本論には、統計的な裏付けや、引用元の明示が欠けていることをお断りしておきます。
本論は、綿密な検討に入る前の、ラフスケッチの段階にあります。十分に固められた結論ではなく、有益な示唆を与えることを目指すものです。
綿密な検討の末、客観的な証拠で十分に固められた、しかしナンセンスな結論にたどりつくことがあります。もし本論が、そのようなナンセンスの妨げとなるなら、これに優る喜びはありません。
ある心理学者が、新聞の身の上相談欄を担当していました。
あるとき、再婚したばかりの子持ちの中年男性から、相談の手紙がありました。娘が、新しい妻に対して、母として接するには抵抗があるようだ、どうすべきか。
心理学者は、「母親ではなく父の妻として、つまりなかば他人として接するよう仕向けるべきだ」と答えようとしました。母娘として暮らした蓄積がなく、また互いのことを認め合って家族になったわけでもなく、心理的には他人同士なのだから、そのようにすべきだと。
が、この回答に対して、編集部から待ったがかかりました。このような回答は社会的に受け入れがたく反発を招く、もっと穏当なものを、と編集部は要求したのです。
これは、「家族」という支配的イデオロギーが現実を蹂躙した例です。母娘として暮らした蓄積がないという現実は、イデオロギー上の要請を満たすために、無視されたのです。
この「無視」という特性をよく心に留めておいてください。イデオロギーは、もっとも無視しがたいことを無視させることができます。その能力のために社会に存在している、とさえ言えるでしょう。
イデオロギーは目に見えず触ることもできませんが、社会に存在する力のひとつです。また、支配的イデオロギーは社会によって異なり、同じ社会でも時間とともに変化します。
支配的イデオロギーが社会によって異なる例として、ロシア農民社会のイデオロギーを示すアネクドートがあります。
あるところに、つつましく暮らす、信心深い農夫がいた。あるとき神が、彼の前に現れて、なにか欲しいものがあれば与えよう、と言った。農夫は、なにも欲しくない、と断った。神は重ねて、なんでも与えるから言ってみろ、と迫った。農夫は答えた――それなら、隣の奴の牛を殺してください。俺が牛を持っていないのに奴が持っているのは我慢ならないのです。
もし舞台が現代日本なら、この農夫は異常性格にすぎず、アネクドートとして成立しません。ロシア農民社会では、この農夫を異常性格として切り捨てられないからこそ、人に話すに足りるアネクドートになっています。
イデオロギーは当然、なんらかの社会的な必然性によって存在しています。しかしこの問題については、長くなるので、詳述を避けます。
まず、「イデオロギー」と「ジャンル」の違いをはっきりさせておきます。
香織派による百合の定義は、「非レズビアンの立場から書かれた非ポルノの女性同性愛(もしくはそれに近いもの)のストーリー」です。これはジャンルを示す定義であり、イデオロギーを示すものではありません。「家族」は国語辞書的には、「近い血縁関係(もしくはそれに擬せられる関係)のある人々が暮らしを共にすることで生じる集団」と定義できますが、これは「家族」イデオロギーを示していません。
特有のイデオロギーを持つジャンルもありますし、持たないジャンルもあります。たとえばミステリーは、「合理的に見出される解決と、それによって回復される秩序」という特有のイデオロギーを持っています。一方、時代劇に特有のイデオロギーは見当たりません。
イデオロギーは社会的な必然性によって存在しますが、ジャンルは商業的な便宜のために存在するカテゴリーです。「SF」というジャンルが売れなくなったので、かつてならSFにジャンル分けされていたような作品も「ファンタジー」になっています。若木未生「ハイスクール・オーラバスター」シリーズは、以前なら「学園SF」とされたでしょう。
イデオロギーにも流行り廃りがあります。朱子学イデオロギーはすっかり廃れたので、朱子学イデオロギーの作品は現れなくなりました。現在、『南総里見八犬伝』がリメイクされる場合には、朱子学イデオロギーの部分はあとかたもなく取り払われます。
フィクションは現実の社会より抽象化されているので、いっそうイデオロギーに満ちています。興味深いイデオロギーは数多くありますが、以下では、百合の直接の先輩であるボーイズラブに特徴的なイデオロギー、「強姦されてハッピーエンド」の歴史について論じます。
「強姦されてハッピーエンド」とは、その名のとおりのものです――受が攻に強姦されて、最後は受と攻が愛し合ってハッピーエンド。受の面子や怒りやPTSDなどの問題は、愛の引き立て役としてしか扱われません(もっとも無視しがたいことを無視させるのがイデオロギーの働きです)。
これが、やおいの発祥から現在に至るまで、ボーイズラブの重要な部分を占めているイデオロギーです。もし嘘だと思うなら、本屋でボーイズラブ小説をランダムに十冊買って読んでみてください。その十冊のなかの、少なくとも二冊は、「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーを忠実になぞっているはずです。
イデオロギーは純粋に抽象的なものですが、それが社会に一定の地位を占めるには、少なくとも、多数の力量あるイデオローグが必要です。
力量あるイデオローグの養成は難しく、よいお手本が少ないときにはいっそう難しいものです。
よいお手本を作れるのは、力量あるイデオローグだけです。
よって、最初が問題です。イデオロギー発生という最初の一歩を、いかにして踏み出すか。踏み出された最初の一歩が、時間の風に吹き消されないうちに、力量あるイデオローグの養成へとつなげられるかどうか。
ボーイズラブにおける「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーは、その最初の一歩を、同人誌市場で刻みました。
予兆はありました。いわゆる二十四年組の手になる、少年愛物の作品群です。これらの予兆が、男性同性愛のストーリーについての古い無力なイデオロギーを一掃しました。この大掃除によって、「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーが登場することが可能になりました。
よく探せば、予兆のなかにも、純正な「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーが見出せるかもしれません。それでも、次のように断言していいでしょう――
「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーを一定の勢力に押し上げるには、同人誌市場の存在が不可欠でした。最初の一歩を受け継いで根付かせたのは、同人誌市場です。ボーイズラブは、「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーの力によって、ジャンルとして成立しました。
最初の一歩が根付いた後には、発展のプロセスが待っています。これはなによりもまず量的拡大として現れます。
「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーは、1980年代末にはすでに、内容面では現在と変わらないものになっていました。しかし、商業誌市場には地位を得ていませんでした。現在のボーイズラブは、商業誌市場でも一定の地位を占めています。ボーイズラブの過去十数年間は、主として量的拡大の期間でした。
量的拡大とは、ユーザの数が増えることでもありますが、これはむしろ二次的な現象です。力量あるイデオローグの養成が進み、その数が増えることが第一です。力量あるイデオローグの数の増加が、作品の生産量と多様性を向上させ、結果としてユーザ数の増大をもたらします。
ボーイズラブに次いで百合に近いジャンルに、ギャル物があります。
「ギャル物」とは耳慣れない、というかたも多いでしょう。これは、「ギャルゲー」「ギャルアニメ」という呼び方に由来するもので、香織派とその友好サークル(新月ギャルの会、新月お茶の会)で通用している概念です。「ギャル」とはいっても、男性向けや女性キャラに限定するものではありません。が、ここでは少なくとも、話を女性キャラに限定します。
「ギャル物」におおまかな定義を与えると、次のようになります――「キャラ人気に多くを頼るフィクションのうち、キャラの魅力として性的な含みを多く持たせているもの」。
ギャル物においてキャラの魅力は、作品の存在理由であり目的なので、魅力を成立させるために他のすべてが動員されます。なかでも男性向けのギャル物は、ジャンル固有の文脈を高度に発達させており、この文脈を踏まえずにはまったく理解できないような種類の魅力がしばしば見られます。
ジャンル固有の文脈とは、時代劇の殺陣のようなものです。メリハリのある美しい殺陣に、「実物と違う」と文句をつける人はいません。これは「殺陣」が、時代劇というジャンルの文脈になっているからです。
殺陣の存在理由は、演劇的な美しさという比較的わかりやすいものなので、時代劇をほとんど知らなくても理解できます。が、ギャル物における「妹」概念となると、かなり難解です。その存在理由が、美しさなどの全人類的な価値観ではなく、ギャル物のイデオロギーというローカルなものだからです。
ギャル物に特有のイデオロギーは、性的な人間関係における反市場主義です。このイデオロギーの要請に応える方法のひとつが、市場から保護されている人間関係に性的な含みを与えることです。市場から保護されている人間関係のひとつに「家族」があり、妹がある、というわけです。
このように模範回答が与えられている場合、イデオロギー上の要請に応えるのは易しいように見えます。が、ジャンル固有の文脈をつくりあげてゆく過程は、けっして容易なものではありません。
二十年前、兄と妹の関係に性的な含みがあるといえば、それは必ず「タブーの侵犯」という文脈に強く縛られました。このような環境では、『シスター・プリンセス』(メディアワークス)は存在することができません。ローマは一日にして成らず、とは、ジャンルについても言えることです。
すでに述べたように、ジャンルとは、商業的な便宜のためのカテゴリーです。
便宜のためのカテゴリーだからといって、その存在を無視できるものではありません。それは経済的な面を通じて決定的な役割を果たします。
作品は、ジャンルという肩書きで世に出ます。ユーザは、本屋にあるすべての本にいちいちつきあって、その内容を見定めるわけではありません。ユーザはまず肩書きを見て、その作品に時間を割くかどうかを判断します。
もし肩書きがあまり役に立たず、己の直感と情報収集力によって作品を判断しなければならないとしたら、その負担と機会損失は恐るべきものです。
ジャンルの経済的な面の大半は、いくつかの法則として記述することができます。ここでは、特に重要と思われる三つの法則を掲げておきます。
法則一・ユーザ数が少ないほど、個々のユーザにかかる負担は増大します。
つまり、収穫逓増の法則です。農産物や工業製品では、生産量が一定量を過ぎるとこの関係が逆転し、収穫逓減の法則が働くこともあります。しかし、ある種の製品では、収穫逓減の法則が働くことはありえません。これは特に、パソコン用ソフトウェアについていえます。
ユーザの数が多いほど、ソフトは数多くの種類が作られます。ユーザはそのなかから最善のものを選ぶことができます。また、最善でない他のソフトに対しても、いまある最善のものへと近づくよう要求することができます。こうして、一人当たりの負担は減少します。
フィクション作品では、パソコン用ソフトウェアほど事情は単純ではないものの、やはり収穫逓増の法則が常に有効です。たとえばボーイズラブについて、十数年前と現在を比較してみましょう。
現在のようにボーイズラブ専門レーベルが現れる前には、商業誌に流れる作品の数はきわめて限られていました。また同人誌即売会に参加するには、本屋に立ち寄るのとは比較にならないほど多くの時間と費用がかかります。当時と比べて現在では、ボーイズラブのユーザの負担は、格段に減少しました。
ユーザ数の増大が先か、負担の減少が先かについては、いささか難しい問題があります。しかし、因果関係をひとまずおいて相関関係だけを見るなら、二つのあいだには間違いなく正の相関があります。
法則二・ユーザの総数が多いほど、個々のユーザが耐えられる負担の限界は、小さくて済むようになります。
もしボーイズラブが現在の百合のように稀なものだとしたら、ボーイズラブ作品を求めて東奔西走する(=大きな負担に耐える)人は、かなり多いと考えられます。これは、法則二が無意味な例です。耐えられる負担の限界は、「小さくて済む」のであって、「小さい」のではありません。
では、トラベル・ミステリーでは? 数少ないトラベル・ミステリーを求めて労を惜しまず情報収集に励む人は、どのくらいいるでしょうか。ボーイズラブを求める人の数に比べて、何分の一か、何十分の一か、もしかすると一人もいないかもしれません。法則二はこのようなケースを記述するものです。
(ひとつの疑問が生じます――トラベル・ミステリーはユーザ数が少なければ成立しないのでは? トラベル・ミステリーは最初から多数のユーザを得ていたのでしょうか?
答は、「そのとおり」です。ミステリーというジャンルは、松本清張が『点と線』を発表した1957年には、すでに多数のユーザを得ていました。トラベル・ミステリーは既存のミステリーを踏み台にすることで成立しました)
負担限界には、ジャンル特有のイデオロギーが大きく寄与することもありますし、なんらかの個別的な事情が寄与することもあります。たとえば、同性愛者向けというジャンルは、個別的な事情が負担限界を決定している例です。
法則三・ユーザの総数は、もっとも不足している要素によって決まります。
ごく単純な、律速段階の法則です。発電所には100の発電能力があっても、送電線の送電能力が50しかなければ、結果的に50の電力しか送れません。発電所が50、送電線が100だとしても、結果は同じです。
このような不均衡は、時間とともに是正されます。不均衡が完全になくなった均衡状態を仮定するとき、資本主義においては、利潤が律速段階として働きます。ジャンル経済学の世界では、イデオロギーの力が律速段階です。
現在、ほぼ均衡状態にあると考えられるジャンルに、SFがあります。SFの知名度は高く、作品に触れることも容易ですが、SFのユーザが増えている兆候はありません。もし将来、SFが拡大に向かうとしたら、そのイデオロギーに変化が生じたときでしょう。
十数年前のボーイズラブは、均衡とはかけはなれた状態にありました。1985~1995年のあいだ、ボーイズラブの律速段階は主として、力量あるイデオローグの数であったと考えられます。
一般に、急速に拡大しつつあるジャンルでは、力量あるイデオローグの数が律速段階になるようです。ユーザになるのも、イベントにサークル参加するのも簡単ですが、力量あるイデオローグになることはまったく簡単ではありません。
以上は、百合をめぐるジャンルとイデオロギーについての議論でした。以下では、百合そのものについて論じます。
百合のイデオロギー史は、吉屋信子に始まります。吉屋信子の百合に特徴的なのは、女性への強い憧れです。吉屋信子は人間観察の達人ですが、人間を理想化することの達人でもありました。
吉屋信子的な理想化は、「高邁な魂を呼びあう二人」という形に整えられ、目立たぬながら1980年代まで受け継がれました。学習指定物件の、有吉京子『アプローズ ―喝采―』(秋田書店)もこの系譜です。坂井久仁江「明の明星女学院の初夏」(『バッドコネクション』(集英社)所収)は、このイデオロギーの存在を前提にしたものです。
1970年代には、「愛ゆえに孤立」イデオロギーが見られるようになります。愛は高邁な理想であり、同性愛だからといって引き裂かれそうになるのは愛への冒涜であり試練である、というイデオロギーです。福原ヒロ子『真紅に燃ゆ』(集英社)などが代表的な例です。
「高邁な魂を呼びあう二人」も「愛ゆえに孤立」も、あまり魅力的なイデオロギーではありませんでしたが、ほかに代わるものもなかったので存在しつづけました。
すべてを一変させたのが、セラムンです。
革命の炎のなかで、古い無力なイデオロギーは焼き尽くされました。しかし、新しい強力なイデオロギーは訪れませんでした。
新しいイデオロギーを強いて挙げるなら、「身近な愛」です。おかしな理想化や不快な強迫観念から自由な、自分のよく知っているものでできた愛、というイデオロギーです。一九八〇年代後半から浮上してきたイデオロギーですが、セラムン後には完全に他のイデオロギーを圧しています。
セラムンの炎からすでに五年以上が過ぎました。もし「身近な愛」イデオロギーが十分に強力なら、現在の百合はかなりの勢いで拡大しつつあるはずです。しかし、そのように考える証拠は見当たりません。
その一方で、セラムン後の百合は、かつてなく存在感を発揮しています。大はCCさくらから小は『ココロ図書館』(メディアワークス)まで、その存在感は十分とはいえないものの途切れることを知りません。百合は小さいとはいえ確固たる地位を占めたかに見えます。
もしこれが、メイド服や眼鏡のようなフィーチャーであれば、なんの問題もありません。メイド服や眼鏡は、それを出すために思想的な裏付けを必要としません。いわば、イデオロギー・フリーです。しかし百合はまったくイデオロギー・フリーではありません。百合はキャラの行動様式であり、思想的な裏付けを要求します。
「身近な愛」イデオロギーは、このような思想的な裏付けとして十分に機能しているでしょうか?
私が現状をみるところでは、このような思想的な裏付けは個々の作家の力量に頼るところが多く、「身近な愛」イデオロギーは十分な支援を提供できていません。『鋼鉄天使くるみ2式』(ポニーキャニオン)が失敗した原因のひとつは、思想的な裏付けを欠いたことにあります。
次のように言うことができるでしょう――百合の存在感とイデオロギーのあいだには、明白なギャップがあります。このギャップは、存在感を減じるか、イデオロギーの力を増すか、いずれかによって解消されるべき運命にあります。
存在感を減じる道はまったく受け入れがたいので、唯一の道は、イデオロギーの力を増すことです。
ジャンル固有の文脈が整備されると、イデオロギーの力は増します。「身近な愛」イデオロギーは現在この整備の過程にある、と考えることもできます。しかし、このような整備のためには、セラムン後の五年という期間はけっして短すぎるものではありません。現在の「身近な愛」イデオロギーに期待することは、不合理とはいえませんが、やや見込みが薄い、というのが私の直感です。
既存のイデオロギーが駄目なら、新しい有力なイデオロギーが必要です。それはどんなイデオロギーでしょうか?
残念ながら、理論的考察は、この問題に答を与える段階にありません。統計的な事実にもとづく社会学的な研究を積み上げることなしには、予想は当て推量の域を出ません。今の段階では、当て推量によってではなく、作品によって答えるべきでしょう。
百合のイデオロギー発展史を、ボーイズラブのそれと比較し、あてはめることができます。
ごく大雑把に類推するなら、セラムン、ウテナ、CCさくらなどは、未来の百合の予兆である、とみなすことができます。これらの予兆は、古い無力なイデオロギーを一掃しました。しかし、新しい有力なイデオロギーまでは提供せず、ただそれが現れる条件を整えるにとどまりました。
ボーイズラブでは、この予兆に続いて、「強姦されてハッピーエンド」イデオロギーが見出されました。もし百合が、近い将来に大いに発展を遂げるのだとしたら、新しい有力なイデオロギー(あるいは「身近な愛」イデオロギーかもしれませんが)が現れて、求心力を発揮するでしょう。
百合の経済的な面の、過去と将来をみてゆきます。
八十年代後半と比較すれば、現在の百合はあらゆる面で発展しています。
第一に、同人誌市場の発達、インターネットの出現、レディコミ・バブルや少女小説バブルの崩壊などによって、少数派の力が強くなりました。この点において、百合はかつてのボーイズラブよりはるかに恵まれた条件にあります。ボーイズラブが拡大していった時代には、同人誌市場は幼稚であり、インターネットは存在せず、商業誌では少数派はひどく無視されていました。
第二に、セラムンを筆頭として、百合を含む有力な作品が多数現れ、百合は存在感を大いに増しました。
当然、百合のユーザ数もかなり増えていると考えられます。といっても、八十年代後半のボーイズラブのユーザ数には遠く及びませんし、今後二、三年のうちにそうなる見込みもありません。
ここで、ジャンル経済学の三法則をもう一度掲げておきます。
法則一・ユーザの総数が少ないほど、個々のユーザにかかる負担は増大します。
法則二・ユーザの総数が多いほど、個々のユーザが耐えられる負担の限界は、小さくて済むようになります。
法則三・ユーザの総数は、もっとも不足している要素によって決まります。
法則一から、現在の百合は、少数のユーザが大きな負担に耐えるものとして存在している、といえます。
諸条件の改善や、かなりの存在感の発揮にもかかわらず、ユーザ数が目に見えて増加する兆しがないところを見ると、現在の百合の律速段階はイデオロギーの力である、といえます。
以上の議論から、百合が歩むべき経済的な面での発展史について、かなりのことが言えます。
百合のいっそうの発展には、新しい有力なイデオロギーが必要です。このようなイデオロギーが出現するための条件が整っていることは、すでに論じました。この新しい有力なイデオロギーを、仮にXイデオロギーと呼ぶことにしましょう。現在の「身近な愛」イデオロギーがXイデオロギーである可能性もあります。
Xイデオロギーは、法則二における負担限界を、ある程度の高さに保つものでなければなりません。とはいっても、すでに述べたように、ボーイズラブの草創期よりは事情は有利です。さらに、類似ジャンルとして、ボーイズラブやギャル物を踏み台にできる可能性もあります。未来の百合の負担限界は、ボーイズラブよりかなり低くてもかまわないはずです。
Xイデオロギーが現れ根付いたあとには、力量あるイデオローグの数が律速段階になります。はじめのうちは一見、それまでと同じく、状況は遅々として進まないように見えるでしょう。よいお手本や、百合固有の文脈が未整備なため、力量あるイデオローグになるには、きわめて高い資質が要求されます。
しかし、いったんこの段階に入れば、蓄積が生じます。進まないように見える状況は実は、加速度的に進行しています。
状況はいつのまにか目に見える前進をはじめ、百合のユーザ数はゆっくりと増えて、一定数に達します。ここで、臨界点というべき決定的な通過点が浮上してくるでしょう――コミケのジャンルコードです。
百合にコミケのジャンルコードが与えられれば、それを境にして、イデオローグの養成はぐっと容易になります。お手本となる作品を探したり、未来を指し示す作品に注目したりすることが、非常に簡単になるからです。イデオローグの養成だけではありません。百合固有の文脈も、それ以前とは比較にならない速さで発達するでしょう。
香織派の目標は、「百合がコミケのジャンルコードを獲得すること」です。この目標を設定したのは、目標達成後のことを考える必要がないからです。百合は、現在のボーイズラブがそうであるように、その可能性の限界に至るまで、普及し発達するでしょう。
最後に、いままでの議論を、百合の発展のタイムテーブルにおける現在の位置としてまとめておきます。
ボーイズラブの事例から類推するなら、現在の百合は、「予兆」をすぎた段階にあります。
イデオロギー面からみるなら現在の百合は、古いイデオロギーを投げ捨てた直後です。
百合はその一定の存在感にもかかわらず、イデオロギーの力を欠いています。これは、新しい有力なイデオロギーの出現を招く状態です。
経済面からみるなら、現在の百合は、大きな負担に耐える少数者によって支えられている段階にあります。もっとも不足している要素は、イデオロギーの力です。
今後、百合は新しい有力なイデオロギーを見出すと考えられます。これは現状の停滞を徐々に打ち破って、加速度的な発展をみせるでしょう。
現在の百合のイデオロギー、「身近な愛」が十分に強力なもので、すでに加速度的発展が始まっている、というシナリオも考えられます。このようなシナリオを支持する証拠は見当たりませんが、ありえないとする証拠もありません。
コミケのジャンルコードは、百合の発展にとって大きなマイルストーンになります。このマイルストーンを通過したとき、百合は確実になにかを達成したといえるでしょう。
ご覧のとおり本論は、かなり思弁的なものであり、統計や数字に基づいていません。昨今の不況の影響など、一顧だにしていません。関連は大いにあるにきまっているのですが。
あなたがナンセンスの前でうろうろするときに、もし本論がなにかの役に立ったなら、私の努力は報われたことになるでしょう。