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 四つん這いで歩かされるのは、思ったほど辛くはなかった。
 「この床は、さきほどお掃除したばかりでございます」
 あとはなにも言わず、のそのそと歩く私に、後ろからついてくる。ただしその手には、私の首輪の綱が握られている。
 トイレにたどりつくと、私の身体を抱え起こして、便座に座らせてくれた。手を伸ばせず、足も棒が邪魔なので、ひとりではなかなか起き上がれない。そして、さっきつけた条件のとおりに、トイレのドアを閉めて、私をひとりにしてくれる。
 下腹部を被うものはないので脱ぐ必要もなく、そのまま用を足す。
 用を足して――気づく。どうやって拭けばいいのだろう。
 口枷の下からうなり声をあげて、呼ぶ。
 「ご用はお済みでしょうか?」
 私がうなずかないのを見て、微笑んだ。どうやら予想していたことらしかった。
 「ひかるさまがお許しくだされば、私が拭いてさしあげます」
 ほかにどうしようもなかった。
 拭く手つきは、必要以上に丁寧でゆっくりしていた。目をつぶって耐える。
 「枷を解いてさしあげるまでのあいだ、どのお部屋で過ごされますか? 寝室がよろしいでしょうか? ……では、居間がよろしいでしょうか?」
 寝室では、今夜眠るときに、思い出してしまいそうで嫌だった。
 「……居間でよろしゅうございますね。ひかるさまに寛いでいただけるよう、お部屋を整えてまいります。少々お待ちください」
 すぐに戻ってきて、私を床に降ろし、首輪の綱をとる。
 居間はカーテンが閉められ、毛布が敷かれていた。クッションもある。毛布の上に身体を丸めて横たえると、口枷が外された。
 「お口に異状はございませんか?」
 「ない」
 「では、しばらくお預かりします」
 美園は、口枷のボールに唇をつけて、息を吸った。一体なにをしているのか一瞬わからず――私の唾液を啜っているのだと気づいて、目を逸らす。自分の口を吸われているような気がした。
 「ひかるさまの体液を求めない、とは約束いたしませんでした」
 私はうなずいた。
 寒くはございませんか? 眠たくはございませんか? 姿勢は? クッションの位置は? かゆいところは? 際限なく尋ねてきた。
 「もういい。答えるの面倒」
 「かしこまりました。こちらを、どうぞ」
 差し出されたボールを口にくわえると、沈黙が訪れた。
 美園はすぐそばに正座して、コルセットやお尻に片手を、肩や頬にもう片方の手を置いている。ときどき、肌をなでる。指先がわずかに触れるくらいに。あるいは、肌の下にある骨や筋肉を探るように。
 話し合いのときには美園は、私の肌にできるだけ広く触れることを望んだ。『胸に触れない』という条件はずいぶん不本意だったらしく、何度も蒸し返された。なのに、こんなにおずおずとした触れかたをされたのは、拍子抜けだった。
 「……ひかるさま、」
 耳に心地よい、穏やかな声だった。
 「こんな真似をしでかしたあとで申し上げるのは卑怯と思いますが、……私にとっては、なにもかも初めてのことです。誰かに枷をはめるのも、……女の子と、肌を重ねるようなお付き合いをするのも。
 私はひかるさまとちがって、女の子にもてたことなどございませんし、……陸子さまとちがって、興味を抱いたこともございません。……こういった道具を使うことには、興味だけはございましたが。
 今日のことは、ずいぶんあれこれと考えてきました。もし事が計画どおりに運んだら、あれをしよう、これをしよう、……たくさん考えてきたのですけれど」
 ため息の音がきこえる。
 「いま、こうなってみると、さっぱり思い出せません。……しょせんは付け焼き刃なのでしょうか。
 でも、こうして、ひかるさまを撫でているだけで、……幸せです。
 ……つまらないことをお耳に入れてしまいました。どうかお聞き捨てください」
 しばらくすると今度は、私のあちこちを撫ではじめた。
 拘束具のために閉じることのできない内股を撫でる。反射的に腰が逃げようとするのを見て、
 「まるで猫でございますね。飼い猫をなでると、ちょうどこんな風に逃げようとすることがございます」
 子供を褒めるように、頭を撫でる。
 「そうやって素直になさっていると、お召し物がよくお似合いです。可愛らしゅう、……愛しゅうございます」
 手のひらを指でなぞる。
 「思い出しました。皮膚がふやけて白くなるまで、お指をしゃぶりたい、と考えていたのですが…… お許しいただけないようですね」
 そのうち、撫でることから、私の身体を観察することへと、比重が移ってゆく。
 下腹部を見つめながら、
 「上の生え際がとても整って見えますが、なにかお手入れをなさっていますか? ……私のはもっと複雑なラインになっております。ご覧になりますか?」
 足の裏をさすって、
 「細いおみ足でございますね。輸入物の靴がよくお似合いでしょう。いつか、私を踏みつけてくださいませ」
 見るべきところがなくなると、私の身体を起こして、背中から抱きしめた。胸に触れないよう、コルセットに覆われた腰に腕を回して。
 お互いの頬が触れあう。
 しばらくそのままでいてから、美園は、私の口枷を外した。
 「お口に異状はございませんか?」
 「……ない」
 「では、お口が休まれたころにお返しいたします」
 さっきと同じように、口枷に残った唾液を啜る。
 それを見ても、もうあまり動揺はない。私はだんだん自分のペースを取り戻しつつあった。
 「――陛下が何年も前から、平石さんを手助けなさっていた、っていう話はどうなったの?」
 「解けてしまえば興ざめな謎でございます。お暇するときに申し上げます」
 どうやら今日は、前置きが長すぎるほうらしい。



 私はくつろいでいた。
 最初はなにかと言葉をかけていた美園も、次第に黙りがちになり、今ではただ私の身体や頭を撫でるだけになっている。
 ときどき、その表情を盗み見る。穏やかで優しい。それを見て、考えさせられる。私にこんな格好をさせているから、こういう顔になっているのだろうか。拘束具を使うことには、前から興味があったと言っていた。ほかのことでは、こういう穏やかな顔にはなれないのだろうか。もしそうなら、美園のしたことには、同情の余地があるかもしれない。
 同情の余地を探すまでもなく、私はもう半分くらい、美園を赦していた。約束はすべて守ってくれた。私が苦しくないよう、細やかに気を使ってくれた。
 とはいえ、どんなに赦しても、もう二度と美園を家にあげたりしないだろう。
 ぽつりと美園が言った。
 「平石さんが公邸に入ったときに、保安部から説明を受けました。平石さんと陸子さまの関係について。
 平石さんは、陸子さまの文通相手でございました」
 文通と並行して、電子メールをやりとりするようになったこと。陛下がご両親のつてをたどって、協力してくれるイギリス人を見つけたこと。他人名義のパスポートの件は、緋沙子がひとりでやりとげたこと。私がすでに知っていることに混じって、初耳のことも聞こえてくる。
 「陸子さまが平石さんのことを、どう思っておられるか――私は陸子さまではございませんので、私なりに推し量ったことを申し上げます。
 ひかるさまは、陸子さまにとっては、いうなれば母親のようなかたでございます。ところが、平石さんが相手では、なかなかそういうわけにはまいりません。この違いを、どうかお忘れなく。陸子さまが、ひかるさまを愛するように平石さんを愛しておられるとは、お考えになりませんよう」
 美園はそこで黙った。考えをまとめているらしかった。
 「平石さんの育ちには、陸子さまのお育ちと似通ったところがございます。そのためでしょうか、陸子さまは、平石さんにご自分を重ねていらっしゃいます。それで平石さんを愛しておられるのですが――同じくらい、憎んでおられるのだと思います。
 憎む、というと、おだやかならぬことのように聞こえますけれど――可愛さあまって憎さ百倍、とでも申せましょうか。
 陸子さまは感情表現の素直なかたです。ご自分の感情がどんなものかをよくご存じで、扱い方を心得ていらっしゃるのでしょう。けれど、こと愛情に限っては、どうも苦手になさっているようです。
 ……ひかるさまを相手になさるときだけは、素晴らしくお上手ですが――だから私は、ひかるさまは陸子さまと歩まれるべきだと申し上げたのです。ひかるさまはご存じないでしょうが、陸子さまは、誰にでもああではございません。ことに、平石さんがお相手のときは」
 その説明は、私が見てきたことに、よくあてはまった。緋沙子のことを話すときの冷酷な態度は、緋沙子への愛憎が不器用に表れたものだ。
 美園はしばらく、先を続けずに、私の頭を撫でていた。
 「――ですから、陸子さまは平石さんの前で、いつも苦しんでおられます。
 ひかるさまは、そうした苦しみを、まるでご存じありません。
 好きだから、大切にする、慈しむ――ひかるさまの世界は、それで済んでしまいます。陸子さまは、そうではございません。
 陸子さまの苦しみをご存じないままで、陸子さまと平石さんの関係をご覧になれば――平石さんをかばって、陸子さまを責める、という次第になりましょう」
 私は反論したかった。陛下が苦しんでおられるのは事実としても、だからといって、緋沙子をもてあそんでいいということにはならない。たとえ陛下に罪がなくても、緋沙子をかばう以外のことはできない。
 「陸子さまと平石さんの関係が深ければ深いほど、陸子さまが悪者に見えてしまいます。ですので、関係の深さを思わせるような事実は、みな伏せてきました。ひかるさまには陸子さまと結ばれてほしいと、願っておりましたので。
 ……それももう、過ぎたことでございますが」
 もし口枷がなければ、訊ねたかった。
 緋沙子のことを、どう思っているのか。幼く、よるべのない身の上で、暮らしのすべてを陛下に頼っている。助けてあげたいという気持ちはないのか。
 そんな私の思いを知らない美園は、私の両手を握った。
 しばらく、指先や手のひらを撫でていた。やがて、身体をかがめて、唇を指先に近づける。約束違反だ。私は手をひっこめた。それだけで美園はすぐに気がつく。
 「申し訳ございません。唇で触れないとの約束を、忘れておりました」
 愛おしそうに、残念そうに、何度も指先を撫でさする。
 ふとその手が止まった。
 「――ひかるさまを、さらってゆくだの、……萌えるだのと、そんなことばかり申しておりましたけれど、……もっとふさわしい言葉で、私の気持ちを申し上げるべきかと存じます。
 ひかるさま、私は――」
 そこで言葉は止まり、かなり長い時間、そのままだった。
 「……やはり、このままがよいでしょう。こんなときに人並みの口をきけば、言い訳がましく聞こえます。でも――」
 また間を置く。
 その優柔不断に、私はいらいらしてきた。ありきたりの愛の言葉をひとつやふたつ並べたところで、美園のしたことが覆い隠せるはずもない。
 「ひかるさま――」
 それでも、耳をそばだててしまう。
 「……私は、陸子さまをお慕い申し上げております」



 『私は、陸子さまをお慕い申し上げております』
 『陸子さまを』
 はじめは、言い間違いか、聞き間違いだと思った。
 「――でも私は、陸子さまとともに歩むことはできません。あと2年もすれば、お側仕えを外れて、もう陸子さまのお顔を拝することもなくなるでしょう。無理にお側仕えを続けたり、……もっと別の形でお側に置かせていただいたり、そこまでしたいとは思いません。私はそんな重たい女にはなれません。
 私は、もっと強くて、卑怯な女でありとうございます。――ひかるさまをさらっていって、陸子さまを悔しがらせるような」
 この告白の、いったいどこが『人並みの口』なのかと問いただしたかった。
 「……ひかるさまご自身のことも、大切に――とは言葉の綾でございますが、今日のようなことをしでかすくらいの気持ちはございます。
 ひかるさま、私にさらわれてしまいませ。そうすれば、陸子さまが奪い返しにきてくださるかもしれませんでしょう?」
 奪い返しにきてくれる――その空想は一瞬、美しい輝きを放った。
 輝きに見とれる間もなく、すぐに打ち消す。あまりにも身勝手な空想だ。一瞬でも目を奪われたのが恥ずかしい。
 「そうすれば、ひかるさまの求めておられる喜びを、陸子さまが与えてくださるでしょう?
 喜びに逆らえない、ふしだらな女におなりませ、ひかるさま。その弱さで、陸子さまを誘い惑わし惹きつけて――ドラマを、陸子さまに捧げなさいませ」
 美園はふたたび私の手をとり、かがんで、唇に近づけた。約束を忘れているのではなく、約束を破ろうとして。



 私は陛下のことを思っていた。
 おととい、別れ際に、陛下は私の背中をさすってくださった。そのときはただ嬉しいくらいで、特別なこととは思わなかった。それは毎日のようにあることで、明日も、来年も、もし命があるなら十年後にも、それはあるはずだ。
 でもそれはやはり特別なことだ。たとえ百万回繰り返すことでも、特別なことだ。その特別さを、普段は忘れているだけで。
 その特別さを、いま突然、私は思い出していた。
 陛下が、私の背中をさすってくださった。奇跡のようなことだと思う。悔いばかり多く罪深い私の人生を、それだけでまるごとプラスに変えてしまう、魔法の杖の一振りだと思う。
 私を喜ばせようとして、私の奥深くに触れてくださる陛下の御手は、どんな奇跡だろう。
 背中をさすってくださる御手と、それほど違わないかもしれない。それなら十分すぎるほどだ。たとえ百万回繰り返すことでも、私は欲しい。欲しくて、たまらない。
 
 指先が、美園の唇に触れる寸前、私は手をひっこめた。
 口枷があってよかった。言い訳をしなくていい。美園は大変だろうな、とも思う。私が黙っているぶん、自分自身のことをしゃべらなくてはならない。
 美園の言うことは、おそらく当たっている。陛下は私を取り戻そうとなさるだろう。背中をさするのとは違うやりかたで、私に触れてくださるだろう。
 けれど、その御手にこもった奇跡は、陛下おひとりの力では実らない。もし私に欠けるところがあれば、それは奇跡にならない。
 もし、美園に許してしまったら、私は欠けてしまう。
 理由はわからない。貞操とか純情とか、そんなことではない。私は、美園が無理やりにしてくれるのを、期待していた。それなら私は欠けないままでいられる――こんな期待を抱いている私が、純情などと言えたものではない。
 
 私が手をひっこめると、美園はもう、その先にゆこうとはしなかった。
 手を離して、居住まいを正した。そのときの表情を、私は見なかった。目をそらしていた。
 さっきまでのように、私の頭をなでる。目をあわせる。穏やかで優しい。
 口枷があってよかった。言い訳をしなくていい。言い訳では、美園を慰めることはできない。それはわかっていても、もし口が自由だったら、私は言い訳をせずにはいられなかっただろう。
 
 しばらくして、なんの前触れもなく、玄関の呼び鈴が鳴った。前触れがない、ということはつまり、訪問者は検問線の内側からきた。
 「少々お待ちください」
 私は美園にまかせた。ほかにどうしようもなかったのではあるけれど。



 この官舎に引っ越してくるまで、私はずっと街中で暮らしてきた。官舎にきて、その静かさに驚いた。聞こえるのは、鳥や虫の声と、風の音、それだけだ。足音も、車の音も、近所の人の声もない。慣れるまでは不気味だった。
 その静かさのおかげで、居間にいても、玄関の物音や声が聞こえる。
 玄関の扉が開き、
 「はい、ご苦労さま」
という美園の声に続いて――二人分の足音が、こちらに近づいてきた。
 私の体格はまるで警護に向かないが、性格はそこまで不向きでもない。この非常事態にあっても、むしろ非常事態だからこそ、私は頭を働かせた。
 美園の声の調子からして、相手はメイドの誰かだ。不意の訪問ではなく、あらかじめ時間を指定して来させたらしい。なら、緋沙子だ。どういうつもりかはわからないが、それ以外の人間を巻き込むとは思えない。
 緋沙子のいまの状態は? 私がこんな目にあっていると、知らされたうえで来ているのか? これから知らされるのか? それによって、話ががらりと変わる。いまの段階では、どちらともいえない。
 私はどうすべきか。じたばたせずにいよう。助けを求めるような顔はしない。恥ずかしそうにもしない。事情をきかれたら、時間をかけて、そもそもの最初から説明する。私の異常な癖のことも、あの写真のことも、話す。
 「ご用をまだうかがっていません」
 廊下から聞こえてくるその声はやはり緋沙子だった。
 「平石さんに見せたいものがあります」
 私は、二人がやってくるほうを見つめていた。
 微笑む美園に続いて、仏頂面の緋沙子が姿を現す。
 目を丸くした緋沙子は、いつになく可愛らしい。私はあまり動揺もせず、緋沙子を見返した。
 「どういうことですか?」
 「ひかるさんに尋ねたほうが、確かなことが聞けるんじゃない?」
 緋沙子は、私に視線を戻した。
 その視線に――私は耐えられなかった。顔をそらし、身体を縮める。恥ずかしさのあまりに。
 期待のこもった視線だった。私にさわれるかもしれない、という期待。美園がしたことをすべてあわせたよりも、その視線のほうが、羞恥心にこたえた。
 緋沙子は素早く動いた。
 そばに寄ると、まず、毛布をかけてくれた。首輪も見えないように、耳のあたりまで覆う。
 次に、口枷を外す。素早く、それでいて、落ち着いた手つきだった。ハーネスを一瞬で外したあとは、私がボールを口から押し出すのを待つ。あわてて引っ張られたりしたら、歯や唇によくない。
 向き合うと、緋沙子はもう、さっきの視線をしていなかった。落ち着いて実務的な、医者のような雰囲気だった。
 口が自由になっても、すぐには言葉が出てこなかった。その沈黙をどう取ったのか、緋沙子は、
 「……私は、ここにいたほうがいいですか? もしお邪魔でしたら、帰ります」
 「いて。帰らないで」
 「服はどうされますか? その前に、手足のこれを外しましょうか」
 そこへ美園が、
 「平石さん、事情を聞くんじゃなかったの?」
 「落ち着いて話ができる状況とは思えません」
 「ひかるさま、いかがです?」
 それで美園の狙いが読めた。
 女中頭が護衛官とこんな関係になったことが、もし財団に知れたら、美園はお側仕えを外される。緋沙子は美園と対立しているので、このことを通報しないはずがない。もし美園が公邸を追われたら、困るのは私だ。あの写真がいつ爆発するかわからない。だから私は、緋沙子を説得するなり、あるいは嘘をつくなりして、緋沙子を黙らせる必要がある。
 黙らせる方法を考えてみて、わかった。嘘をつくほうが、はるかに簡単だ。『私は好きで美園とこうしている』と言えば、緋沙子は黙っているだろう。美園を公邸から追い出しても、私の恨みを買うのでは割にあわない。
 もし説得しようとしたら、伝えるべきことがたくさんあって、しかも話しづらいことばかりだ。あの異常な癖のことはもちろん、美園の悪者ぶりと私の弱腰のことも、どう話したものか悩ましい。
 そして、もし事の全部を話しても、緋沙子が黙っているかどうかは怪しい。
 あの写真のことは、財団がそれなりに対応すれば、なんとかなる。たとえリスクがあるとしても、職権を濫用して恐喝をはたらく女中頭を取り除く、というメリットで正当化できる――と緋沙子は考えるだろう。なぜ私がそうしないのかといえば、あの異常な癖のことを話すのが恥ずかしいのと、美園のことがそれなりに好きだからだ。どちらの理由も、緋沙子にはない。
 嘘をつくほうに、心が傾きかける。
 喉から出かかった瞬間、飲み込む。もし口に出してしまえば、それはもう嘘ではなく、本当にそうなってしまうような気がして。
 美園は私をさらっていくと宣言して、そのとおりに振舞っていたのに、遠ざけるどころか、家にあげてしまった。どうしてだか、自分でもうまく説明できない。ここでもし嘘をついたら、説明がついてしまう。私は美園を求めていた、と。そのうえ緋沙子や陛下が、この嘘を事実と認めてしまったら、もう逆らえない。この嘘が本当なのだと、自分でも信じてしまうだろう。
 唇を奪われたり、拘束具をはめられたりするくらいは、なんでもない。この嘘を信じることに比べたら。
 美園のことが嫌いだからではなく。美園のことを、美園という人として、ほかのどんな好きとも違う好きで、好きだから。
 だとしたら、やはり、説得に頼るわけにはいかない。美園が公邸を追われてしまう。
 嘘をつかずに、緋沙子を黙らせる。そんな方法が――ある。
 私は緋沙子に告げた。



 「抱いて」
 緋沙子の、期待のこもった視線を感じたときから、わかっていた。私はあの期待に応えずにはいられない。こうして考えている私の頭も、あの期待にひきずられている。
 いまここで緋沙子が私を抱こうとすれば、美園と緋沙子はお互いに、相手を辞めさせる切り札を持つ。そうなれば、どちらも相手を辞めさせることができない。
 緋沙子は瞬く間に形相を変えた。医者のような顔が消え失せて、欲情が一面に噴き出す。
 「――私の、耳が、おかしくなったみたいです。どうか――」
 言葉を繰り返すかわりに私は、身体を伸ばし、唇を差し出した。
 緋沙子の手が、肩をつかむ。かすかに震えていた。
 くちづける。最初は短く。
 「ちょっと、ひかるさん、そりゃないでしょう?」
 呆れたように美園が言った。
 振り返って緋沙子が言い返す、
 「私たちにまざるか、でなければ、お引き取りください。見世物ではありません」
 今度は美園が目を丸くする番だった。驚いた顔のまま、回れ右して、居間から出ていった。
 美園が出てゆくのを見届けてから、こちらに向き直った緋沙子は、とまどったように、
 「もう大丈夫ですけど――続けても、いいんですか?」
 「さっきのは、本気じゃなかったの? それはちょっと傷ついたな」
 まるで陛下のおっしゃるような軽口が、すらすらと出てくることに、自分でも驚く。
 「本気でした。でも、設楽さまの……」
 「私が本気じゃないかも、って思った? それも傷つくな」
 もう緋沙子はとまどわなかった。くちづけをやりなおす。
 唇を離したとき、緋沙子が服を脱ぐかと思って、緊張を少し緩める。けれど違った。喉に、甘噛み。続いて、うなじへ。服を脱がずにするよう、陛下にしつけられている、という話を思い出す。
 噛むときに邪魔になったのか、緋沙子が、
 「首輪、お好きですか?」
 「ひさちゃんは?」
 「……わかりません」
 その顔は、好きだと言っていた。
 「鎖だけ外して」
 鎖が外れて、肘をのばすと、腕が長くなったような気がした。緋沙子はその腕をとり、二の腕の内側を、甘噛みする。
 「――あの、黙っておられると、不安で……」
 陛下はこういうとき、絶えずお声をかけておられるのだろう。けれど私はかける言葉を思いつかず、とっさに、
 「ええとね、昔むかしあるところで、」
 陛下のお相手をするときに、よく使う手だった。でたらめな昔話をして、移動中などの退屈をお慰めする。いつもの行動パターンが、とっさに出てしまった。
 緋沙子は大笑いした。おかしくてたまらず、どうしても止められない、そういう笑いだった。
 笑いの発作がおさまると、緋沙子は、笑いすぎてこぼれた涙を拭きながら、
 「やっぱり、本気じゃないんでしょう、設楽さま」
 「ひかる、って呼んで」
 小さく、フン、と鼻を鳴らしたのが聞こえて、
 「嫌です」
 「自信がないから、もうしたくない?」
 「はい。こう見えても繊細なんです」
 いったい緋沙子をどこからどう見れば、繊細でないように見えるのだろう。
 話しながら緋沙子は、左右の足枷をつなぐ棒を外した。おかげで脚を閉じられるようになる。
 「――でも、」
 緋沙子の面に、欲情が戻ってくる。私の胸のあたりを見つめながら、
 「……設楽さまにご満足いただこうとは思いませんが、私のわがままに、もうしばらく、おつきあい――」
 「はやく」
 吸い込まれるように緋沙子は私の胸に顔を埋めた。唇で胸の先端を挟み、前歯でこする。
 刺激が背中に響く。くすぐったいような感覚で、好きになれそうにない。陛下はこういうのがお好きなのだろうか。
 緋沙子のつむじを見て、思い出す。緋沙子に授乳する陛下の図、それに――
 「吸って、――」
 陛下のあこがれが理解できたような気がした。
 「――赤ちゃんみたいに」
 緋沙子は顔を離して、ためらった。表情は見えない。
 「嫌?」
 意を決したように、しゃぶりつく。喉を鳴らす、こくこく、という音を立てて。空想のお乳が、たしかに緋沙子の身体に流れ込んでいるのだと、わかる。



 その晩、美園から電話があった。
 着信するなり開口一番、
 「ひかるさん、この屈辱は忘れないからね。一週間くらい」
 「そうですか。私はもう忘れました」
 「忘れた? なにを?」
 「手枷足枷に首輪にコルセット、こちらで預かっています」
 「もう悪者やめたから聞くけどさ、そんなに嫌だった? それなら謝りたいんだけど」
 「わかりません。忘れましたので」
 余裕綽々で応じていると、矢のように飛んできた。
 「でも私の匂いは覚えてるでしょう」
 鼻孔に、あの健康な汗の匂いが、よみがえる。
 「やめてください」
 思わず声が低くなる。
 「あれのせいで変な癖ついた? 責任は取るよ。欲しくなったら言って。おやすみ」
 電話が切れた。



 「私ねー、もうじき風邪ひくかも」
 帰りの車中で、陛下がおっしゃった。
 「なにかお身体に障りがございますか?」
 月曜日は、国王の一週間のなかで一番辛い。月曜演説だけでも移動や準備で負担が大きいうえに、演説地の地方党組織の幹部と会うことが多い。これは、国王だからといってちやほやしてくれるような相手ではない。特に今日の相手は、名うての割譲派だった。
 「それはないんだけどー。予感っていうか、予想っていうか、予定っていうか」
 つまり、仮病でずる休みをしたい、という意味だ。私は微笑んで、
 「かしこまりました。ご不例は明日でしょうか?」
 「たぶん、あさって」
 その『たぶん』が気になった。運転手に聞こえないよう声をひそめて、
 「月のものでしょうか?」
 「なにそれ?」
 「つまり、生理でしょうか?」
 「……えいっ」
 陛下は握り拳で、私の眉間をごつんとなさった。かなり本気の一撃だった。涙が出てきて、ハンカチをあてる。
 「明日はひさちゃんがお休みでしょー?」
 「恐れながら申し上げます。私をお叱りくださるのは嬉しいのですが、罰はもう少し手加減くださいませ」
 「ひかるちゃん、目が恐いよ? いけないなー、もっとしてあげる」
 私は罰を覚悟して顎を引いた。けれど陛下は、
 「うそうそ。いたいのいたいの、とんでけー」
と、おまじないをかけてくださった。
 「ありがとうございます」
 私が幸せに包まれていると、
 「……あ、生理って、そっかー。ごめんね」
 なにごとかを納得なさったらしく、うなずかれた。私はわけがわからず、
 「なんのことでしょう?」
 「え? ちがうんだ? なーんだ」
 私がとまどっていると、陛下は私の耳に囁いてくださった。
 「私のおまんこなめるつもりできいたのかなー、って」
 恥ずかしいというより、どうしていいかわからなかった。
 「……恐縮です」
 「苦しゅうないよー」
 陛下の笑顔につられて、私も笑う。



 水曜日、陛下は本当にお風邪を召された。
 熱や咳はそれほどでもないものの、お声が出ない。まったく出ないのではなく、出すと痛むとのこと。昼食をご一緒した際も、仕草や表情ばかりで、お声はほとんど聞かれなかった。楽器の奏でるような鮮やかなお声をなによりも誇りとなさる陛下にとっては、辛い病状にちがいない。
 それでも陛下は、この休日を有意義に過ごされているようだった。昼食のときに当番のメイドから聞いた話では、TVゲーム、アニメ、読書と、趣味に熱中しておられるとのこと。
 私は、執務室で書類仕事をしていた。今日の課題は、攻撃のシナリオだ。警護の隙を突くシナリオを書き、その成功の可能性を評価することで、警護の改善に役立てる。
 午後3時、おやつをご一緒するために、お部屋に伺う。
 陛下が公邸で昼食をとられるときには、お側仕えの者は全員ご一緒する。だから陛下のお声がなくても、賑やかに過ごせる。けれど、おやつの時間には、ご一緒するのは私だけだ。当番のメイドはついているものの、仕事モードで、雑談にも加わらない。
 陛下はお布団の上に座っておられる。ときどき私がしゃべり、陛下は仕草と表情で応えてくださる。あとは、静かにお菓子を食べ、お茶を飲む。不思議な気分だった。
 「では、下がらせていただきます」
 私が腰を上げると、
 「たいくつ」
と、陛下がひとこと、おっしゃった。
 「私でよろしければ、無聊をお慰めします。昔話でもいたしましょうか」
 この昔話というのは、私が口からでまかせに作るものだ。とりあえず『昔むかしあるところに』と言ってから、話を考える。
 陛下は首を左右になさり、
 「ひかるちゃんも、たいくつして」
 私は微笑んだ。
 「ここにいるだけで、よろしいのですか? では、喜んで」
 陛下はお布団に横になられた。私はその側に座っている。当番のメイドが、おやつの皿などを持って下がり、二人きりになった。
 眠気を覚えられたのか、陛下のまぶたが下がる。私はそのお顔を見つめていた。目を閉じたお顔をこんなにじっくりと拝見したのは、初めてだった。見慣れたお顔は、少し様子が変わるだけで、見ていて飽きない。
 ふと、まぶたが開く。
 陛下と目が合う。私は微笑み、視線をわずかに外した。
 すぐにまた、まぶたが下がる。私はまたお顔を見つめる。
 陛下のお顔は骨格からして美しいが、肌のお美しさときたら、基礎化粧品の広告に出られそうなほどだ。美容担当の働きがいいのだろう。今度、遠野さんに会ったら、褒めてあげなくては。
 まぶたが開く。
 さきほどと同じように、私は微笑んで視線を外す。すぐにまぶたが下がり、私はまたお顔を見つめる。
 陛下のお顔は美しく整っておられるものの、完璧な均整ではない。丸顔で品がない、という悪口は、当たっていなくもない。けれど、もし完璧に整っていて、品のある面長の顔だったら、それはただの別人だ。私が自分の顔を変えたいとは思わないように、陛下にも違うお顔であってほしいとは思わない。
 まぶたが開く。
 「たいくつして、ないでしょ」
 「はい。申し訳ございません」
 「あっち見てて」
 陛下は障子のほうを指で示された。私は仰せのとおり、障子のほうを向いた。
 もう見るべきものはなく、思いをかきたてられることもないのに、私はわけもなく、わくわくする。わくわくしている自分がおかしくて、それがまた楽しい。
 陛下の息の音が聞こえる。眠っているように穏やかな。
 時間が止まっているような時間だった。この時間は終わることなく、永久にこのまま続くような。
 お布団から衣擦れの音がして、陛下はおっしゃった。
 「て」
 見ると、陛下の御手が、お布団からはみ出していた。手のひらを上にして、誘うように開いている。
 私は、自分の左手を重ねた。御手はそれをつかむと、布団の中にひっこんだ。
 指をからめるように、互いの手を握りあう。
 「……これでは、退屈などできません」
 「もういいの」
 時間の感覚が遠のく。
 いつのまにか陛下は眠りについておられた。規則正しい息の音が、ますます時間の感覚を遠ざける。
 
 静かに襖が滑り、緋沙子が現れた。時計を見ると、確かに4時だった。緋沙子がくる時間だ。
 私は口に指をあてて、声を出さないようにと伝えた。緋沙子はうなずき、無言のまま忍び足で私のそばにきて、座った。
 私の左手が、陛下のお布団の中にあるのを、いぶかしく思ったらしい。指でさして、目顔で尋ねる。説明のしようもなく、私は右手を差し出した。
 その右手を、緋沙子は、両手で握りしめた。
 そのとき私は目を丸くしていたと思う。緋沙子は私の反応を窺うように、上目づかいに私を見ていた。
 驚きが収まったころ、私の手の指先を、口に含んだ。舌で、ちろりちろりとなめる。前歯で、甘噛みする。
 私は手をひっこめた。
 緋沙子は恨みがましそうな目で私の顔を見た。すぐに立ち上がり、また忍び足で離れてゆく。
 緋沙子が出ていって、初めて気がつく。
 まずいことになった。



 私は仕事を終えてすぐ、緋沙子の携帯にメールを出した。仕事の帰りに、うちに寄ってほしい、と。
 玄関に現れた緋沙子は、以前と変わりなく見えた。無愛想で、どこか寂しげな。
 居間に通して、お茶を出す。陛下のご様子のことを話す。なにも以前と変わらない。
 ティーカップのことから、食器の話になり、緋沙子は言った。
 「今度、うちに遊びにきてください。食器の通販カタログとか集めておきますから」
 「まだ買ってない食器があるの? なに?」
 「いえ、買ってないわけじゃないんですけど、……そのへんで適当に買ったのだから、恥ずかしくて」
 緋沙子の頬が赤くなっているのに気づく。私はわざと意地悪を言った。
 「わかった。通販でよかったら、私が買ってあげる。もらってくれる?」
 「あの……」
 うろたえる緋沙子は、目を伏せて、身体を小さく左右に揺らしている。けれどすぐに、身体を揺らすのをやめて、私をまっすぐに見つめた。
 「買ってくださるのでしたら、嬉しいです。でも私は、設楽さまと一緒にいたいんです」
 「今日、うちに来てもらったのも、その話がしたくて、かな」
 この展開を予想していたのだろう、緋沙子はすかさず、
 「私は設楽さまと一緒にいたいんです。陸子さまだって、わかってくださいます。設楽さまさえよろしければ、陸子さまになにもかも申し上げます」
 「まだ申し上げてないの。どうして?」
 「それは、設楽さまにもかかわることですし、それに女中頭の件もありますから、その、デリケートな問題です。設楽さまにご相談せずには申し上げられません」
 「デリケート、ね。わかってるじゃない。陛下のお側で、あんなことしたわりには」
 私は右手を広げてみせた。
 「あれは――あれは、陸子さまが、私にとりついてるみたいに――
 ……前に、お話ししたと思います。陸子さまに、身体の一部を乗っ取られてるみたいな気がする、って。それなんです。
 その乗っ取ってる陸子さまが、手を握ってるのを見たら、気持ちいいんだってわかって、それで、……」
 「私と一緒にいたいのも、陸子さまのせい?」
 「――よくわかりません。でも、もうじき、わかるようになると思います」
 「なら、わかるまで、胸にしまっといて。人のせいにするのは、よくないよ」
 「帰ります」
 緋沙子は即座に席を立ち、出てゆこうとした。
 私が立ち上がると、気配を感じたのだろう、足を止める。その背中を、後ろから、抱きしめる。
 「私のせいにも、しないでね」
 「はい」
 「陛下には私から申し上げる。でも、もし陛下がお尋ねなさったら、事実を申し上げて」
 「女中頭のことはどうしますか」
 「それも事実を」
 どうしてあんな場面ができあがったのか、私は話していないし、緋沙子も尋ねていない。
 腕を解くと、緋沙子は向き直り、ぺこりと頭を下げた。
 「お邪魔しました」
 居間の窓から、夜道をゆく緋沙子を見送る。その歩く姿を見ながら、思う。
 彼女はいつも背筋をまっすぐにして、ぴんと胸を張っている。それは、孤独だからだ。背中を丸めると、孤独に押し潰されてしまう。
 私は少し猫背だ。お体の小さい陛下にあわせるために、屈むことが多いせいでもある。けれど、きっと一番の理由は、私が孤独ではないからだ。家族や友人に、それになにより、仕事に恵まれている。
 そういえば陛下も、いつも胸を張っておられる。
 家族はともかく友人には恵まれたかたのように思えるし、国王の仕事には情熱を傾けておられる。僭越ながら私も精一杯お仕えしている。けれど陛下は、それだけでは埋められない何かを、抱えていらっしゃるようにようにも思える。
 国王という重責が、その何かなのかもしれない。けれど。