。
 たとえば、私がイラクで生まれてアフガニスタンで育ったというのも嘘だ。本当はアフガニスタンで生まれてイラクで育ったのだが、それではあまり面白くないので少し脚色している。

 

今月の標語:

(個人的理由により削除済)


[メニューに戻る]