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 会議室にソファなどを入れた部屋が、控室にあてられていた。日曜日に連絡のあったとおり、衝立がやけに多い。窓だけでなく、出入り口まで二重に目隠ししている。かえって危険なので、いらない衝立を取り払わせた。
 警護部職員は廊下を見張る。控室には陛下と私だけになる。
 お茶をいれてさしあげ、一息ついてから、私は陛下に申し上げた。
 「私の笑いかたが足りなかったようです。面目次第もございません」
 「そーだそーだ。ひかるちゃんのせいなんだからね」
 陛下はむくれておられた。といっても本気ではない。
 「どこか痛むところはございませんか。お髪も整えねばなりません」
 そういう私の髪も、シニヨンが崩れて、ひどいことになっている。
 「腕が痛いなー。ひかるちゃんが乱暴にしたから」
 「拝見します。お召し物を――」
 言いかけて、気がつき、その先が言えなくなった。
 「賜りたく?」
 「腕を拝見するには、お召し物が邪魔でございます」
 「そう? こっちのほうが気になるんじゃない?」
 陛下はブラウスをつまんで示された。私はそれには構わず、陛下の前にひざまづいて、ブラウスのボタンに手をかけた。
 そのとき、ノックの音がした。私はしぶしぶ迎えに出る。
 ドアを開ける前に訊ねる、
 「確認します」
 「警護部の村田です。こちらの所長がご面会です」
 私はドアを開けて、所長に告げた。
 「護衛官の設楽と申します。さきほど警護のトラブルがあったため、いまはお通しできません。まことに勝手ですが、30分ほど後にお願いできませんか」
 「その件もありまして参上しました」
 所長のいうには、この市民ホールには温泉がある。今日は国王演説のため休業だったが、予定変更をきいて開けさせた。もちろん客は入れていない。ぜひ国王陛下にご入浴いただきたい――とのことだった。
 「陛下にお伺いします。お待ちください」
と言うなり陛下は、
 「入る!」
 「――とのことです。ご好意にあずからせてください。
 村田さん、経路の確保を」
 その温泉というのは、小さな田舎町の市営施設としては豪華だったが、いわゆるスーパー銭湯と比べると、かなり見劣りした。壁が八犬伝のステンドグラスになっているのだけが物珍しい。湯は透明で匂いもない。
 私は浴室の状況を確かめると、脱衣場の陛下にご報告申し上げた。
 「安全を確認いたしました」
 「はーい」
 陛下はそうおっしゃったものの、お召し物を脱ごうとはなさらない。
 すぐに私は気づいて、陛下のお召し物を脱がせてさしあげた。入浴のお世話をしたことはなかったので、一瞬わからなかった。
 痛いとおっしゃっていた右腕は、目で見たかぎりでは、内出血などはなかった。それに、多少痛くても、こればかりは堪えていただくほかない。小銃弾に当たれば死を免れない。
 「痛むのはどのあたりでしょうか?」
 「ありがとう、もう大丈夫だよー。ひかるちゃんのおかげだね」
 「光栄です」
 下着の上までは、いつもお召し替えのお手伝いをしている。が、その先は初めてだった。
 陛下が好んでお召しになるような華やかな下着は、手に触れるだけで、なにかが起こりそうな気がする。ショーツをカゴの中に入れたときには、爆弾を処理したような気分だった。
 メイクを落とすのは陛下がご自身でなさる。私はその背後をお守りする。メイク落としが終わると、陛下は、
 「ひかるちゃんも入るんでしょ?」
 「私は――」
 警護がある。
 「入りなさい」
 その、お声とまなざしに。緋沙子から聞かされた話を思い出して、私は思わず、身をすくめた。
 陛下はすぐにそのまなざしを、優しい微笑みで隠された。
 「命令しちゃった。ごめんね」
 「かしこまりました」
 私は携帯で本部にかけた。左手で携帯を操作しながら、ふとカゴの中の衣類が目に入る。何気なく、開いた右手でストッキングをとり、胸の前に持ってきた。
 私も陛下に伴って入浴することを手短に告げ、電話を切り、顔を上げると――陛下はまだそこにおられた。一糸まとわぬお姿が目に入り、あわてて目を伏せる。
 「ひかるちゃん、右手になに持ってるの?」
 ご下問の意味がわからなかった。誰がどう見ても、陛下のストッキングに決まっている。
 「陛下の――」
 血の気が引いた。
 「お赦しください」
 「ひかるちゃん、顔を上げて」
 あの視線、いつもよりもまぶたの下がった目が、私を見つめている。
 おかげで私はいくらか救われた気がした。私の醜態を、陛下は楽しんでくださっている。
 「……たぶん、ひかるちゃんのそれって、直らないんじゃないかと思うの。
 でも、悪いことしたんだから、おしおきしなきゃ、いけないよね。
 それとも、しょうがないからって、あきらめてほしい?」
 「いえ――」
 「どうしてほしい?」
 「どのようなお仕置きをくださっても、ありがたく励みにさせていただきます」
 「……本当に、どんなおしおきでもいいの?」
 「はい」
 身体が震える。冷や汗の出るような震えかたではなく、武者震いのような、いまにもはじけそうな。もし陛下の指が私の身体に触れたら――そう思うだけでまた震えがくる。
 「そう?」
 少し思案なさってから陛下は、
 「譴責。今度は気をつけてね」
 そうおっしゃって、すぐに浴室に入ってしまわれた。
 私はまず拍子抜けして、それから、泣きたいような不安に襲われた。
 私にまったく進歩がないので、それどころか悪くなっているので、あきれてしまわれたのだろうか。努力で取り戻せることなら、努力する。けれど、これは、努力でどうにかなるものなのだろうか。
 涙はなにも解決しない。拳を握りしめて不安をこらえた。服を脱ぎ、化粧を落として、浴室に入る。
 陛下は、湯舟の奥にある一段浅いところにおられた。半身浴の格好だ。私は陛下から3メートルほど離れたところで、肩まで湯に漬かる。
 気まずいので横を向いていたかったが、護衛官には許されない。陛下はステンドグラスをご覧になっているので、視線の圧力を感じずに済んだ。
 陛下は、あまり親密でない相手には積極的に声をおかけになるが、親しい相手からは話しかけられることを好まれる。この場合も、話しかけるのは私だ。
 気まずいついでに、例の話題を切り出してみた。
 「昨日、私の家を、平石さんに掃除してもらいました」
 「知ってるよー」
 「陛下が平石さんを選んでよこしてくださった、と聞きました」
 「うん」
 「それで私は不思議に思いました。どうして陛下は、せっかくの日曜日を、平石さんとご一緒に過ごされないのか、と。それとなく訊ねてみると、平石さんは、陛下のお顔を拝するのが辛そうな様子でございました」
 嘘をついてしまった。けれど、こう言わないと、緋沙子が告げ口したかのように聞こえてしまう。
 「……前置きはあとで聞くから、結論は?」
 「恐れながら申し上げます。
 もし平石さんの話が本当なら、陛下がなさっていることは、性的虐待です。たとえ陛下にはそんなおつもりはなくても、事実としては、平石さんの意に沿わないことを強いておられます。少なくとも私の耳には、強制があるように聞こえました。
 平石さんは陛下のことをたいへん慕っておりますので、いますぐに問題になることはないでしょう。ですが陛下には、御身のお立場をわきまえてくださるよう、お願い申し上げます」
 「ひかるちゃんは、ひさちゃんの味方なの?」
 私は陛下のお顔をうかがった。いつもの陛下だった。表情が冷たかったりもしない。
 「私は自分の信じたままを申し上げております」
 「……性的虐待って、どんなところが?」
 「平石さんに命じて、お身体を――胸などを触らせたことはございますか?」
 「ひさちゃん、喜んでたよ?」
 「そのような面もあるかと思います。平石さんの話を聞くかぎりでは、彼女の気持ちはもっと複雑のようでした」
 「複雑って、どんな風に?」
 私はゆだってきたので、湯舟のへりに腰かけた。
 「陛下のお気持ちそのものは、嬉しく思っているようです。ただ、やりかたに問題があるようです。
 事実に反した空想を共にすることを、彼女に強いておられる――そのように聞きました」
 「ひかるちゃんの言ってること、難しくてわかんなーい。もっとやさしく言って」
 陛下はまったく普段どおりであられた。
 「空想というのは――」
 そのとたん、陛下の視線が、まるでスポットライトのように、私に降りかかってきた。いつもよりまぶたの下がった、あのまなざしではない。いっぱいまで見開いた、興味津々、というまなざしだった。
 私はその視線に身をすくめて、腰に腕を回した。
 「私と平石さんが特に親しい、というものです。そういう設定を平石さんに押し付けて、その設定どおりに振舞うよう強いておられる――そのように聞きました」
 「特に親しい、って?」
 「……互いに身体を触れあって喜ぶような間柄、という意味です」
 陛下は、なにか企みがありそうに微笑まれた。
 「ひかるちゃんは、ひさちゃんが嘘ついてるかも、って思わなかった?」
 「陛下は、嘘つきをお側に置くようなかたではございません」
 「あーっ、今度は私のせいにするんだ。ずるーい」
 それは鋭いところを突いていた。自分の信じたままを申し上げる、と啖呵を切った手前、こんな責任逃れはすべきではない。
 「……陛下のおっしゃるとおりでした。お赦しください。
 平石さんの言葉には、説得力がありました。ほかに説得力のある材料がないかぎり、彼女が嘘をついていると考えることはできません」
 「ひさちゃんは嘘つきだよ――って言ったら、どう?」
 「陛下のお言葉の説得力によっては、考えが変わるかもしれません」
 「変えて。ひさちゃんは嘘つきなの」
 いつもの陛下だった。苛立ちも、気負いもない。
 私は絶望を感じた。陛下は、こんなかただったのだろうか。こんなに不誠実な、人を苦しめて悔やまないような。
 そうかもしれない。先日の、外房のホテルでも、陛下はおっしゃった。『ま、そうなったら、ひさちゃんには辞めてもらうけどね』。
 きっと私は、陛下の美しい面にばかり目を向けてきたのだ。
 「出過ぎたことを申し上げました。お赦しください」
 「ひかるちゃんのはだかって、いままで見たことなかったなー」
 唐突に話題が切り替わったので、一瞬、陛下がなにをおっしゃっているのか、わからなかった。
 「ひかるちゃんは私のはだかなんて、しょっちゅう見てるのにね」
 「――いまのお言葉は、平石さんから聞いたものと、そっくりです」
 私の声は、自分でも驚くほど、低かった。けれど陛下は、唇の両端をつりあげて微笑まれ、おっしゃった。
 「ひさちゃんは嘘つきなの」
 「恐れながら陛下――」
 「ひかるちゃんは、ひさちゃんの味方なの?」
 さきほどと同じご下問だった。今度は、おっしゃることの意味が、逃れようもなく迫ってくる。
 「はい。私は平石さんに肩入れしております。平石さんが事実を言っていると思うからです」
 陛下はすぐにはなにもおっしゃらない。湯舟の中で立ち上がって歩まれ、私の隣に腰を降ろされた。
 湯につかった肌の熱を、肩に感じる。長いこと湯舟のへりに腰かけていたせいで、私の肩はたうぶ冷えていた。
 その熱に、衝動を呼び覚まされる。こんな時に。
 「ひさちゃんは辞めないよ。ひかるちゃん以外の誰にも言わない。だから、ひさちゃんは嘘つきなの。わかる?」
 「わかりかねます」
 「嫌って言うだけで戦わない人は、嘘つきだよ。ひさちゃんは戦わない。弱いふりして、ひかるちゃんをたぶらかしてるだけ」
 「平石さんは子供です!
 それに、彼女が相談できる相手が、たまたま私しかいなかっただけです。私が責任ある立場の人間で、この件を慎重に扱うとわかっていたから、打ち明けてくれたのです。
 それに、……恐れながらお願い申し上げます。どうか、平石さんのことを悪しざまにおっしゃるのは、おやめくださいますよう。彼女は私の友人です」
 私が訴えているあいだに、陛下は湯舟から離れて、洗い場へと進まれた。私はそのあとにつき従う。
 「シャンプーして」
 仰せに従い、私は陛下のお髪を洗った。洗髪のお手伝いは初めてだった。肘まである長い髪を、毛先から根元へと泡立ててゆく。泡立つ様子は目にも楽しく、お世話をしている、という気分にひたれる。普段この役を仰せつかっているメイドがうらやましい。
 「……ひさちゃんはね、私のことが好きだって言ってくれたの」
 「存じております」
 「TVのあれだけじゃなくて、たくさん。
 なのに、ひさちゃんを子供扱いして、いいのかな。私は、そんなことできない」
 陛下はけっして中庸を知らないかたではない。お心をひかれない事柄にはいつも、バランスのとれた穏当なやりかたをなさる。ただ、いったんお心をひかれてしまうと、求めるものへとまっすぐに進んでしまわれる。
 私はしばらく考えて、申し上げた。
 「母親のするようなことを、平石さんにしてほしい――陛下のおっしゃったことです。では陛下も平石さんに、母親のするようになさってはいかがでしょう」
 「したいなー。おっぱいあげたりとか」
 緋沙子に授乳する陛下の図を思い浮かべて、私は言葉を失った。ありそうもないことなのに、生々しい。
 「あ、ひかるちゃん、そういうの感じるんだ?」
 「いえっ!」
 声が半分裏返ってしまう。
 「私はねー、感じるっていうより、あこがれるよ」
 陛下は子供の家(孤児院)のお育ちであられる。それも、出生直後に捨てられていたという。
 「…………」
 あいにくお乳は出ませんが、もし私でよろしければ――と、喉まで出かかった。けれど、言えない。たとえ冗談でも、相手が私では、陛下の憧れを汚してしまうのではないか、と。
 お髪のシャンプーを流し、コンディショナーをつけて流す。お髪を結わえ上げる。
 公邸の慣習で、体を洗うのはお手伝いしないと決まっている。私は申し上げた。
 「これから私は自分の髪を洗いますので、しばらくご用を承れません。なにがございましたら――」
 「ひかるちゃんの髪、洗わせて」
 それで私と陛下は席を入れ替えた。
 「ひとの髪にシャンプーするなんて、初めてだなー。ひかるちゃんは、どうだったの?」
 「私も初めてでございました」
 「面白いね、これ。自分の髪をシャンプーしてるときは、どんな風になってるのか見えないでしょう。あー、こうなってるのか、って」
 「おっしゃるとおりです」
 「そういえば――」
 陛下は私の腰に腕を回して、へその近くの贅肉を、指でつままれた。私は飛びあがりそうになって、腕で腰を覆った。
 「ひかるちゃんて、胸とかお尻じゃなくて、お腹を隠すよね。どうして?」
 「存じません!」
 私の腕の下で、陛下の指があいかわらず贅肉をつまんでいる。
 「女の子って、一番自信のないところを隠すんだって。でも、ひかるちゃんのお腹って、スリムでいいなーって思うんだけど?」
 今度は脇腹に指が触れて、また飛びあがりそうになる。
 「存じません! お戯れはお止しください!」
 「はーい」
 陛下は洗髪の続きに戻られた。
 「――あ、そうだ、ひかるちゃんのウエストって、スリムだけど、くびれてないんだね」
 図星だった。
 「ふっふー、私はウエスト55センチだよ」
 「陛下のお姿さえ美しくあらせられれば、私は幸せです」
 「そういう言い方って、愚痴っぽいよねー?」
 「……では、陛下にお許しいただけるのなら、自分の体型も苦ではございません」
 「許してほしいんじゃなくて、かわいがってほしい、でしょ?」
 陛下のお手が、両の脇腹を撫でた。全身が、ぶるっ、と震える。
 「それは望外の幸せでございます」
 「そうそう、その感じ。そうでなくっちゃね」
 会話が途切れた。シャンプーを流して、コンディショナーをつける。
 「――ひかるちゃんの自信ないところ、わかっちゃったから、私の自信ないところ、教えるね。
 私は、背が低いのが嫌」
 それは、前々からなんとなく感じていたことだった。
 どこがどう、と言えるような素振りは、なさったことがない。本当に、なんとなくだった。陛下は、表に出したくない感情を、ほとんど完璧に隠してしまわれるかただ。
 「そのおかげで、私の細腕でも、陛下のお身体を抱き上げてさしあげられます」
 警護対象を、肩に担いだりせず、両腕で抱え上げて移動できること。護衛官としての最低限の能力だ。
 「腕で抱え上げるって、それ、お姫様抱っこ?」
 「ええ」
 「これ終わったら、湯舟まで運んで!」
 「かしこまりました」
 コンディショナーを流し、髪を結わえ上げていただく。
 「陛下は座ったままでいらしてください」
 大きく息を吸い込んで、気持ちを集中させる。両腕で、陛下のお体を支える。気を失ってぐったりした体よりはずっと楽だが、それでも大仕事だ。
 ゆっくり、のしのしと歩くのは、かえって難しい。狭い歩幅で、素早く移動する。湯舟のなかにお体を預けると、さっき地面にぶつけたばかりの背中が痛んだ。
 そんな私の苦労をご覧になってか、陛下は、
 「お姫様抱っこするのって、大変なんだね。知らなかった。ごめんね」
 「いえ、貴重な経験をいたしました。訓練はしておりますが、陸子さまのお体で試したことがございませんでしたので」
 緊張が緩む。
 ふと――どうしても、そうしたくなった。
 私は湯舟に入り、陛下のお身体を抱きしめた。離れ際に、ごく短く、唇を重ねる。
 「――不調法をお詫び申し上げます」
 湯舟から上がろうとすると、
 「……これで終わり?」
 「いいえ。続きはいずれ、よい日を選んで、と考えております」
 「ひさちゃんで練習してから?」



 私は考えた。考えようとした。
 まず、内容の乏しいことを言って、時間をかせぐ。
 「私は、陛下と言い争いをする身ではございません。どうか、お気持ちをおっしゃってください。私は陛下のお気持ちが安らかになるようにいたします」
 「私の気持ち? 安らかだよー? ひかるちゃんのおかげだね」
 どう応じるべきか、まだわからない。私はなにか月並みなことを言おうとして、馬鹿げたことを言ってしまう。
 「光栄です。では恐れながら申し上げます。
 私と平石さんのあいだには、陛下が想像なさっているような関係は一切ございません。そのようなお疑いで陛下のお心を曇らせたのは、私の不徳の致すところと――」
 「曇ってないよ? 楽しいよ?」
 これで時間稼ぎは品切れになった。私は、思ったままを言おうとした。
 「平石さんは私の――」
 言いかけて、きのう自分で言ったことを思い出す。『想像なんて、私に黙ってすればいいじゃない』。
 取り消したかった。緋沙子は、私への友情のために、想像することを拒んだのだ。私がいま、拒もうとしたように。
 「ひかるちゃんの、なに?」
 「――友人です。いかに陛下をお慰めするためとはいえ、友人をだしにするような真似はいたしかねます」
 そのとき陛下が凍りついた、ように思えた。
 普段どおりのお顔のままで、ただ、その動きだけが止んだ。
 時間にして、3秒か、10秒か。
 そして陛下は奇妙に微笑まれた。
 「もし私が、すごくて悪い独裁者だったらね。ひかるちゃんを、薬漬けにして、洗脳しちゃうかも。ひかるちゃんが逆らわなくなるように」
 そうおっしゃって陛下はお顔をそらされた。
 「そんなこと、したくないんだけどね。でも、しちゃうかもしれない。できなくて、よかったなー」
 そのお言葉に私は――欲情した。
 くちづける。深く吸う。
 「……そのようなご想像なら、ぜひご一緒しとうございます」
 陛下は腰を上げて、湯舟のへりにお座りになった。私の手をとって導き、命じられた。
 「いかせて」
 私は仰せに従った。
 事を果たしたあと、唇を重ねて、離す。
 「――ひかるちゃん、――」
 ため息で紡がれたような言葉を切って、陛下は、私の目をじっとご覧になる。
 「はい」
 「――続きはいずれ、よい日を選んで、ね」
 私の腕の中で寛いでおられたお身体が、しなやかに張り、私の腕のなかからするりと抜け出す。陛下はそのまま洗い場へとゆかれた。
 私は、ぽかんとして、ただお姿を目で追っていた。
 そのうちに、疑問が湧き起こり、心をふさぐ。
 陛下のお心は安らかであられるだろうか?
 陛下をお慰めすることができたのは嬉しい。けれど私は、慰めよりもよいものを、陛下に楽しんでいただくべきではなかったのか。
 もし私が、あの異常な癖を、隠し通せていたら。この入浴はもっと、気の置けない、安らかなものになったのではないか。
 「ひかるちゃん、背中流して」
 「はい」
 その疑問を、私は捨ててしまう。行動中にしてはいけないことの第一は、反省だ。



 脱衣所の安全を確認するため、私は先に浴室を出た。
 壁にはコインロッカーと化粧台が並び、エクササイズマシンがいくつか置いてある。変わったことはなにもない――と一瞬思った。
 お側仕えのメイドがいた。
 美容副担当の宮田さん。警護用無線のイヤフォンをつけている。演説用のメイクを施すために遣わされたのが、私が脱衣所を空けてしまったので、警護の穴埋めに駆り出されたのだろう。
 ぎこちなく肩をすくめながら、彼女は申し訳なさそうに笑った。
 「設楽さま、お勤めご苦労様です」
 「宮田さんもご苦労様です。いつからここにいらっしゃいましたか?」
 「まあ、その…… 30分ほど前です」
 すべて聞かれている。
 「いろいろなことがお耳に入ったと思いますが――橋本さんに報告なさいますか?」
 女中頭は公邸内の非公式な人間関係に責任を負っている。つまり、それに関する報告を部下から受ける。
 「それも仕事ですので…… ご勘弁ください」
 「宮田さんこそ、お気になさらず」
 この会話は、陛下のお耳にも届いているはずだ。私は陛下に脱衣所の安全を告げた。陛下は何事もなかったように、すたすたと歩まれて、
 「こんにちはー、宮田さん。今日もよろしくねー」
 「陸子さまにあらせられては、本日もご機嫌うるわしう」
 宮田さんはお髪を乾かしにかかった。私も自分の世話にかかる。



 事の反応はしばらくなかった。
 月曜日、火曜日と、公邸では橋本美園に会うこともなく、また緋沙子はそもそも出勤日ではなかった。陛下の私へのお振舞いもお変わりなかった。
 
 水曜日の夜9時に、それはようやく忍び寄ってきた。
 私は自宅で、少女まんが雑誌を読んでいた。私はまんが家くずれだが、まんがの読み方が人と違うということはない、と思う。ただ、かつてアシスタントをしていた作家の作品を読むと、背景やワク線に昔を思い出してしまう。
 そこへ、なんの前触れもなく、玄関の呼び鈴が鳴った。
 普通の家では呼び鈴は前触れなく鳴るが、この護衛官官舎ではそうではない。すべての通行は公邸周囲の検問で調べられ、もし用の相手が護衛官なら、確認の電話が先にくる(そして私が通販で買ったものは、この電話で許可を得たうえで、すべて開封され検査される)。それがないということは、訪問者は検問線の内側からきたか、あるいは検問をすりぬけてきたということだ。
 玄関のモニターTVを見ると――緋沙子だった。なにやら両手に荷物を抱えている。
 玄関を開けると、
 「夜分に突然お邪魔して恐れいります。これだけはどうしても今日さしあげたくて参りました」
 そういって緋沙子は花束を差し出した。薔薇やスミレのような有名な花ではない。花に疎い私には、その花の名前がわからなかった。
 「先日のお礼です」
 「…ありがとう」
 「それと、こちらはお土産です。ヤクモのスイーツです」
 これは私も知っている。駅の近くにある洋菓子屋で、遠くから買いにくる人もいる有名店だ。
 花束も安いものではない。中学生のときの自分の懐具合を思い出して、私は不安になった。
 「お金、大丈夫なの?」
 「いま時給4000円です」
 そういえば、お側仕えのメイドは新人でも年収1000万円近いという。
 緋沙子を居間に通し、花を花瓶に生けて、紅茶をいれる。
 そのティーポットを見ながら緋沙子は、
 「設楽さまは、陸子さまにお茶をいれてさしあげることも、あるかと思いますが」
 「あるよ」
 緋沙子は目を細めて、
 「楽しみです」
 「なにが?」
 「陸子さまが楽しまれるのと同じお茶ですから」
 「……今日は、うまくいったみたいね」
 「ええ。女中頭も親切にしてくれましたし」
 その言葉に、洋菓子の箱を開ける手が、一瞬止まる。
 「設楽さまのおかげなんだと思います。ありがとうございます」
 『陛下を抱いたの』――と、危うく言いそうになった。わけのわからない衝動だった。
 「陛下は相変わらず?」
 「はい」
 「相変わらず私のことを、……親しくなさるときの話題に?」
 緋沙子は驚いたように目を丸くした。その反応を見て初めて、自分が言ったことの内容に気づく。
 「……気になりますか?」
 注意深そうに私のことを見つめながら、緋沙子は訊ねた。
 「ええ」
 どうしても自分が抑えられない。
 「相変わらず、設楽さまのことをよくおっしゃいます」
 「そう」
 頬が緩むのを、抑えられない。
 「ですから私も遠慮なく――」
 緋沙子は言葉に詰まったようだった。すぐに頬が赤く染まる。私はその続きを促したりせず、黙って紅茶をカップに注ぐ。
 「いただきましょう」
 いかにも高級な洋菓子らしく、しっかりした味がする。食べると太りそうな――というのは錯覚で、実際には、二足三文のふにゃふにゃなお菓子を食べるほうが太る。精神的な満足感に欠けるので、だらだらと際限なく食べてしまうせいだ――と自分に言い聞かせて、味覚を楽しむ。
 「ここのお菓子、よく食べるの? ……そりゃそうか。ここのは、スポンジの粉が面白いの。普通のお菓子屋さんって、そんなに何種類もスポンジの粉を使い分けたりしないんだけど、ここはケーキごとにぜんぜん違う」
 「そうなんですか。私は、世の中にこんなにおいしいお菓子があるなんて、いま初めて知りました」
 「陛下は間食なさらないしね」
 あのスタイルを維持するため、というわけではなく、昔からの習慣であられるという。逆に、そういう習慣があのスタイルを保つのだろう。
 「陸子さまもこういったお菓子はお好きなんでしょうか?」
 「ええ。でも、差し上げようとしたりしないでね。陛下のお口に入るものは厳重にチェックしなきゃいけないの」
 「それくらい知ってます。
 ……国王って不自由なんですね」
 「長期休暇のあいだは緩くなるんだけどね。公邸におわすときは、財団のメンツがあるから」
 そうして陛下や公邸のことを話しているうちに、プライベートの携帯電話が鳴った。
 「ちょっと待ってて――」
 言いかけて、携帯の画面を見て、息が止まる。かけてきたのは、橋本美園。あわてて居間を出て、緋沙子に声が聞こえないようにする。
 「はい設楽」
 「ひかるさん、そこに平石さんがいるでしょう!」
 どうやら橋本美園は、話の前置きが長すぎるか、あるいはまったくないか、どちらかになる体質らしい。
 「それが何か」
 なぜ緋沙子の動向を橋本美園が知っているのか。おそらく、緋沙子が公邸を出たあと検問を通らないので、連絡が飛んだのだろう。
 「慣れあってるでしょう」
 「私は美園さんに報告する義務はないと思います。自分自身のことですし、そもそも私は美園さんの部下ではありません」
 お側仕えのメイドは、公邸内の非公式な人間関係について見聞きしたことを、女中頭に報告しなければならない。しかし自分自身が当事者の場合は、その限りではない。
 「こんなこと仕事で言ってると思うの? ひかるさん、この際平石さんにはっきり言ってやんなさい。陸子さまは自分の女だから、あんたは邪魔だ、って」
 「ご忠告には感謝しますが、陛下にとって大切なかたは、私にとっても大切です」
 「まーだそんな腑抜けた綺麗事を言ってんの! いい、陸子さまが、ほかの女と乳くりあってんのよ、その平石緋沙子と。どう思うわけ?
 知ってるでしょうけど、陸子さまはそういうところでサドだよ。ひかるさんが苦しんでるのを見て感じるタイプ。ひかるさんが行動しなきゃ事態はよくならないの。わかる?」
 「私はそういうところでマゾですから問題ありません」
 携帯の向こうで、橋本美園が大きく息を吸い込むのが聞こえた。
 「決めた。ひかるさんをさらってく」



 翌朝のブリーフィングの終わりに、橋本美園はさっそく動いてきた。
 「設楽さま、これを」
 私は名刺サイズのメモを渡された。財団職員がアポイントメントの管理に使うものだ。内容は――今日の警護を終えた後すぐに、公邸事務所の第一会議室で。用件の欄は空白。空白の用件欄は、メモのようなものには書けない機密を意味する。
 「お越しいただけますか」
 「……はい」
 逃げ回ることで事態がよくなるとも思えない。
 橋本美園は微笑んだ。笑顔を投げかけた、というべきかもしれない。私は意表を突かれながら、反射的に笑い返す。
 と、机に置いていた手の上に、橋本美園の手が重ねられ、軽く握られる。
 全身が小さく震えた。
 穏便に手をどけてもらうには、と考えた瞬間、手が離れる。
 「ありがとうございます」
 橋本美園は会議室を足早に出ていった。
 
 午後7時、陛下は公邸にお戻りになった。
 「今日もありがとうね、明日もお願いね、大好きだよ、ひかるちゃん」
 「陛下のお許しのあるかぎり、いつまでもお仕えいたします」
 陛下とのご挨拶で、今日の警護が終わる。
 さて今日はこれから、橋本美園と対決――というほど大袈裟なものでなければいいのだけれど。
 いったん家に戻って着替えようか、とも考える。私が予想外の格好をしていれば、橋本美園はやりにくくなるのではないか。けれど、メイクをやりなおすと、かなり時間がかかる。そのあいだ待たせたら、それだけ引け目を感じてしまうだろう。
 結局私は、警護のときに着るマニッシュなパンツスーツ姿のままで、まっすぐ公邸事務所に向かった。
 会議室のドアを開けると、橋本美園はメイド服だった。ただ、着替えたのだろう、その服はまるで新品で、チリひとつついていない。頭には、女中頭のしるしの髪飾り。
 けれど、身に着けたすべてのものよりも、まなざしに、力がある。まるで意思の力を形にしたような。
 そのまなざしに気圧されて、私は、会議室の扉を閉めるのをためらった。
 「お待たせしました。どういったお話でしょうか」
 橋本美園は無言で、ポケットからカードのようなものを何枚か取り出し、私に示した。
 それを見た私は――会議室の扉を閉めた。