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「――お側仕えの者が勤務中にカメラを持つことは禁止されているはずですが」
「だから、この写真は偽物と?」
橋本美園の自信には、確かな裏づけがあった。
それは、私を写した写真だった。陛下のお召し物を、胸の前に掲げ、かがみこむような姿勢で下を向いている図。顔は微笑んでいる。
一枚ではない。背景とお召し物とアングルはそれぞれ違う、ただ私の姿勢はどれも同じ写真が、3枚。
写真から目を離せないでいると、いつのまにか橋本美園は私のすぐそばまで近づいていた。
「橋本さんは、この写真を利用することはできないはず――」
私が言い終わらないうちに、彼女は私の肩をつかんで回し、テーブルに仰向けに押し倒した。身をよじる私の上に覆い被さり、唇を重ねる。
「どうか私のことは、美園、とお呼びください。呼んでくださるまで、何度でもこういたします」
また、唇を重ねられる。私は抵抗する気力も失せかけていた。
「美園さん、どうか――」
「『さん』や敬語はご無用に願います」
今度は、舌が唇を割って入ってきて、前歯の先端に触れる。
「美園、やめて」
「無礼をお赦しください」
橋本美園は覆い被さるのをやめて、私が身体を起こすのを助けた。足で地面に立つと、ぐらぐら揺れているような気がする。テーブルに片手をついて身体を支える。
少し落ち着いてから私は、
「……お話がこれだけとは――」
「敬語はご無用に願います」
そうして、くちづけられる。私は逃れようとはしなかった。
私はたどたどしく、敬語でない言葉を紡ぐ。
「……話は……ほかにも、あるんじゃ、ない?」
感触の記憶が、唇から離れない。指でそれをぬぐおうとしかけた。けれど、橋本美園の視線が、それをさせない。もしぬぐったりしたら、また深々と刻まれるのではないか、と。
「ええ、ございます。少々お待ちください」
彼女は自分のエプロンの下に手を入れ、胸のあたりをちょっと探った。それに続いて、背中に手をやり、ワンピースのファスナーを途中まで降ろした。そうしながら、
「ひかるさまにぜひご記憶いただきたいものがございます。――こちらです」
私の顔の前に、布を差し出す。ブラジャーだった。
「これの、匂いを」
彼女はいつのまにか私の腰に右腕を回していた。その腕に力をこめながら、ブラジャーを私の鼻に、軽く押し当てる。橋本美園の健康な汗の匂いが、鼻孔に広がる。
逃れようと思えば、できないことはない。けれど、逃れて、どうすればいいのだろう。
私が逃れようとしないのをみると、腕の力が弱まり、腰から外れた。
その手の指先が、私の下腹部を、そっとなぞる。
「やめて」
私は橋本美園を突き飛ばした。全力で押したはずなのに、彼女はちょっとよろけただけだった。力が入らない。
「どうか無礼をお赦しください」
「……こんな話ばっかりなら、……帰る」
「この写真はどうなさいますか?」
「美園の、好きにすれば」
「かしこまりました」
橋本美園は写真をポケットに戻した。
あれは最後の手段だ。橋本美園との関係が完全に破綻しないかぎり、使われることはない。
「どうぞ、おかけください」
私は言われるままに椅子に腰かけた。
橋本美園は、電気ポットや急須などの茶道具を、部屋の隅に用意していた。それでお茶の用意をしながら、
「ひかるさまが素直にしてくださらないので、思いあまって無礼を働いてしまいましたけれど――」
思いあまって? 見え透いた嘘を、と思った。私が部屋に入った瞬間の、あの意思に満ちたまなざしは、忘れようとしても忘れられるものではない――
「――陸子さまは、なにもしてくださらないでしょう?」
「私は、暴力を振るわれて喜ぶような趣味は、ないの」
敬語を禁じられていると、まるで下着姿をさらしているような心細さがある。
橋本美園は、茶道具の次はメイクボックスを取り出した。
「お化粧が崩れていらっしゃいます。お直しいたします」
私は橋本美園のなすがままにさせた。
「陸子さまは、ひかるさまのお身体に触れてくださらないでしょう?」
唇のあたりをいじられているので、返事をすることができない。
「抱きしめてくださらないでしょう? くちづけてくださらないでしょう? ひかるさまがそうするように仕向けるだけでしょう?」
かなり詳しく聞き出したらしい。私は口でなじるかわりに、眉を険しくした。
「陸子さまは、貪欲であられます。ひかるさまのような女らしいかたを相手にしても、女の喜びを求めてやまないかたです」
それに嗜虐的なところもあられます、と付け加えたかった。
「ひかるさまのお身体だって、人一倍、女の喜びを求めておられますのに」
下唇のふちをいじる橋本美園の指に、陛下が触れてくださった感触が重なる。その指を払いのけたい衝動がわきあがり、こらえる。もしそんなことをしたら、ここが私の弱点だと思われるだろう。
「私は悪い人さらいでございます。悪者でございますので、恐れながら、ひかるさまを脅すようなこともいたします。でも、それだけでひかるさまをさらってゆけると思うような、虫のいい考えは持っておりません。
ひかるさまのお身体が求めておられるものを、満たしてさしあげます。この人さらいの手で」
それまでメイクに使っていなかった右手の小指が、唇を割って、前歯に届く。私は顔をそらしてその指から逃れた。
「また最初からお直しいたしましょうか?」
私は、橋本美園の小指に、なすがままにさせた。前歯に沿って動き、唇の内側を撫でまわす。
「ひかるさまは、少しずつ許してくださるのですね。いずれ、お身体のすみずみまで、すっかり許してくださるのでしょうね。――待ちきれません」
橋本美園は空いていた左手で、私の右手を取ると、小指の先を噛んだ。抑えようとしたけれど、身体がぶるっと震える。
「私のは噛んでくだいませんの?」
私は応じなかった。
けれど橋本美園は、手を離すと、私の拒絶などなかったかのように、
「お直しが終わりました」
と告げると、急須に手を伸ばした。そうして私にお茶を出すと、今度は自分のメイクを直しはじめた。
「……美園の、気持ちは、わかった」
「ありがとうございます。でも、せっかくですが、その必要はございません。私の気持ちよりも、私の身体を、どうか受け入れてくださいますよう」
そう言って橋本美園は、右手の小指を立てて、自分の鼻に近づけ、目を細めた。右手の小指――さっき私の唇の内側を撫でまわした指。
その仕草に、記憶を呼び覚まされる。寒気をこらえるように背中が丸くなる。
「美園は、おうちで、うまくいってないの? 旦那さんとか、家族とかと」
「理想的な家庭とは申しかねますが、それなりにうまくいっていると思います。
でも、私は悪者でございます。悪者はおのれの悪事にすべてを捧げます。私の悪事は、ひかるさまをさらってゆくこと」
「さらってゆく、って、よく意味がわからない。美園にさらわれたら、私はどうなるの?」
「私と同じ、悪者になります。護衛官のお仕事も、陸子さまへの愛も、悪事のために捧げておしまいになります」
その悪事とは――聞きたくなかった。
「でも美園は、本当にそうなってほしいわけじゃ、ないんでしょう? 私がだめだから、見てられなくて、なんとかしたいんでしょう?」
美園は困ったように笑い、
「まだ私の気持ちをお疑いでしたか。私の行いが至りませんでした。お赦しください」
と言って、席を立ち、私の背後にきた。
「――いけません、ひかるさま。私のような悪者に背後を取らせては」
美園は私の喉首を手のひらで包んだ。
「いまからひとつ、私とひかるさまで、力くらべをいたしましょうか。私は、ひかるさまのお召し物を、すべて脱がしてさしあげます。ひかるさまは、それに抗います」
本当にやりかねない、と直感した。
美園のほうが私より身長は高いものの、女中頭になって力仕事を離れてから長い。こちらはトレーニングを欠かしていない。本気でやれば、勝てる。けれど。
私は、喉首を包む美園の手を握り、口のそばまで運んだ。小指を選び出し、口に含んで、軽く歯を立てる。
「また、許してくださいましたね」
「……私、帰る」
私が立ちあがったところを、美園は抱きしめた。帰すまい、というのではなく、味わうように。
「ひかるさま、どうか、私の匂いをご記憶にとどめてくださいますよう。お身体のどこを許してくださるよりも、ひかるさまに嗅いでいただくほうが、満たされる思いがいたします」
とたんに嗅覚が鋭くなり、匂いを嗅ぎはじめてしまう。石鹸やシャンプーや化粧品のかすかな匂いのなかから、美園の匂いを嗅ぎあててしまう。さっき、ブラジャーを鼻に押し当てられたときの、健康な汗の匂い。私の鼻は、美園の匂いを、もう覚えていた。
自宅に戻ると、私はまず、ベッドのシーツを交換した。
できるだけ、なにも考えないようにする。いま思い出したくないことを思い出して、刺激されないように。
お風呂に入り、身体をすみずみまできれいにする。歯も磨く。
髪を乾かしてから、身につけていたものをすべて脱ぎ、ベッドの中にもぐりこむ。
私は、陛下のことを漠然と思い浮かべながら、自分の身体を慰めた。
現実的で具体的なことを想像すると、陛下のお気持ちが気になって、自分のことに集中できない。先日の入浴の際に拝見したお身体、肌が触れたときの思い、楽器のように鮮やかでかわいらしいお声、そんなものを漠然と思い浮かべる。
私の背中から電線がのびていて陛下につながっていて、私は陛下の一部で、陛下の思うがままに操られている――そんな空想もする。
陛下を思ってこうしたことは、まだ一度もなかった。けれど私の心と身体はごくあっさりと、それを受け入れた。
すぐに結末に至らないように事を引き伸ばしながら、じっくりと味わう。
いまの私の様子を、陛下がご覧になっている――そばにおられて目でご覧になるのではなく、背中の電線を通じて、遠くからこっそりモニターしていらっしゃる――そんな空想がわいてきて、私の身体にぴったりとはまる。
その空想がわいてからほどなくして、結末に至った。
それはとてもぴったりくる空想だったので、もっと続けたかった。けれど、身体がいうことをきかない。身体を使うのをあきらめて、じっとしたまま、事を反芻する。
もし、いま陛下がそばにおられたら、と思う。
いまなら、自分のことに集中する必要がないので、陛下のお気持ちを推し量ることも苦にならない。陛下のぬくもりと匂いを乞いたい。いったい陛下はどんなお顔で、どのように応じてくださるだろう。
しばらくして余韻も冷めて、私は夕食をとりに行くことにした。
職員寮の食堂で、護衛官専用の夕食を受け取る。寮の住人は8人、夕食はそれぞれバラバラの時間にとるので、誰かと一緒になることは少ない。けれど今日は、メイドの遠野さんが、私のすぐあとに食堂に入ってきた。メイドといっても今は私服姿だ。
「設楽さまと一緒にお食事なんて光栄です」
「お礼を言うのは私のほうじゃない? 遠野さんみたいなかわいい子と一緒なんて、ついてるな」
「それ、オヤジみたいですよ」
遠野さんの突っ込みに笑いあったあと、
「設楽さま、お風呂あがりですね。シャンプーとコンディショナーは×××でしょう。ボディソープは×××。どうですか?」
「すごい、当たり。匂いでわかるんだ?」
「これでも美容担当ですから。
ボディソープがひさちゃんとかぶってますから――」
瞬間、遠野さんの顔色が変わり、
「――そういえばですね、陸子さまが最近、」
と無理やりに話題を切り替えようとした。
「ひさちゃんの話は?」
「これけっこう秘密なんですけど、」
「ボディソープがひさちゃんとかぶってるんでしょう? それで?」
「その話は、なしで。もうなにも聞かずに流すってことで」
「そう? 気になるイントロじゃない? いろいろ聞きたいな。ただで、とは言わないよ」
「本当に勘弁してください」
「陛下がひさちゃんをどんな風に抱かれてるか、知りたくない?」
遠野さんは視線を何度か左右に動かしてから、
「……ボディソープがひさちゃんとかぶってますから、別のに変えたほうがいいですよ。同じだと印象が薄くなります。フレグランスが使えればいいんですけど、勤務中はつけちゃいけませんし。
そちらのお話の出どころは、陸子さまですか?」
「ひさちゃんから」
「陸子さまがひさちゃんに手を出されて、それからすぐに設楽さまともエッチなさったっていうんで、すごい盛り上がってますよ。陸子さまを取られそうになった設楽さまが焦って、とか、そういうストーリーなんですか? 私はもうちょっと複雑じゃないかと思うんですけど」
「複雑」
「そちらのお話と関係ありますか?」
「ある。
その話をする前に、私と陛下がなにをしたことになってるのか、聞きたいな」
「今週の月曜に、出先でお二人が一緒に入浴なさって、そのとき陸子さまが設楽さまを誘惑なさって、それでたまらなくなった設楽さまが――そういうことをなさった、という話です」
「いつ聞いた話?」
「今日です」
橋本美園が、情報を漏らすように手配したにちがいない。狙いは緋沙子だ。
「そういうことするときに、架空の設定を決めてするのって、なんていうんだっけ。イメージプレイ?
陛下がひさちゃんを抱かれるときは、それをするんだって」
遠野さんは、食事のことなどすっかり忘れて、こちらに身を乗り出している。
私は緋沙子から聞いたことを、おおまかに話した。遠野さんは、化粧っ気のない頬を上気させ、目をきらめかせて、
「……陸子さま、惚れ直したわ」
「人としてどう? ひさちゃん、まだ15歳よ?」
「どっちかっていうと、そんな話をひさちゃんから聞き出してる設楽さまのほうが、どうかと思いますけど」
「こんなことわざわざ聞き出すと思う? 聞かされたの」
「うひゃあ。ひさちゃんもやるじゃない」
その反応がまるで陛下のようだったので、
「そういう見方って、ひねくれてない?」
すると急に、遠野さんは胸を張り、余裕ありげな微笑を浮かべた。
「そうですね。どうせ私はひねくれてます。ひさちゃんみたいな素直な子のことは、わかんないんです」
「なんか馬鹿にされてる気がするんだけど?」
「私は、ひさちゃんに愛してもらえない女ですから。私はひさちゃんのこと好きなんですけど。『陸子さまとどこまでいったの?』ってきいても、鼻息一発、フンッ、ですよ、フンッ。かっこよかったですよ。
でも設楽さまは、わざわざ聞くまでもなく、そんなことまで教えてもらえるんですもんね。人徳ですね」
「やっぱり馬鹿にしてない?」
「私はひねくれてます、って言ったじゃないですか。だから、こういう言い方しかできないんです」
その言い訳には、ひねくれた説得力があった。
私は話題を変えた。
「……ひさちゃんのキャリアのこと知ってる?」
「他人名義のパスポートでバッキンガム宮殿に潜入ですね? 知ってます」
「あんなでたらめなこと、どうやって実現したの?」
「そりゃ――」
言いかけてから、さっきと同じように、遠野さんの顔色が変わった。
「――どうやったんでしょうね?」
どうやら遠野さんは女中頭にはなれそうもない。
「知ってるでしょう」
「……知ってますけど、ひさちゃんにきいてください」
食後すぐに、私は緋沙子にメールを打った。『今日、帰りにうちによっていって』。
それからタクシーを呼び、駅前のデパートに出かけて、和菓子を買った。陛下がおやつに召し上がるような、とまではいかないが、とりあえず見栄えはする。
午後九時、緋沙子からメールの返事があり、それからすぐに本人がやってきた。
「おみやげもご用意できませんでしたが――」
「いいって、そんなしゃちほこばったお招きじゃないでしょうが。いまお茶いれるね。今日は和菓子なんだよ」
あらかじめ居間に座卓と座布団を用意しておいた。お茶をいれ、お菓子を出す。細工の凝った和菓子を、緋沙子はしげしげと眺めていた。それからぽつりと、
「通販ですか」
私が通販ばかりしている、という話を昨日したばかりだった。私は笑いながら、
「駅前のデパートの地下」
「わざわざ買ってきてくださったんですね。ありがとうございます」
「ひさちゃんだって昨日、わざわざ買ってきてくれたんでしょう?」
「私のは通り道ですから。
私をお招きくださるときは、当日の午後3時までにご連絡いただければ、お菓子をお持ちします」
「なに言ってんの、それじゃお金が大変でしょう」
「そんなにたくさんお招きくださるんですか。嬉しいです」
まだ手をつけずにいた和菓子を眺めながら、緋沙子は目を細めて微笑んだ。
「あ、えーと、そういう意味もあるんだけど――」
そのまましばらくお菓子の件で話しあい、結局、緋沙子がお菓子を買ってきて、その代金は私が出す、ということになった。
和菓子がなくなったころ、私は二杯目のお茶をいれながら、緋沙子に訊ねた。
「立ち入ったこときくけど――ひさちゃんがイギリスに行くのを助けてくれたのは、誰?」
緋沙子は目を丸くして答えた。いまさらなにを、という驚きだった。
「陸子さまです」
予想どおりだった。
小学生だった緋沙子と接触のあった有力者は誰か。あやうく審判を逃れて鑑別所を出たばかりの緋沙子を、メイドとしてお側仕えにすることができるほど、財団に影響力を振るえる人物は誰か。陛下のほかにありえない。
「帰ってきたら公邸で雇う、っていう約束だったわけね」
「はい」
陛下は私に隠し事をなさらないものと、決めてかかっていた。けっしてそんなかたではないのに。
「ご両親はどうやって説得したの?」
「母は死んでいましたし、父は、私への性的虐待のために親権を停止されました。ほかに引き取り手がなかったので、私は千葉市の子供の家にいました。私は家出して行方不明になったという処理をされたはずです」
千葉市子供の家――陛下が11歳までおられた施設。
「それじゃあ――いまは――」
「陸子さまが用意してくださったマンションで暮らしています」
「ひとりで?」
「はい」
私は、言うべき言葉がみつからなくて、緋沙子を抱きしめた。
抱きしめたまま、どうしていいのか、わからなくなる。離れることができない。どうして、こんなにも、愛しいのだろう。自分がわからない。
「設楽さま――」
「なに?」
「設楽さまは私を哀れんで、こうしてくださっていると思います。でも私は、こうしていると、……欲情を催します」
それで少し正気に返った。いまなら離れられそうな気がする。けれど、言われたとたんに離れるのでは、『想像なんて、私に黙ってすればいいじゃない』と言い放った手前、きまりが悪い。
「別に、いいよ」
「誘って、おられるんですか?」
抱きしめる私の手を、緋沙子の手のひらが包む。
悪い気持ちはしなかった。それどころか――
私は身体を離した。
「そういうわけじゃなくて、その、」
緋沙子は、射るような鋭いまなざしで、言った。
「私で遊ばないでください。哀れんだり、欲情させたり、突き放したり、そういうのは嫌いです」
耳に痛かった。緋沙子をもてあそんだりしないよう、陛下にお願い申し上げたのに、その私がいつのまにか、緋沙子をもてあそんでいる。
「……ごめん」
「わかってくだされば、いいんです。……わかってて、そうしてくださるなら、いいんです」
わかってて――陛下のなさっていることだ。
「今度から、気をつける」
沈黙が落ちた。話題を探す。
両親のことは聞けない。子供の家のことも、楽しい思い出のはずがない。陛下との絆――それがいい。
「陛下に初めてお目見えしたのは、いつ?」
「先月です」
私は驚いて、
「それまで、手紙だけ?」
「主に電子メールでした。お電話も何度か」
ロンドンからも欠かさずメールをやりとりしていたことや、初めてのお目見え、公邸への初出勤などを、緋沙子は目を輝かせながら話した。私との出会いに話が及んで、私は訊ねた。
「私が陛下の内縁の配偶者だ、って吹き込んだのは誰?」
すました顔で緋沙子は、
「それは嘘ですと申し上げたはずです」
「カマかけたんだ?」
「ノーコメントです。それに、もし設楽さまのお答えがイエスでも、私は変わりなく陸子さまにお仕えするつもりでした」
「そうでしょうね」
『陛下を抱いたの』――そう告げたいという衝動が、また襲ってくる。
「……そうだ、設楽さまに嫉妬したこと、思い出しました。
設楽さまは最近、陸子さまに、裸のお姿をご覧いただきましたね。それだけではないと思いますが」
そのタイミングはまるで私の衝動を見抜いたようで、私は自分の頬が青ざめるのを感じた。
「うん」
「嫉妬しました。私はまだ自分の素肌を、あまりご覧いただいていません」
「着たまま、してるんだ」
「はい」
話題を変えようと思った。が、
「服とか汚れない?」
「気を使います」
「陛下も? ひさちゃんの服が汚れないように気をつけてくれてるの?」
「はい。私もそのことをお尋ねしたのですが、そういうところに気を使うのも楽しみのひとつ、とのことです」
どう考えても、聞くべきでないことを聞いている。自分が嫌になってきた。今度は口に出して、
「……話題を変えよう」
すると緋沙子は、まるで予定していたかのように滑らかに、
「このお宅は、護衛官の官舎だと思いますが」
と、まったく別のことを言い出した。
こういうのも如才ないというのだろうか。少し違う気がする。とはいえ、ありがたいのは確かだった。
「そう。便利なんだか不便なんだか」
「護衛官に就任して、ここに引っ越してこられたときは、どんなお気持ちでしたか?」
「そっか、ひさちゃんは引っ越したばっかりだもんね」
初めてのひとり暮らしの話でひとしきり盛り上がり、そのうち新居を訪ねるという約束を交わすと、緋沙子の帰る時間になっていた。
バス停まで送ってゆく。バスが来るまで一緒に待とうとしたけれど、昨日と同じく、緋沙子に強く断られた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
別れの挨拶のあと、ゆこうとして、立ち止まる。緋沙子の視線が、心にひっかかった。
「――どうしたの?」
「設楽さまこそ」
「なんか、気になって。気のせいかな?」
次の瞬間、緋沙子はなんの前置きもなく、それでいて予定していたように滑らかに、核心を突いた。
「今日の設楽さまは、ひとりになるのを恐れていらっしゃるように見えます」
どうして?――緋沙子に尋ねる前に考えてみて、答えはすぐに出てきた。
美園のことから逃れたい。その記憶、未来、感情、意思から、逃れたい。
「……うん」
「もしよろしければ、今晩はお宅に泊めてください」
その申し出に、私はぐらつきながらも、
「恐いっていうのは、なにが恐いのかわかれば、もう恐くないの。ありがとう」
今度はもう振り向かずに家へと歩いていった。美園のことを思いながら。
護衛官が国王陛下と二人きりで話せる時間は、あまり多くない。
普段、陛下と話す機会がもっとも多いのは、移動中の車内だ。これは二人きりではない。運転手がいる。二人きりになりやすいのは控室だが、これもお側仕えのメイドや、TV局のメーキャップアーティストがいることが多いし、あわただしく着替えたりするだけで終わることも多い。
今日は、朝の9時から午後10時半まで警護したのに、結局チャンスがなかった。
別れ際、
「遅くまでありがとうね。どこが一番疲れてる? ……背中? このへん?」
と、陛下は、私の背中をさすってくださった。
「今度は、しあさってだね。そしたら、またお願いね。大好きだよ、大好きだよ、ひかるちゃん」
家に帰って、プライベートの携帯をみると――橋本美園からの着信記録が残っていた。留守電メッセージはない。
どうすべきか。
携帯を見つめながら迷っていたそのときを、まるで見計らったかのように、着信があった。かけてきたのは、橋本美園。
「ひかるさん? こんばんは。いま上がったところでしょ? お疲れさま」
「……美園さんは悪者のはずですが、友達でもいたいんですか。欲張りすぎではないでしょうか」
「そう? なんなら今から制服に着替えて、そっちに押しかけようか?」
「よしてください」
美園は公邸の離れにいた。離れの2階には女中頭のオフィスがあり、そこからは護衛官の官舎が見える。官舎に明かりがついたのを見て電話をかけてきた、というわけだった。
「遠野さんから聞いた。陸子さまのイメージプレイ。
裏は取ったんでしょうね? 平石さんの作り話って可能性もあると思うんだけど」
いかにも女中頭らしく、疑り深い。
「わかりません」
私はわざとそう答えた。私の心証は決まっているが、陛下がお認めになっていない以上は、これも嘘ではない。
「へー? ま、いいか。
それじゃ、本題。
あさっての日曜日の午前1111時、ひかるさんの家に遊びに行くから、よろしくね」
「よしてください」
「あら肘鉄砲。
平石さんがどうやってバッキンガム宮殿に潜り込んだのか、本人に聞いたんでしょ? もちろん私は最初から知ってた。知ってて、ひかるさんには黙ってた。どうしてだと思う?」
「陛下がそれほどまでに慈しんでこられた子だと知ったら、私が身を引くかもしれない、と予想なさったのでは」
「慈しんだ? そんなに大切にしてるように見える?」
「……少なくとも私よりは、あの子のことを深く理解しておられます」
「そりゃそうね。でもそれで、納得できる? ひっかからない?」
『ま、そうなったら、ひさちゃんには辞めてもらうけどね』『ひさちゃんは戦わない。弱いふりして、ひかるちゃんをたぶらかしてるだけ』――緋沙子の気持ちを踏みにじって恥じないといわんばかりの、お言葉の数々。
「美園さんがなにを言いたいのか、わかりません」
「日曜日に教えてあげる」
私が返答に迷っていると、電話が切れた。かけなおす気力は、わいてこなかった。
「お口を大きく開けてくださいませ」
私はそのとおりにした。
私の両腕、手首のそばには、黒い手枷。少し重いほかは、着け心地は悪くない。外側は硬いゴムだけれど、柔らかい内張りがしてある。
「拝見します。……きれいな歯並びでございますね。虫歯も見えません」
美園は、指で歯をひとつずつ押してゆく。
私の首には、首輪。鎖で手枷とつながっている。この鎖は短くて、手が腰に届かない。
「抜けそうな歯や、ぐらついている歯はございませんね?」
「ない」
私の両足、膝のそばには、足枷。足を閉じられないよう、左右の足枷を棒でつないである。
腰には、コルセット。紐で締め上げてある。深く息することも、かがむこともできない。
そして、左手首に手錠。この手錠のもう一方の環は、冷蔵庫のドアの取っ手をつかんでいる。
拘束具に包まれた私自身は、足を開いて椅子に座り、肘掛けに肘を置いている。
「では、こちらをお試しください」
美園は奇妙なボールを差し出した。
大きさは鶏の卵ほど。白いプラスチックでできている。卵の殻のように中空で、ただし、このボールの殻の厚さは数ミリ以上ある。その殻にも、指先くらいの穴がいくつも空いている。
「なにこれ」
「この状態では見慣れないものでございましょう。このようにして用いるものです」
美園は、黒いゴム製のハーネスのようなものを取り出した。そのハーネスについている金属の棒を、ボールの穴に通し、取りつける。
「間接キスはお気になさいますか?」
「いまさら」
「では、失礼します」
美園はそのボールを口にくわえこんだ。ハーネスの両端を、頭の後ろに回す。
見覚えのある道具だった。口枷の一種だ。ボールに穴が空いているから、口で息もできるし、声も出せる。言葉をしゃべることと、口を閉じることはできない。
美園はボールを口から出して、
「詳しくご説明いたしましょうか?」
「いい。早くやって」
ボールをハーネスから外し、目の前に差し出す。私が口を開けると、そこにボールをそっと押し込む。かなり大きく口を開けないと、中に入らない。
弱く噛む。見た目よりは柔らかいプラスチックだった。といっても噛み砕けそうにはない。
「これをはめておりますと、ひとつの歯に力が集中して、噛み合わせが狂うことがございます。はめている時間が短ければ一晩で直りますが、それまでは、お食事の際などに大変気になるものでございます。
ボールを回したり、位置をずらしたりして、ひとつの歯に力が集中しないよう調整なさってください。もしボールの大きさがあわないようでしたら、別のサイズのものをお試しください」
言われるままに、しばらくいじる。口を指差して終わりを告げると、ボールを口に入れたまま、ハーネスに取りつけた。そのハーネスを私の頭に固定する。
「痛いところはございませんか?」
かぶりをふる。
「しゃべれなくて恐い、というお気持ちはございませんか?」
ちょっと考えて、かぶりをふる。
美園は、私の顔を自分の胸に押しつけながら、
「嬉しゅうございます」
と、囁いた。
美園を家にあげる前に、一悶着あった。
予告どおり午前11時にやってきた美園に、私は告げた。どこかに遊びにゆくのなら付き合うし、電話をくれるのも嬉しいけれど、あなたと二人きりになるのは恐い。先日のディズニーランドのお礼に、今日はお台場にでも――
私のつたなくもつれる言い訳を、最後まで聞いてから、美園は言った。
「私は悪者なのに、ひかるさまのお友達でもいようとする、それは欲張りすぎではないかと、ひかるさまはおっしゃいました。
でも、ひかるさまも欲張りでございます。
私をひきとめながら拒もうとしておられます。迎え入れてくださるでもなく、居留守を使うでもなく、私の顔色をうかがっておられます。
そうやって人の気持ちを忖度してばかりのお心で、私をなだめることができると、まだお考えでしょうか? まだ私の気持ちをお疑いでしょうか? 私がこれほど悪事を重ねているのに、まだ私を悪者扱いしてくださらないのでしょうか?」
「だって――」
「どっちつかずは、これきりになさいませ。ひかるさまがそのように煮えきらないのなら、私は押し通らせていただきます」
ずい、と前に出る美園を、私は止められなかった。
美園は、家の中をざっと掃除してから、昼食を作ってくれた。一緒に食べる。
話題は緋沙子のことになった。
「平石さんは人気者でございます。夕食のときには、彼女のそばの席をめぐって争いになるほどです」
「そうなんだ」
「なにしろ陸子さまの思い人ですもの」
緋沙子についての物言いには、相変わらず刺があった。
食後のお茶をいただいて、後片付けの段になったとき、私は自分で片付けをしようとした。が、美園の猛反対にあった。
「こればかりはご勘弁くださいませ。私のことは、ひかるさまにお仕えする者として見ていただきとうございます。そのために私はいまここにおります。なのに、ひかるさまのお手を煩わせては、今日一日が台無しになってしまいます」
もしここで美園の反対を押し切れるのなら、そもそも美園を家にあげてしまうこともなかっただろう。それで私は、居間でTVアニメの録画を見ていた。
すると、美園がやってきて、告げた。
「ひかるさま、冷蔵庫の調子がおかしいようです。冷蔵庫の中に、熱くなっているところがあります」
私はキッチンに行き、冷蔵庫の中をのぞきこんだ。右手で、冷蔵庫のドアをつかみながら。
「どこ?」
「このあたりです」
美園が指をあてて示したところに手を伸ばして、腰をかがめた瞬間――私の右手には、手錠がはまっていた。手錠のもう一方の環は、冷蔵庫のドアの取っ手をつかんでいる。
美園はすたすたと離れて、私の手の届かないところに立った。
私は手錠を確かめた。叩けば壊れるプラスチックのおもちゃではない、本物の手錠だった。
「……冷蔵庫の故障って、」
「嘘でございます。たばからせていただきました」
「私をキッチンに閉じ込めて、どうするつもり?」
それには答えず美園は、
「ひかるさまは、このような物はご存じでしょうか?」
と言って、取り出してみせたのは、黒いゴム製の手枷だった。
「私がそんなものつけると思う? もう美園の――橋本さんの言いなりにはなりません」
敬語や『橋本さん』を気にとめる様子もなく美園は、
「ひかるさまはさきほど、お茶を召されました」
そう言ってから、気を持たせるように、黙る。
あのお茶に、なにか入れてあったのだろうか。まさか。美園はそこまではしない。それがわかっているから、こうして家にあげてしまった。
「……それが、どうしたんですか」
「お茶を飲んだあとには、お手洗いが近くなる――そう感じたことはございませんか? お茶に含まれるカフェインは、眠気ざましの効果で有名ですが、お小水を作るのを早める効果もございます」
私は息を飲んだ。
「だからって橋本さんの言いなりになっても、トイレに行けるかどうか、不安ですね」
「確実に床を濡らすほうがお好みでしょうか? では、それまで待たせていただきます。
そうそう、あまりひどく我慢なさるようでしたら、脇腹などをくすぐらせていただきます。お小水をひどく我慢しているときに、くすぐられるとどうなるか、ご存じですか? ……ご存じとお見受けします。
ひかるさま、どうぞこちらにお掛けください。……お茶をもう一杯、いかがです?」
私は勧められるままに椅子に座り、お茶は断り、目をつぶって、言った。
「……条件があります」
話し合いの結果、かなりたくさんの条件をつけることができた。
・午後3時には、すべての拘束をほどいて帰る。
・私の許しがないかぎり、胸と下腹部には触れない。
・くすぐらない。痛みや熱さを加えたり、つらい姿勢を強いたりしない。
・撮影や録音をしない。
・唇や舌や歯で、私の身体に触れない。
「あと、それから…… 唾液とか――体液を触れさせるのも禁止」
「汗と涙はお許しください」
「わかった。それから……」
考えているうちに、ふと気がついた。
「手錠を外さないと、服が脱げないんじゃない?」
「ええ。ですので、手錠をもうひとつ用意してございます。左手にかけてから右手を外す、という要領で、お召し物を脱がせてさしあげられます」
その言葉どおり、美園は手錠をもうひとつ取り出してみせた。