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 陛下はドラマを求めておられる――それが橋本美園の言い分だった。
 「陸子さまは、うちの子に手を出してないの。着せるものに凝って、若いの揃えて、きれいどころばっかり12人もいるのに」
 それでは、美園さんの目の前にいる人物のことは、どうお考えでしょう――そんな質問がしたくなった。
 「平石さん以外は中学生ではありませんからね」
 「どうして中学生なんだと思う?」
 「それは、なぜ陛下は同性愛なのか、と訊ねるのと同じことではないでしょうか」
 「陸子さまは中学生でないと立たない――いやこれは物の喩え。とにかく、そういうかただと思う?」
 「……いいえ」
 「うちの子は、不純な動機で来た子も多いの。国王の愛人になってみたい、っていうのが。でもみんな討ち死にしてる」
 身から出た錆とはいえ、陛下は大変な目に遭われているらしい。
 「選り好みしておられるのでは」
 「そんなかただと思う?」
 「……それほどでもないでしょうね」
 「好みはおありだけれど、控え目でプライドが高くて上品な人、くらいでしょう。でもそんなの、うちの子は半分以上がそう。
 じゃあ、どうして、いままでのうちの子だとダメで、平石さんならいいのか」
 平石緋沙子との特別な関係は、醜聞になり、ドラマになるから――それが橋本美園の言い分だった。
 「女中頭としては、手をこまねいてはいられない、というわけですね」
 女中頭は、公邸内における非公式な人間関係に責任がある。
 「いいえ」
 あっさりと橋本美園は答えた。
 「この程度のことは、平石さんを雇ったときから了解が取れてるの。ほどほどに悪さをするのも、国王の仕事のうち、ってこと。
 問題は、私の感情。
 陸子さまのお相手は、ひかるさんでなきゃ嫌」
 私は、先日の彼女の言葉を投げ返す。
 「『萌え』ですか」
 にこやかにかわいらしく、橋本美園は答える、
 「なめんなよ」
 「……なにを、でしょう」
 「萌えを。
 ひかるさんのために今の仕事と旦那を捨てられるか、って言われたら、無理。だけど、ひかるさん萌えのためなら、できる気がする。この怖さ、わかる?」
 「よくわかりません」
 「愛と正義の怖さは知ってる?」
 「少しは」
 どちらも、人をのっぴきならないところに追いやってしまう力だ。
 愛の大きさは比較することができない。だから聖書の羊飼いは、迷子になった一匹の羊を追って、他の99匹の羊を置き去りにしてしまう。
 正義は永遠に変わることがなく、棚上げにすることもできない。だから聖書のヨブは、神の気まぐれによる試練に耐えつづける。
 「萌えって、愛と正義のことだからね。怖い怖い」
 「……そう言われると、わからないでもありません」
 「ひかるさんはさっき、萌えをなめてた。なめんなよ、ってこと。
 ――で、陸子さまとキスしたご感想は?」
 予想していたので、驚きもない。
 「カマをかけないでください」
 「ずいぶん芸のないとぼけかたするじゃない」
 「では、凝ってみましょう。
 身に覚えのないことですが、美園さんがそうおっしゃるのですから、事実なんでしょう。だとすると、どうやら私は二重人格のようです。感想は、もうひとりの私に聞いてください」
 「へー。そういうことにしときましょうか。
 もうひとりのひかるさんに、アドバイス。
 キスしてくれたから大丈夫、なんて思ってないでしょうね? 逆。危険地帯に踏み込んだ。ドラマの舞台にひっぱりあげられちゃった。
 舞台に立ってるのが、陸子さまと平石さんだけなら、あんまり盛り上がらない。二人とも失うものがない。二人がどうなっても、ひかるさんは護衛官をやめないでしょ? 陛下は国王をやめない。平石さんがお側仕えをやめても、いい経験だった、で済んじゃう。
 ひかるさんが舞台に上がったおかげで、陸子さまはひかるさんを失う危険を背負った。これでこそ、ドラマってもんよ。
 この設定から、どういう筋書きになると、一番ドラマチックだと思う?」
 まんが家くずれの意地がある。私は真剣に考えた。
 考えて、気づいた。
 陛下はドラマを求めておられる。橋本美園の言い分は正しい。最終面接のときの、陛下のお言葉――『ひかるちゃんの言うとおりだね。そういうこと想像すると、気持ちいいよ』。
 「まず、平石さんが陛下に殺意を抱いて、刃物で刺そうとする。その身代わりに私が刺される。私は平石さんをかばって、犯行をなかったことにする。そのせいで手当てが遅れて死ぬ――といったあたりでしょうか」
 「ナルシストだね。
 ひかるさんがそんなんじゃ、こりゃ、なるようにしかならないかな」
 橋本美園はあきれ声で言った。けれど、その顔は笑っていた。これはこれで萌えているらしい。



 日曜日には、国王の仕事は休みになる。
 土曜日も原則として休みだが、丸一日なにもない日のほうが少ない。昨日も陛下は老人ホームをご訪問なさった。ただし護衛官は土曜日には滅多に警護しない。国王には12人のメイドと3人のコックがついているので、休日が少なくてもなんとかなるが、護衛官には一人もいないのだ。
 日曜日は、国政選挙の公示期間中でもないかぎり、丸一日休みになる。もちろん護衛官もお休みだ。
 私は早起きして、部屋をざっと片付けた。掃除機をかけたりはしないでおく。今日はお側仕えのメイドの誰かがきて、屋内を掃除してくれる。護衛官の官舎は一人暮らしするようにできていないので、家事を手伝うために、財団がときどきよこしてくれている。
 片道30分のスーパーに行って、食材を買い込む。
 昼食前、一週間ぶりに料理というものをする。料理といっても、もりそば。いつもは財団の職員寮にある食堂で食べている。『護衛官専用』と銘打って、職員とは違う献立を作ってくれている。聞いたところでは、陛下のお食事と同じものだという。予備の食材のおさがりなのだろう。さすがにおいしい。ただし食器は食堂のものだ。
 料理しながら、食べながら、たまっていたTVアニメの録画を流す。陛下はTVアニメがお好きなので、話題にできるように見ている。内容自体はつまらなくても、陛下のご感想を想像しながら見ると面白い。
 食べ終わった皿や、そばを茹でた鍋などを、洗わずにキッチンのシンクに置いておき、これまたメイドの仕事にする。30秒もあれば片付いてしまうが、こういう細々した仕事がないと、不安そうな顔をされる。
 録画を見ながらメイドを待っていると、チャイムの音がした。玄関に迎えにゆく。
 背の高い姿。
 「あら、今日は平石さんなの。陛下のお言いつけ?」
 「はい」
 つまらなそうな顔をしている。無理もない。陛下のお側にいられるはずが、私の世話をさせられるのだから。
 平石緋沙子に掃除をまかせて、私は録画の続きを見る。彼女はキッチンから取りかかった。
 メイドたちはみな惚れ惚れするほど掃除が素早い。巨大なカゴに掃除道具をひとまとめに入れていて、作業にふさわしい道具が一瞬で出てくる。雑巾だけでも3種類くらいを使い分けているらしい。
 平石緋沙子には、あんな名人芸ができるのだろうか。気になってちらちら見ていると、少しもひけを取らない。
 私は、仕事中のメイドに用もなく話しかけることは、めったにしない。けれど今日は、どうしても口をきいてみたくなった。私はビデオを止めて、キッチンに入った。
 「掃除のしかたって、イギリスでも同じなの?」
 「基本は同じです。相手と道具を知ったうえで、段取りを組み立てるんです」
 「それって、どんな仕事もそうなんだけど」
 「公邸は和風建築ですから、勝手が違います。でも道具は同じようなものです」
 そうして、しばらく無駄話をした。
 バッキンガム宮殿のスタッフはみなひどい薄給らしい。洗剤は日進月歩のハイテク産業だという。ブラシは、先が少しでも丸くなったら、すぐに取り替えなければならない。
 キッチンとダイニングの掃除はすぐにすんで、平石緋沙子は別の部屋に移った。私は録画の続きを見て、それがすむと、ファッション誌をめくる。
 陛下のお姿はさまざまなメディアに出ているが、一番よく撮れているのは、ファッション誌だ。モデルにくらべると背が低いのが目立ってしまうものの、ポーズや仕草の美しい瞬間をよく選んでいる。陛下のこういうお美しさは、写真ではなかなか伝わらない。陛下ご自身も、写真よりもTVを好まれる。
 (もっとも、一番ご贔屓のメディアは、ラジオなのだが。陛下は小学生のとき、声優を目指しておられた)
 ファッション誌にはたまに、私の服装が取り上げられていることもあるが、なるべく見ないようにしている。モデルはみな背が高いのに、私のようにあまり背の高くない女がマニッシュなパンツスーツを着ているのは、どうしても格好のいいものではない。
 のんびりしているうちに、FAXが届く。明日の月曜演説の警備についての連絡だった。
 国王は毎週月曜日の昼に、国内各地を訪れて、演説をする。内容は世間話だ。演説の開催地への共感を表し、前の週にあった大きな出来事をとりあげて感想を述べ、国王自身の個人的な出来事を話し、千葉の独立を称える。無難な話題が欲しいときは、月曜演説の話をすればいい、というくらいのものだ(相手が割譲派や併合派でないかぎり)。
 聴衆を集める都合上、月曜演説の開催予定は前々から発表されている。会場には小中学校の体育館や公民館が多い。こういう会場では、聴衆の最前列から演壇の上の陛下のところまで、3秒で到達できる。会場の警備には地元警察があたるので、警護とのすりあわせに苦労することが多い。護衛官としては神経を使うイベントだ。
 FAXの内容は、私の要望に対する回答だった。小銃や望遠カメラで控室を狙える地点が多すぎるので、控室の場所を変えるよう、地元警察に要望していた。回答は、場所は変えない、そのかわり衝立を増やす、だった。
 私はFAXをファイルに放り込んだ。なめられているのは明白だが、いまからではなにもできない。
 ファッション誌を見ながら、インターネットを調べて回る。着る機会がめったにないような服にかぎって気になる。少々買っても痛むような懐ではないけれど(護衛官は指定職4号俸(*1)だ)、あとで処分したときに悲しい気持ちになる。
 と、
 「設楽さま、屋内の清掃が終わりました。ご用をなんなりとお申しつけください」
 私は時計を見た。午後4時。早く陛下のもとへ戻りたいことだろう。お側仕えのメイドたちはみな職業的な笑顔が上手なのに、平石緋沙子は仏頂面をしている。
 少し、意地悪をしてみたくなった。
 「お茶を入れて。二人分」
 メイドにお茶を注文するときは、ちゃんと『二人分』と言わないと、私の分しか持ってこない。
 早く戻りたい一心で、大急ぎでおざなりに入れてくるかと思いきや、たっぷりと時間をかけた。
 2客の茶碗をダイニングテーブルに置くと、平石緋沙子はテーブルにつかず、後ろに下がって立った。
 「座って、飲んで」
 「恐縮です」
 入れてもらったお茶を飲みながら、自分の15歳を振り返った。
 おいしいお茶の入れ方など、知っていただろうか。思い出せない。きっと知らなかった。たとえ知っていても、こんなときに、時間をかけてお茶を入れることができただろうか。とてもそんな気がしない。
 私は改めて、平石緋沙子を尊敬する気持ちになっていた。
 「ひさちゃんは、日曜日にお仕事なんだ。お休みは何曜日?」
 思わず、『平石さん』ではなく『ひさちゃん』と言ってしまった。陛下の呼び方がうつったらしい。
 「月曜と火曜です」
 「今日が終わったら、水曜まで陛下と会えないんだね。早く帰りたいでしょう」
 私は意地悪を言ったつもりだった。
 「……いいえ」
 重い言葉だった。
 思えば、彼女がここに来たのは、陛下のお言いつけだという。愛しい中学生メイドとゆっくり過ごせる、せっかくの機会なのに、なぜ私の家の掃除をさせるのか。おかしいと気づくべきだった。
 どう応じたものか、私はしばらく悩んでから、
 「――陛下と喧嘩でもしたの?」
 「いえ」
 あまり深くたずねないほうがいい、そんな気がした。その一方で、陛下のことを知りたがっている私がいる。
 「陛下のこと、嫌いになった?」
 「お慕い申し上げています」
 どうも、事情はひとつしかなさそうだった。
 「陛下に、なにか――セクハラされた?」
 「……国王の名誉を守り、威厳を高揚することも、護衛官の使命のうち。そうですね?」
 ただごとではなさそうな雲行きだった。ふざけて胸を触られた、くらいではすみそうもない。
 「ええ」
 「ですから、設楽さまに相談すれば、陸子さまのためになるようにしていただけると思います。
 ――陸子さまは、私が設楽さまのことをお慕いしているのだと、思い込んでおられます」

  *1:二〇〇二年度には月額七九三〇〇〇円。



 「…だから?」
 確かに、嫌われているわけではない。散歩につきあってほしいと頼まれるくらいには、いい感情を持たれている。けれど、それが、なんなのだろう。
 「その、慕うというのは、恋愛感情という意味です」
 なるほど。私はため息をついた。
 陛下は独占欲が強い。あまりに強いので、ときどき、やりきれない思いにさせられる。
 私が友達から猫を預かったときのことだ。アーネストという名前で、珍しい種類の猫だった。世間話の折りに、その猫のかわいさについて申し上げた。私の留守中になにもなければよいのですが、とも。そのあと陛下は、事あるごとに、『アーネストのことが気になる?』とお尋ねになった。
 陛下は私の関心をひとりじめなさりたかったのだ。私が何度、陛下のことが最優先と申し上げても、ご下問はやまなかった。猫が飼い主のもとに戻るまで、それは続いた。
 「そういうの、私もやられたことがある。友達から猫を預かって――」
 私は猫のことを話して聞かせた。けれど緋沙子は、暗く答えた。
 「その程度のことでしたら、設楽さまを煩わせません。設楽さまを避ければ済むことなら、そうします」
 「――今日ここにきたのは、陛下のお言いつけ、だったよね」
 独占欲だとしたら、矛盾している。
 「はい。
 陸子さまのお考えでは、私は、……設楽さまを、気持ちのうえで慕っているだけでなく、……身体の結びつきもあるはずだ――ということになっています」
 「それは、本気でそう思ってる? つまり、頭のおかしい人みたい?」
 もし精神疾患なら、それ相応に対処しなければならない。
 「いいえ。
 私が事実を申し上げると、陸子さまはおっしゃいます。『そりゃわかってるけど、想像してみて』。そうして、設楽さまの魅力を滔々と語ってくださいます。
 そのあとで、お尋ねになります。設楽さまについて、――きわめてプライベートなことを。身体の結びつきがある間柄でなければ、知りえないようなことを」
 「……背中にいくつホクロがあるか、とか?」
 緋沙子は、私を見下したように顔を後ろにそらせ、眉を寄せた。陛下のお言葉が思い出された。『ひさちゃんなんか露骨だよ』。こういうことか、と思う。
 「それよりも数段、口に出すのが憚られるようなことです」
 その言いように私は挑発されてしまった。
 「私が信用できないなら、打ち明け話なんかしないでちょうだい」
 「では、申し上げます。
 陸子さまは私の手をお取りになって、ご自分の胸やお尻に持っていって、そこを触るようにとおっしゃいます。
 そうして、お尋ねになります。『ひかるちゃんのここは、どうだった?』。私が事実を申し上げると、『想像するの。私はいっつも』――」
 緋沙子は、ぱたっと口をつぐんだ。しまった、という顔だった。
 「陛下への気遣いは、私がします。緋沙子さんは、自分のことだけ考えて決めて。言うべきかどうか」
 「では、申し上げます。
 『私はいっつも想像してるよー? 私、ひかるちゃんの裸も見たことないの。ひかるちゃんは私の裸なんて、しょっちゅう見てるのにねー。ひさちゃんはぜんぶ見たんでしょ? いいなー。どうやってひかるちゃんをかわいがってるの?』。
 ――陸子さまは、こういったことをおっしゃいます」
 彼女の話は、私の心臓に響いた。頬が赤くなるのを、どうしようもない。
 自分の身体の反応に気づかないようなふりをして、私は、
 「……教えてくれて、ありがとう。
 できるだけ緋沙子さんの望みがかなうようにします。どうしたい? やめたいわけじゃ、ないんでしょう?」
 「私よりも設楽さまのほうが、陸子さまのことをよくご存じだと思います。陸子さまにいいようにしてください。
 ただ私は個人的に……その――」
 緋沙子の頬が染まった。おかげで、自分の頬の赤さが、あまり気にならなくなった。
 「いまさら遠慮するようなことなんてないでしょう。なんでも言って」
 「――陸子さまのお申しつけくださるように、設楽さまの不埒なありさまを想像しても、よろしいで……」
 「そこで恥ずかしがらないで! プレッシャーかかるじゃない。
 だいたい緋沙子さん、私にこんな話きかせて、どうしてほしいの? 陛下とのトラブルは橋本さんに言うことでしょう? 想像なんて、私に黙ってすればいいじゃない、陛下だってそうなさってるんだから。
 私は――」
 しまった、と思った。
 緋沙子の、いまにも泣き出しそうな瞳。
 それは頬につたう涙よりも涙らしいと思う。
 「――そういえば私、ひさちゃんのこと、なんにも知らないな。
 ひさちゃんは頑張ってるから、大人に見える。私よりも大人じゃないかって思うこともある。尊敬してる。陛下がひさちゃんのこと好きなのも、当たり前だと思う。
 ひさちゃんが大人に見えるから、つい、甘えちゃった。いけなかったね。ごめん」
 緋沙子はうつむいてハンカチを目にあてた。
 私は、その顔を見てはいけないような気がした。席を立ち、彼女の後ろにゆく。
 両腕を、彼女の胸に回す。
 しばらくして、ハンカチをポケットに戻すと、緋沙子は私の手を握って、
 「ありがとうございます」
 「どういたしまして」
 「……設楽さまはさきほど女中頭のことをおっしゃいましたが、女中頭は私をやめさせたがっています。こんなことは打ち明けられません。
 陸子さまのなさったことが、国王という立場に照らして許されるものかどうか、私にはわかりません。もしまずければ、陸子さまにとっていいようになさってください。
 もし許されるものなら、私はこのまま陸子さまにお仕えしたいです。ああいう……親密なお振る舞いには、とまどうこともありますが、嬉しく思います。
 ただ、設楽さまのことを、隠れてあんな風に……ダシにするのは、気が……とがめました。設楽さまはこんなによくしてくださるのに。でも、そういう問題ではないんですね。
 ……でも結局は、話を……話を、きいてほしかっただけです。誰にも言えないのが……辛かっただけです」
 「公邸に戻りたくなった?」
 「……はい」
 迷いが、声に出ていた。
 「仕事の帰りにいつでも、うちに寄っていって。話相手が私でよかったらね」
 「ありがとうございます」
 
 その日の夜は、緋沙子はやってこなかった。



 月曜演説は正午から始まる。ただし国王が演説地に入る時間はもっと早い。
 演説前に、その土地の有力者や、財団と縁の深い人物のところを訪れる。土地の有力者には、財団が推す政治家を伴ってゆき、選挙への協力を依頼する。財団と縁の深い人物には、一緒に写真を撮ったり、揮毫したりして、財団との結びつきを誇示する機会を与える。
 ところが今日は、そうした予定がすべて演説後に変更になった。併合派テロ組織によるテロが計画されている、との情報が浮上したためだ。当初の予定より30分遅れて演説地に入り、到着から演説までの時間は、会場の控室でつぶすことになった。
 控室の場所の件もあって、私は嫌な予感を覚えながら、公邸を出発した。
 今日の演説地は、銚子の近くの田舎町だ。公邸そばのロシア陸軍基地からヘリで移動する。着陸までは護衛官はなにもできないので、陛下のお相手などをしながら、気楽に過ごす。
 ヘリから降りて車に乗るまでのあいだが狙われやすい。1983年には迫撃砲によるテロがあり、ロシア軍兵士と財団職員に犠牲者が出た。
 ローターの回転が止まり、車がヘリの前に横付けされる。財団の警護部の近接警護班4人が、ヘリの扉の前に並ぶ。
 ヘリには装甲があるので、扉を閉じているあいだは、砲弾が直撃しないかぎり安全だ。乗員が何気なく扉を開けようとするのを、私は制止して、「安全確認をもう一度」と頼んだ。
 「ひかるちゃん、なにかあったの?」
 予防動作です、と私はご説明申し上げた。いつも同じタイミングで同じことをしていると、攻撃側にパターンを読まれる。ときどき違うことをすると、攻撃側はやりにくくなる。
 「そうじゃなくて、ひかるちゃんの顔。ナーバスだよ」
 「――申し訳ございません」
 私は反射的に笑ってみせた。
 「笑う門には福きたる、だからね」
 陛下はご自分の頬に指をあてて、大きな笑顔を作ってみせてくださった。
 と、イヤホンに、個人呼び出しの信号音がきた。私だけに聞かせている、という意味の音だ。
 『状況は異状なし。無線に異状なければ、本部まで電話願います』
 私は携帯電話で警護本部にかけて、異状なしと告げる。
 扉を開けてもらい、車までほんの十歩ほどを歩く。まわりを近接警護班4人が囲み、射線を妨げている。私は陛下の右斜め後ろを、体がぎりぎりぶつからない距離を保って歩く。傍目には何気ないこの動作が、実はとても難しい。初めてこの動作の訓練を受けたあとには、2日間は足腰が立たなくなった。警護対象から目を離して歩けるようになるまでに、一ヶ月かかった。
 車は滞りなく、演説会場の市民ホールへと向かう。
 施設の外周を警察が固めている。これといって普段と違うところはない。
 通常の手順に従って、警護部職員、運転手、護衛官、国王の順で車から降りる。私は陛下の右斜め後ろを歩く。4人の近接警護班は、私よりも少し離れて、陛下を囲んで歩く。
 と、イヤホンに信号音。
 その意味は、《発砲アリ》。
 私は陛下の右腕をつかんで強くひっぱる。陛下のお体は横に倒れながら回転する。近接警護班のうち3人がこちらに飛びつこうとしているのが見える。私は陛下の倒れこむお体の下に自分の体を滑りこませる。
 青空が見える。銃弾が飛来した感触はまだない。誤報か。
 陛下のお体を胸で受け止める。背中にアスファルトが叩きつけられる。防刃防弾チョッキが少しだけ役に立つ。陛下のお体が私の胸にめりこむ。さらに近接警護班の3人が降ってくる。私の体は3人の巨漢に押し潰される。
 銃声も着弾もない。誤報だ。
 近接警護班のリーダーが、
 「状況を願います」
 『発砲閃光を検出しました』
 「現場は銃声なし、着弾なし」
 イヤホンから、本部のオペレータがうなり声をあげたのが聞こえた。
 『誤検出です。状況に異状なし』
 「状況に異状なし。了解しました」
 私を押し潰している巨漢のひとりがぼやいた。
 「なんでえ」
 「さっさとどけ……」
 私は息も絶え絶えになりながら抗議した。