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会議室にソファなどを入れた部屋が、控室にあてられていた。日曜日に連絡のあったとおり、衝立がやけに多い。窓だけでなく、出入り口まで二重に目隠ししている。かえって危険なので、いらない衝立を取り払わせた。
警護部職員は廊下を見張る。控室には陛下と私だけになる。
お茶をいれてさしあげ、一息ついてから、私は陛下に申し上げた。
「私の笑いかたが足りなかったようです。面目次第もございません」
「そーだそーだ。ひかるちゃんのせいなんだからね」
陛下はむくれておられた。といっても本気ではない。
「どこか痛むところはございませんか。お髪も整えねばなりません」
そういう私の髪も、シニヨンが崩れて、ひどいことになっている。
「腕が痛いなー。ひかるちゃんが乱暴にしたから」
「拝見します。お召し物を――」
言いかけて、気がつき、その先が言えなくなった。
「賜りたく?」
「腕を拝見するには、お召し物が邪魔でございます」
「そう? こっちのほうが気になるんじゃない?」
陛下はブラウスをつまんで示された。私はそれには構わず、陛下の前にひざまづいて、ブラウスのボタンに手をかけた。
そのとき、ノックの音がした。私はしぶしぶ迎えに出る。
ドアを開ける前に訊ねる、
「確認します」
「警護部の村田です。こちらの所長がご面会です」
私はドアを開けて、所長に告げた。
「護衛官の設楽と申します。さきほど警護のトラブルがあったため、いまはお通しできません。まことに勝手ですが、30分ほど後にお願いできませんか」
「その件もありまして参上しました」
所長のいうには、この市民ホールには温泉がある。今日は国王演説のため休業だったが、予定変更をきいて開けさせた。もちろん客は入れていない。ぜひ国王陛下にご入浴いただきたい――とのことだった。
「陛下にお伺いします。お待ちください」
と言うなり陛下は、
「入る!」
「――とのことです。ご好意にあずからせてください。
村田さん、経路の確保を」
その温泉というのは、小さな田舎町の市営施設としては豪華だったが、いわゆるスーパー銭湯と比べると、かなり見劣りした。壁が八犬伝のステンドグラスになっているのだけが物珍しい。湯は透明で匂いもない。
私は浴室の状況を確かめると、脱衣場の陛下にご報告申し上げた。
「安全を確認いたしました」
「はーい」
陛下はそうおっしゃったものの、お召し物を脱ごうとはなさらない。
すぐに私は気づいて、陛下のお召し物を脱がせてさしあげた。入浴のお世話をしたことはなかったので、一瞬わからなかった。
痛いとおっしゃっていた右腕は、目で見たかぎりでは、内出血などはなかった。それに、多少痛くても、こればかりは堪えていただくほかない。小銃弾に当たれば死を免れない。
「痛むのはどのあたりでしょうか?」
「ありがとう、もう大丈夫だよー。ひかるちゃんのおかげだね」
「光栄です」
下着の上までは、いつもお召し替えのお手伝いをしている。が、その先は初めてだった。
陛下が好んでお召しになるような華やかな下着は、手に触れるだけで、なにかが起こりそうな気がする。ショーツをカゴの中に入れたときには、爆弾を処理したような気分だった。
メイクを落とすのは陛下がご自身でなさる。私はその背後をお守りする。メイク落としが終わると、陛下は、
「ひかるちゃんも入るんでしょ?」
「私は――」
警護がある。
「入りなさい」
その、お声とまなざしに。緋沙子から聞かされた話を思い出して、私は思わず、身をすくめた。
陛下はすぐにそのまなざしを、優しい微笑みで隠された。
「命令しちゃった。ごめんね」
「かしこまりました」
私は携帯で本部にかけた。左手で携帯を操作しながら、ふとカゴの中の衣類が目に入る。何気なく、開いた右手でストッキングをとり、胸の前に持ってきた。
私も陛下に伴って入浴することを手短に告げ、電話を切り、顔を上げると――陛下はまだそこにおられた。一糸まとわぬお姿が目に入り、あわてて目を伏せる。
「ひかるちゃん、右手になに持ってるの?」
ご下問の意味がわからなかった。誰がどう見ても、陛下のストッキングに決まっている。
「陛下の――」
血の気が引いた。
「お赦しください」
「ひかるちゃん、顔を上げて」
あの視線、いつもよりもまぶたの下がった目が、私を見つめている。
おかげで私はいくらか救われた気がした。私の醜態を、陛下は楽しんでくださっている。
「……たぶん、ひかるちゃんのそれって、直らないんじゃないかと思うの。
でも、悪いことしたんだから、おしおきしなきゃ、いけないよね。
それとも、しょうがないからって、あきらめてほしい?」
「いえ――」
「どうしてほしい?」
「どのようなお仕置きをくださっても、ありがたく励みにさせていただきます」
「……本当に、どんなおしおきでもいいの?」
「はい」
身体が震える。冷や汗の出るような震えかたではなく、武者震いのような、いまにもはじけそうな。もし陛下の指が私の身体に触れたら――そう思うだけでまた震えがくる。
「そう?」
少し思案なさってから陛下は、
「譴責。今度は気をつけてね」
そうおっしゃって、すぐに浴室に入ってしまわれた。
私はまず拍子抜けして、それから、泣きたいような不安に襲われた。
私にまったく進歩がないので、それどころか悪くなっているので、あきれてしまわれたのだろうか。努力で取り戻せることなら、努力する。けれど、これは、努力でどうにかなるものなのだろうか。
涙はなにも解決しない。拳を握りしめて不安をこらえた。服を脱ぎ、化粧を落として、浴室に入る。
陛下は、湯舟の奥にある一段浅いところにおられた。半身浴の格好だ。私は陛下から3メートルほど離れたところで、肩まで湯に漬かる。
気まずいので横を向いていたかったが、護衛官には許されない。陛下はステンドグラスをご覧になっているので、視線の圧力を感じずに済んだ。
陛下は、あまり親密でない相手には積極的に声をおかけになるが、親しい相手からは話しかけられることを好まれる。この場合も、話しかけるのは私だ。
気まずいついでに、例の話題を切り出してみた。
「昨日、私の家を、平石さんに掃除してもらいました」
「知ってるよー」
「陛下が平石さんを選んでよこしてくださった、と聞きました」
「うん」
「それで私は不思議に思いました。どうして陛下は、せっかくの日曜日を、平石さんとご一緒に過ごされないのか、と。それとなく訊ねてみると、平石さんは、陛下のお顔を拝するのが辛そうな様子でございました」
嘘をついてしまった。けれど、こう言わないと、緋沙子が告げ口したかのように聞こえてしまう。
「……前置きはあとで聞くから、結論は?」
「恐れながら申し上げます。
もし平石さんの話が本当なら、陛下がなさっていることは、性的虐待です。たとえ陛下にはそんなおつもりはなくても、事実としては、平石さんの意に沿わないことを強いておられます。少なくとも私の耳には、強制があるように聞こえました。
平石さんは陛下のことをたいへん慕っておりますので、いますぐに問題になることはないでしょう。ですが陛下には、御身のお立場をわきまえてくださるよう、お願い申し上げます」
「ひかるちゃんは、ひさちゃんの味方なの?」
私は陛下のお顔をうかがった。いつもの陛下だった。表情が冷たかったりもしない。
「私は自分の信じたままを申し上げております」
「……性的虐待って、どんなところが?」
「平石さんに命じて、お身体を――胸などを触らせたことはございますか?」
「ひさちゃん、喜んでたよ?」
「そのような面もあるかと思います。平石さんの話を聞くかぎりでは、彼女の気持ちはもっと複雑のようでした」
「複雑って、どんな風に?」
私はゆだってきたので、湯舟のへりに腰かけた。
「陛下のお気持ちそのものは、嬉しく思っているようです。ただ、やりかたに問題があるようです。
事実に反した空想を共にすることを、彼女に強いておられる――そのように聞きました」
「ひかるちゃんの言ってること、難しくてわかんなーい。もっとやさしく言って」
陛下はまったく普段どおりであられた。
「空想というのは――」
そのとたん、陛下の視線が、まるでスポットライトのように、私に降りかかってきた。いつもよりまぶたの下がった、あのまなざしではない。いっぱいまで見開いた、興味津々、というまなざしだった。
私はその視線に身をすくめて、腰に腕を回した。
「私と平石さんが特に親しい、というものです。そういう設定を平石さんに押し付けて、その設定どおりに振舞うよう強いておられる――そのように聞きました」
「特に親しい、って?」
「……互いに身体を触れあって喜ぶような間柄、という意味です」
陛下は、なにか企みがありそうに微笑まれた。
「ひかるちゃんは、ひさちゃんが嘘ついてるかも、って思わなかった?」
「陛下は、嘘つきをお側に置くようなかたではございません」
「あーっ、今度は私のせいにするんだ。ずるーい」
それは鋭いところを突いていた。自分の信じたままを申し上げる、と啖呵を切った手前、こんな責任逃れはすべきではない。
「……陛下のおっしゃるとおりでした。お赦しください。
平石さんの言葉には、説得力がありました。ほかに説得力のある材料がないかぎり、彼女が嘘をついていると考えることはできません」
「ひさちゃんは嘘つきだよ――って言ったら、どう?」
「陛下のお言葉の説得力によっては、考えが変わるかもしれません」
「変えて。ひさちゃんは嘘つきなの」
いつもの陛下だった。苛立ちも、気負いもない。
私は絶望を感じた。陛下は、こんなかただったのだろうか。こんなに不誠実な、人を苦しめて悔やまないような。
そうかもしれない。先日の、外房のホテルでも、陛下はおっしゃった。『ま、そうなったら、ひさちゃんには辞めてもらうけどね』。
きっと私は、陛下の美しい面にばかり目を向けてきたのだ。
「出過ぎたことを申し上げました。お赦しください」
「ひかるちゃんのはだかって、いままで見たことなかったなー」
唐突に話題が切り替わったので、一瞬、陛下がなにをおっしゃっているのか、わからなかった。
「ひかるちゃんは私のはだかなんて、しょっちゅう見てるのにね」
「――いまのお言葉は、平石さんから聞いたものと、そっくりです」
私の声は、自分でも驚くほど、低かった。けれど陛下は、唇の両端をつりあげて微笑まれ、おっしゃった。
「ひさちゃんは嘘つきなの」
「恐れながら陛下――」
「ひかるちゃんは、ひさちゃんの味方なの?」
さきほどと同じご下問だった。今度は、おっしゃることの意味が、逃れようもなく迫ってくる。
「はい。私は平石さんに肩入れしております。平石さんが事実を言っていると思うからです」
陛下はすぐにはなにもおっしゃらない。湯舟の中で立ち上がって歩まれ、私の隣に腰を降ろされた。
湯につかった肌の熱を、肩に感じる。長いこと湯舟のへりに腰かけていたせいで、私の肩はたうぶ冷えていた。
その熱に、衝動を呼び覚まされる。こんな時に。
「ひさちゃんは辞めないよ。ひかるちゃん以外の誰にも言わない。だから、ひさちゃんは嘘つきなの。わかる?」
「わかりかねます」
「嫌って言うだけで戦わない人は、嘘つきだよ。ひさちゃんは戦わない。弱いふりして、ひかるちゃんをたぶらかしてるだけ」
「平石さんは子供です!
それに、彼女が相談できる相手が、たまたま私しかいなかっただけです。私が責任ある立場の人間で、この件を慎重に扱うとわかっていたから、打ち明けてくれたのです。
それに、……恐れながらお願い申し上げます。どうか、平石さんのことを悪しざまにおっしゃるのは、おやめくださいますよう。彼女は私の友人です」
私が訴えているあいだに、陛下は湯舟から離れて、洗い場へと進まれた。私はそのあとにつき従う。
「シャンプーして」
仰せに従い、私は陛下のお髪を洗った。洗髪のお手伝いは初めてだった。肘まである長い髪を、毛先から根元へと泡立ててゆく。泡立つ様子は目にも楽しく、お世話をしている、という気分にひたれる。普段この役を仰せつかっているメイドがうらやましい。
「……ひさちゃんはね、私のことが好きだって言ってくれたの」
「存じております」
「TVのあれだけじゃなくて、たくさん。
なのに、ひさちゃんを子供扱いして、いいのかな。私は、そんなことできない」
陛下はけっして中庸を知らないかたではない。お心をひかれない事柄にはいつも、バランスのとれた穏当なやりかたをなさる。ただ、いったんお心をひかれてしまうと、求めるものへとまっすぐに進んでしまわれる。
私はしばらく考えて、申し上げた。
「母親のするようなことを、平石さんにしてほしい――陛下のおっしゃったことです。では陛下も平石さんに、母親のするようになさってはいかがでしょう」
「したいなー。おっぱいあげたりとか」
緋沙子に授乳する陛下の図を思い浮かべて、私は言葉を失った。ありそうもないことなのに、生々しい。
「あ、ひかるちゃん、そういうの感じるんだ?」
「いえっ!」
声が半分裏返ってしまう。
「私はねー、感じるっていうより、あこがれるよ」
陛下は子供の家(孤児院)のお育ちであられる。それも、出生直後に捨てられていたという。
「…………」
あいにくお乳は出ませんが、もし私でよろしければ――と、喉まで出かかった。けれど、言えない。たとえ冗談でも、相手が私では、陛下の憧れを汚してしまうのではないか、と。
お髪のシャンプーを流し、コンディショナーをつけて流す。お髪を結わえ上げる。
公邸の慣習で、体を洗うのはお手伝いしないと決まっている。私は申し上げた。
「これから私は自分の髪を洗いますので、しばらくご用を承れません。なにがございましたら――」
「ひかるちゃんの髪、洗わせて」
それで私と陛下は席を入れ替えた。
「ひとの髪にシャンプーするなんて、初めてだなー。ひかるちゃんは、どうだったの?」
「私も初めてでございました」
「面白いね、これ。自分の髪をシャンプーしてるときは、どんな風になってるのか見えないでしょう。あー、こうなってるのか、って」
「おっしゃるとおりです」
「そういえば――」
陛下は私の腰に腕を回して、へその近くの贅肉を、指でつままれた。私は飛びあがりそうになって、腕で腰を覆った。
「ひかるちゃんて、胸とかお尻じゃなくて、お腹を隠すよね。どうして?」
「存じません!」
私の腕の下で、陛下の指があいかわらず贅肉をつまんでいる。
「女の子って、一番自信のないところを隠すんだって。でも、ひかるちゃんのお腹って、スリムでいいなーって思うんだけど?」
今度は脇腹に指が触れて、また飛びあがりそうになる。
「存じません! お戯れはお止しください!」
「はーい」
陛下は洗髪の続きに戻られた。
「――あ、そうだ、ひかるちゃんのウエストって、スリムだけど、くびれてないんだね」
図星だった。
「ふっふー、私はウエスト55センチだよ」
「陛下のお姿さえ美しくあらせられれば、私は幸せです」
「そういう言い方って、愚痴っぽいよねー?」
「……では、陛下にお許しいただけるのなら、自分の体型も苦ではございません」
「許してほしいんじゃなくて、かわいがってほしい、でしょ?」
陛下のお手が、両の脇腹を撫でた。全身が、ぶるっ、と震える。
「それは望外の幸せでございます」
「そうそう、その感じ。そうでなくっちゃね」
会話が途切れた。シャンプーを流して、コンディショナーをつける。
「――ひかるちゃんの自信ないところ、わかっちゃったから、私の自信ないところ、教えるね。
私は、背が低いのが嫌」
それは、前々からなんとなく感じていたことだった。
どこがどう、と言えるような素振りは、なさったことがない。本当に、なんとなくだった。陛下は、表に出したくない感情を、ほとんど完璧に隠してしまわれるかただ。
「そのおかげで、私の細腕でも、陛下のお身体を抱き上げてさしあげられます」
警護対象を、肩に担いだりせず、両腕で抱え上げて移動できること。護衛官としての最低限の能力だ。
「腕で抱え上げるって、それ、お姫様抱っこ?」
「ええ」
「これ終わったら、湯舟まで運んで!」
「かしこまりました」
コンディショナーを流し、髪を結わえ上げていただく。
「陛下は座ったままでいらしてください」
大きく息を吸い込んで、気持ちを集中させる。両腕で、陛下のお体を支える。気を失ってぐったりした体よりはずっと楽だが、それでも大仕事だ。
ゆっくり、のしのしと歩くのは、かえって難しい。狭い歩幅で、素早く移動する。湯舟のなかにお体を預けると、さっき地面にぶつけたばかりの背中が痛んだ。
そんな私の苦労をご覧になってか、陛下は、
「お姫様抱っこするのって、大変なんだね。知らなかった。ごめんね」
「いえ、貴重な経験をいたしました。訓練はしておりますが、陸子さまのお体で試したことがございませんでしたので」
緊張が緩む。
ふと――どうしても、そうしたくなった。
私は湯舟に入り、陛下のお身体を抱きしめた。離れ際に、ごく短く、唇を重ねる。
「――不調法をお詫び申し上げます」
湯舟から上がろうとすると、
「……これで終わり?」
「いいえ。続きはいずれ、よい日を選んで、と考えております」
「ひさちゃんで練習してから?」
私は考えた。考えようとした。
まず、内容の乏しいことを言って、時間をかせぐ。
「私は、陛下と言い争いをする身ではございません。どうか、お気持ちをおっしゃってください。私は陛下のお気持ちが安らかになるようにいたします」
「私の気持ち? 安らかだよー? ひかるちゃんのおかげだね」
どう応じるべきか、まだわからない。私はなにか月並みなことを言おうとして、馬鹿げたことを言ってしまう。
「光栄です。では恐れながら申し上げます。
私と平石さんのあいだには、陛下が想像なさっているような関係は一切ございません。そのようなお疑いで陛下のお心を曇らせたのは、私の不徳の致すところと――」
「曇ってないよ? 楽しいよ?」
これで時間稼ぎは品切れになった。私は、思ったままを言おうとした。
「平石さんは私の――」
言いかけて、きのう自分で言ったことを思い出す。『想像なんて、私に黙ってすればいいじゃない』。
取り消したかった。緋沙子は、私への友情のために、想像することを拒んだのだ。私がいま、拒もうとしたように。
「ひかるちゃんの、なに?」
「――友人です。いかに陛下をお慰めするためとはいえ、友人をだしにするような真似はいたしかねます」
そのとき陛下が凍りついた、ように思えた。
普段どおりのお顔のままで、ただ、その動きだけが止んだ。
時間にして、3秒か、10秒か。
そして陛下は奇妙に微笑まれた。
「もし私が、すごくて悪い独裁者だったらね。ひかるちゃんを、薬漬けにして、洗脳しちゃうかも。ひかるちゃんが逆らわなくなるように」
そうおっしゃって陛下はお顔をそらされた。
「そんなこと、したくないんだけどね。でも、しちゃうかもしれない。できなくて、よかったなー」
そのお言葉に私は――欲情した。
くちづける。深く吸う。
「……そのようなご想像なら、ぜひご一緒しとうございます」
陛下は腰を上げて、湯舟のへりにお座りになった。私の手をとって導き、命じられた。
「いかせて」
私は仰せに従った。
事を果たしたあと、唇を重ねて、離す。
「――ひかるちゃん、――」
ため息で紡がれたような言葉を切って、陛下は、私の目をじっとご覧になる。
「はい」
「――続きはいずれ、よい日を選んで、ね」
私の腕の中で寛いでおられたお身体が、しなやかに張り、私の腕のなかからするりと抜け出す。陛下はそのまま洗い場へとゆかれた。
私は、ぽかんとして、ただお姿を目で追っていた。
そのうちに、疑問が湧き起こり、心をふさぐ。
陛下のお心は安らかであられるだろうか?
陛下をお慰めすることができたのは嬉しい。けれど私は、慰めよりもよいものを、陛下に楽しんでいただくべきではなかったのか。
もし私が、あの異常な癖を、隠し通せていたら。この入浴はもっと、気の置けない、安らかなものになったのではないか。
「ひかるちゃん、背中流して」
「はい」
その疑問を、私は捨ててしまう。行動中にしてはいけないことの第一は、反省だ。
脱衣所の安全を確認するため、私は先に浴室を出た。
壁にはコインロッカーと化粧台が並び、エクササイズマシンがいくつか置いてある。変わったことはなにもない――と一瞬思った。
お側仕えのメイドがいた。
美容副担当の宮田さん。警護用無線のイヤフォンをつけている。演説用のメイクを施すために遣わされたのが、私が脱衣所を空けてしまったので、警護の穴埋めに駆り出されたのだろう。
ぎこちなく肩をすくめながら、彼女は申し訳なさそうに笑った。
「設楽さま、お勤めご苦労様です」
「宮田さんもご苦労様です。いつからここにいらっしゃいましたか?」
「まあ、その…… 30分ほど前です」
すべて聞かれている。
「いろいろなことがお耳に入ったと思いますが――橋本さんに報告なさいますか?」
女中頭は公邸内の非公式な人間関係に責任を負っている。つまり、それに関する報告を部下から受ける。
「それも仕事ですので…… ご勘弁ください」
「宮田さんこそ、お気になさらず」
この会話は、陛下のお耳にも届いているはずだ。私は陛下に脱衣所の安全を告げた。陛下は何事もなかったように、すたすたと歩まれて、
「こんにちはー、宮田さん。今日もよろしくねー」
「陸子さまにあらせられては、本日もご機嫌うるわしう」
宮田さんはお髪を乾かしにかかった。私も自分の世話にかかる。
事の反応はしばらくなかった。
月曜日、火曜日と、公邸では橋本美園に会うこともなく、また緋沙子はそもそも出勤日ではなかった。陛下の私へのお振舞いもお変わりなかった。
水曜日の夜9時に、それはようやく忍び寄ってきた。
私は自宅で、少女まんが雑誌を読んでいた。私はまんが家くずれだが、まんがの読み方が人と違うということはない、と思う。ただ、かつてアシスタントをしていた作家の作品を読むと、背景やワク線に昔を思い出してしまう。
そこへ、なんの前触れもなく、玄関の呼び鈴が鳴った。
普通の家では呼び鈴は前触れなく鳴るが、この護衛官官舎ではそうではない。すべての通行は公邸周囲の検問で調べられ、もし用の相手が護衛官なら、確認の電話が先にくる(そして私が通販で買ったものは、この電話で許可を得たうえで、すべて開封され検査される)。それがないということは、訪問者は検問線の内側からきたか、あるいは検問をすりぬけてきたということだ。
玄関のモニターTVを見ると――緋沙子だった。なにやら両手に荷物を抱えている。
玄関を開けると、
「夜分に突然お邪魔して恐れいります。これだけはどうしても今日さしあげたくて参りました」
そういって緋沙子は花束を差し出した。薔薇やスミレのような有名な花ではない。花に疎い私には、その花の名前がわからなかった。
「先日のお礼です」
「…ありがとう」
「それと、こちらはお土産です。ヤクモのスイーツです」
これは私も知っている。駅の近くにある洋菓子屋で、遠くから買いにくる人もいる有名店だ。
花束も安いものではない。中学生のときの自分の懐具合を思い出して、私は不安になった。
「お金、大丈夫なの?」
「いま時給4000円です」
そういえば、お側仕えのメイドは新人でも年収1000万円近いという。
緋沙子を居間に通し、花を花瓶に生けて、紅茶をいれる。
そのティーポットを見ながら緋沙子は、
「設楽さまは、陸子さまにお茶をいれてさしあげることも、あるかと思いますが」
「あるよ」
緋沙子は目を細めて、
「楽しみです」
「なにが?」
「陸子さまが楽しまれるのと同じお茶ですから」
「……今日は、うまくいったみたいね」
「ええ。女中頭も親切にしてくれましたし」
その言葉に、洋菓子の箱を開ける手が、一瞬止まる。
「設楽さまのおかげなんだと思います。ありがとうございます」
『陛下を抱いたの』――と、危うく言いそうになった。わけのわからない衝動だった。
「陛下は相変わらず?」
「はい」
「相変わらず私のことを、……親しくなさるときの話題に?」
緋沙子は驚いたように目を丸くした。その反応を見て初めて、自分が言ったことの内容に気づく。
「……気になりますか?」
注意深そうに私のことを見つめながら、緋沙子は訊ねた。
「ええ」
どうしても自分が抑えられない。
「相変わらず、設楽さまのことをよくおっしゃいます」
「そう」
頬が緩むのを、抑えられない。
「ですから私も遠慮なく――」
緋沙子は言葉に詰まったようだった。すぐに頬が赤く染まる。私はその続きを促したりせず、黙って紅茶をカップに注ぐ。
「いただきましょう」
いかにも高級な洋菓子らしく、しっかりした味がする。食べると太りそうな――というのは錯覚で、実際には、二足三文のふにゃふにゃなお菓子を食べるほうが太る。精神的な満足感に欠けるので、だらだらと際限なく食べてしまうせいだ――と自分に言い聞かせて、味覚を楽しむ。
「ここのお菓子、よく食べるの? ……そりゃそうか。ここのは、スポンジの粉が面白いの。普通のお菓子屋さんって、そんなに何種類もスポンジの粉を使い分けたりしないんだけど、ここはケーキごとにぜんぜん違う」
「そうなんですか。私は、世の中にこんなにおいしいお菓子があるなんて、いま初めて知りました」
「陛下は間食なさらないしね」
あのスタイルを維持するため、というわけではなく、昔からの習慣であられるという。逆に、そういう習慣があのスタイルを保つのだろう。
「陸子さまもこういったお菓子はお好きなんでしょうか?」
「ええ。でも、差し上げようとしたりしないでね。陛下のお口に入るものは厳重にチェックしなきゃいけないの」
「それくらい知ってます。
……国王って不自由なんですね」
「長期休暇のあいだは緩くなるんだけどね。公邸におわすときは、財団のメンツがあるから」
そうして陛下や公邸のことを話しているうちに、プライベートの携帯電話が鳴った。
「ちょっと待ってて――」
言いかけて、携帯の画面を見て、息が止まる。かけてきたのは、橋本美園。あわてて居間を出て、緋沙子に声が聞こえないようにする。
「はい設楽」
「ひかるさん、そこに平石さんがいるでしょう!」
どうやら橋本美園は、話の前置きが長すぎるか、あるいはまったくないか、どちらかになる体質らしい。
「それが何か」
なぜ緋沙子の動向を橋本美園が知っているのか。おそらく、緋沙子が公邸を出たあと検問を通らないので、連絡が飛んだのだろう。
「慣れあってるでしょう」
「私は美園さんに報告する義務はないと思います。自分自身のことですし、そもそも私は美園さんの部下ではありません」
お側仕えのメイドは、公邸内の非公式な人間関係について見聞きしたことを、女中頭に報告しなければならない。しかし自分自身が当事者の場合は、その限りではない。
「こんなこと仕事で言ってると思うの? ひかるさん、この際平石さんにはっきり言ってやんなさい。陸子さまは自分の女だから、あんたは邪魔だ、って」
「ご忠告には感謝しますが、陛下にとって大切なかたは、私にとっても大切です」
「まーだそんな腑抜けた綺麗事を言ってんの! いい、陸子さまが、ほかの女と乳くりあってんのよ、その平石緋沙子と。どう思うわけ?
知ってるでしょうけど、陸子さまはそういうところでサドだよ。ひかるさんが苦しんでるのを見て感じるタイプ。ひかるさんが行動しなきゃ事態はよくならないの。わかる?」
「私はそういうところでマゾですから問題ありません」
携帯の向こうで、橋本美園が大きく息を吸い込むのが聞こえた。
「決めた。ひかるさんをさらってく」
翌朝のブリーフィングの終わりに、橋本美園はさっそく動いてきた。
「設楽さま、これを」
私は名刺サイズのメモを渡された。財団職員がアポイントメントの管理に使うものだ。内容は――今日の警護を終えた後すぐに、公邸事務所の第一会議室で。用件の欄は空白。空白の用件欄は、メモのようなものには書けない機密を意味する。
「お越しいただけますか」
「……はい」
逃げ回ることで事態がよくなるとも思えない。
橋本美園は微笑んだ。笑顔を投げかけた、というべきかもしれない。私は意表を突かれながら、反射的に笑い返す。
と、机に置いていた手の上に、橋本美園の手が重ねられ、軽く握られる。
全身が小さく震えた。
穏便に手をどけてもらうには、と考えた瞬間、手が離れる。
「ありがとうございます」
橋本美園は会議室を足早に出ていった。
午後7時、陛下は公邸にお戻りになった。
「今日もありがとうね、明日もお願いね、大好きだよ、ひかるちゃん」
「陛下のお許しのあるかぎり、いつまでもお仕えいたします」
陛下とのご挨拶で、今日の警護が終わる。
さて今日はこれから、橋本美園と対決――というほど大袈裟なものでなければいいのだけれど。
いったん家に戻って着替えようか、とも考える。私が予想外の格好をしていれば、橋本美園はやりにくくなるのではないか。けれど、メイクをやりなおすと、かなり時間がかかる。そのあいだ待たせたら、それだけ引け目を感じてしまうだろう。
結局私は、警護のときに着るマニッシュなパンツスーツ姿のままで、まっすぐ公邸事務所に向かった。
会議室のドアを開けると、橋本美園はメイド服だった。ただ、着替えたのだろう、その服はまるで新品で、チリひとつついていない。頭には、女中頭のしるしの髪飾り。
けれど、身に着けたすべてのものよりも、まなざしに、力がある。まるで意思の力を形にしたような。
そのまなざしに気圧されて、私は、会議室の扉を閉めるのをためらった。
「お待たせしました。どういったお話でしょうか」
橋本美園は無言で、ポケットからカードのようなものを何枚か取り出し、私に示した。
それを見た私は――会議室の扉を閉めた。