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 お見舞いにきた理事たちを適当にあしらって追い返すと、陛下は気持ちよさそうに背伸びをなさり、さらにくるりと一回転なさった。
 「遊ぼ!」
 陛下はすっかり快復された。熱も引き、喉の調子もいつもどおりとのこと。とはいえ、昨日の午後のうちに、今日のご予定はあらかたキャンセルされている。夜にチャリティコンサートへのご出席があるだけだ。
 庭にお出でになり、草木や花をつぶさにご覧になってゆく。陛下は、きれいに整えられた草木よりも、不ぞろいなものや、ぽつんと生えている雑草のようなものを楽しまれる。以前、植え込みの中にひょっこり生えていた色鮮やかな茸を見つけたときは、ずいぶんご執心なさっていた。
 庭だけでは物足りないと、公邸のそばにあるロシア陸軍基地へと足を向けられる。途中から、基地隊司令官のリュビーモフ大佐が散歩に合流する。
 陛下、私、警護部職員2人、道案内役の下士官、リュビーモフ大佐、その通訳、これといって用事のなさそうな将校が2人。これだけの人数が連れ立ってぞろぞろと歩けば、人目につくことおびただしい。陛下に気づいた兵士たちがみな、飛び跳ねるようにして手を振ってくれる。
 草木は目にうるわしく、土は心地よく歩ける。けれど建物は、あまり気持ちのいい眺めではない。この基地隊も、在千ロシア軍の常で、定員を半分以下に割り込んでいる。人の住まなくなった古い兵舎や、使われなくなった格納庫が、朽ちるままにされている。風情があるともいえるが、千葉の独立を支える身にとっては、心もとない。
 散歩から戻ると、ちょうど昼食どきだった。メイドたちと一緒の食事はただでさえ賑やかで、さらに今日の陛下は、まるで昨日のぶんを取り返そうかという勢いではしゃいでおられた。
 昼食がすんで、執務室に下がろうとしたとき、
 「ひかるちゃん、こっちー」
と、陛下がお招きくださり、お部屋にご一緒した。
 お部屋に入るまぎわに、陛下はおっしゃった。
 「岩崎さーん、当番が終わるまで女中控室で待機」
 当番のメイドは、お部屋の隣に控えて、陛下のご用をうかがう。今日の午後からの当番が、岩崎さんだ。
 女中控室は離れにある。当番のメイドを女中控室にやれば、陛下のお声を聞く者はいない。つまり、陛下は私と二人きりになる。
 私は身が引き締まるのを感じた。



 「ひかるちゃん、お布団敷いて」
 緊張していたせいか、一瞬、反応が遅れた。陛下は少し不安そうになさり、
 「――露骨だった? でも、途中で出すのもつまんないでしょ?」
 私は仰せの通りにした。
 枕を布団の上に置いたときに、和室と布団の組み合わせから、古風な新婚旅行を連想して、
 「枕が二つあると、それらしいのですが」
 「あ、それ、いい! 岩崎さんに出してもらって」
 私は携帯電話で岩崎さんに連絡した。枕はすぐに届き、布団の上に二つ並んだ。
 「あとは、夜で、お風呂あがりで、浴衣かー。
 夜は、どうしようもないよね。
 お風呂あがりだと、ひかるちゃんが盛り上がらないから、これもしょうがないか」
 「私はお風呂あがりでもいっこうに――」
 「せっかくお散歩して、汗かいたんだよ?」
 陛下はお召し物の袖をつまんで示された。こんな淡い匂いが届くほど近くはないのに、私の鼻は、陛下のお身体の匂いをかぎとっていた。私は顔を赤らめて、そむけてしまう。
 「あーっ、ノリ悪ーい。
 ……って、私もだね。もういいや。寝る」
 陛下はお布団に入ってしまわれた。私は笑って、
 「おやすみなさいませ」
 「おやすみー」
 陛下は、お布団の左側を空けるように、右側に寄っておられる。私はジャケットとネクタイだけ脱いで、お布団に身を滑りこませた。
 陛下の指先が、私の指に触れる。
 握るのは、陛下のご安眠を妨げることになる。まさか本当に眠っておられるのではないだろうが、そういう設定になっている。握るかわりに、指が離れないように、触れつづけているように、注意する。
 ベルトや防刃防弾チョッキをつけたままで布団に入るのは、どうも落ち着かない。陛下も、私ほどの重装備ではないとはいえ、落ち着かないのは同じはずだ。
 「そのお召し物のままでは、お身体が休まりません。脱がせてさしあげます」
 「おねがーい」
 そうおっしゃったものの、陛下はお身体を起こしたりはなさらない。このまま脱がせるように、との思し召しだろう。私は掛け布団をはいで、スカートのファスナーから外していった。
 何度もうつぶせと仰向けを入れ替え、腰や背中を浮かせていただき、次は下着というところまでたどりついた。その先へゆく前に、私は手を休めて、お召し物を畳む。
 そこへ陛下が、
 「ひかるちゃんは、そっちのほうが好きなんだよねー?」
 そっちというのは――お召し物のことだとすぐに悟る。
 「私は、」
 「むきにならないの。笑顔。これ、命令ね」
 私はとっさに笑顔を作った。
 「はい」
 「わかった? ほんと? じゃあね、命令。
 私の服のほうが、私よりも好きなんだって、認めなさい」
 笑顔を崩さないようにしながら私は、
 「お言葉ですが、」
 「め・い・れ・い。ひかるちゃんはー、私のいうことをー、きくの」
 「……かしこまりました。
 私は、陸子さまよりも、陸子さまが召されたあとの衣服のほうが、好きです。認めます」
 「私の服が、どんな風に好きなの? いつもいっしょにいたい? 手をつないでほしい?」
 それで陛下のお考えがわかってきた。
 「いいえ。ただ匂いをかいで――」
 この癖が陛下にばれたときに、仰せつかった。匂いをかぐのを、『ちゃんと楽しむこと。「自分でもわけがわからない」、じゃなくて』。宿題を調べられている小学生のような気分だった。
 「――気持ちを満たしたいだけです」
 「それって、布団のなかでもできるよねー?」
 逆らう理由もない。
 自分の服を脱ぎ、シャツの下の防刃防弾チョッキも脱ぐ。
 脱いだとき、陛下の視線を感じて目を上げると、まさに私を見つめておられた。恥ずかしくて、腰に手を回してしまう。けれど陛下が目をそらしてくださる様子はない。私はブラジャーに手をかけた。すると、
 「下着は脱がないで。それと、私のシャツブラウス、持ってきて」
 そうして私は布団に戻った。
 すべきことはわかっていた。お互いの息がかかる距離で、陛下と向き合いながら、
 「お願い申し上げます。陸子さまのお召し物の、ぬくもりと残り香を楽しむことを、どうかお許しください」
 本当はもう楽しんでいた。お布団には、陛下の匂いがしみついている。
 「いいよー」
 お召し物を鼻に近づける。
 落ち着くと同時に、高揚する。きっと私はいま妙な顔をしている。目を細めて、微笑んでいるような、眠たそうな。
 その最中に、陛下は私の手から、お召し物を奪い取ってしまわれた。奪い取って、ご自分の胸に押しつけながら、
 「ほら、もっと、くんくんして」
 一瞬そうしかけて、やめて、そのかわりに、まず陛下の唇に指で触れ、次に、唇で触れた。
 「こっちのほうが好きなんでしょ?」
と、お召し物を示される。
 「浮気でございます」
 私は素早く自分の下着を脱ぐ。脱いだものを枕元に置こうとした手を、陛下はおとりになり、
 「ひかるちゃんの、くんくんしちゃうよ」
 そうおっしゃって、そうなさった。
 私は理不尽なくらい昂ぶった。お身体の上におおいかぶさり、自分の肌をこすりつける。気のきかないやりかただとはわかっていても、どうしても、こうしたかった。
 「私の服にしてるみたいに、して」
 大いに不満だったが、陛下の仰せには否応もない。
 「……かしこまりました」
 「胸とか、いいんじゃないかな?」
 陛下は華やかな下着を好んでお召しになる。その下着に包まれた胸に、鼻を近寄せて、匂いをかぐ。
 匂いをかぐ行為には、言葉も接触もない。お互いの表情も見えない。陛下はこんなことを楽しまれるのだろうか。お顔をうかがうと、目が合う。
 「楽しくない?」
 「陸子さまが退屈なさっているのではと、気にかかりました。これといって動きのないものですので」
 「私の服にするときも、そんなこと気にしてる? 服は退屈しないよ?
 私は、ひかるちゃんがひとりで勝手にさかってるのが、好きなの。ええとね、だから、私でオナニーしてほしいの」
 陛下はいつも、言いにくいことを、ためらいなくおっしゃる。私はあまりそういうことを言えないたちなので、どう申し上げたものか困ってしまう。
 「陸子さまのお召し物で、そのような真似をしたことはございません」
 「おまんこ使うばっかりが能じゃないよ。ひかるちゃんが匂いをかぐっていうのは、鼻で気持ちよくなるんでしょ?」
 それで私は、陛下のお身体をてっぺんからつま先まで、匂いをかいでゆくことにした。胸から始まって、わきの下、首、口、耳と進んでいったが、髪まできて、やめた。
 「申し訳ございません。鼻が疲れて、匂いがよくわからなくなってきました」
 鼻そのものより、精神的に疲れた。匂いをかぐのは疲れることだと、初めて知った。
 「それじゃ、ひとやすみしよ」
 けれど私は休まず、陛下の下着を脱がせてさしあげた。
 補正力のある下着なしで横になると、陛下のあのとても女らしいお胸も、存在感がない。それが寂しくて、胸のふくらみを作るようにまさぐってみると、その手ごたえに驚いた。もしこれが胸なら、私のは胸ではない。
 「ひかるちゃんに揉まれたら、もっと大きくなっちゃうよ?」
 陛下がご自分の胸をどのように思っておられるのか、私は知らない。誇りとなさっているのか、厄介に感じておられるのか。その両方だろう、と見当をつけた。
 「大きくなったぶんは、私が支えてさしあげます」
 その胸に唇で触れ、歯を立てて、甘く噛む。緋沙子がしてくれたように。
 
 事の終わりまで、緋沙子の名前はあがらなかった。



 ティッシュの箱の中身には、ちょうどいい量、というのがある。
 使い始めの満杯状態は、詰まっていて出しにくい。使い切る寸前は、引き出されたティッシュが箱の中に落ちてしまいやすく、これもよくない。
 陛下のお部屋にあるティッシュの箱はいつでも、ちょどいい量になっている。魔法ではない。メイドが毎日チェックして、ちょうどいい量を保っている。使い始めと使い終わりの分は、捨てているのだろうか。今度、誰かに訊ねてみよう。
 ――と、陛下はお話しくださり、
 「ひかるちゃんは、どう思う?」
 「余ったティッシュは、ほかの箱に詰め替えていると思います。無駄遣いが好きな人は、あまりおりませんので」
 あとで聞いた話によれば、高級なティッシュの箱は中身を詰め込んでいないので、最初から出しやすい。だから、使い始めのティッシュが余ることはない。使い終わりの分は、詰め替えたりはせずに箱ごと国王官房などに回される、という。
 岩崎さんに電話して、お風呂を沸かしてもらう。離れにあるお風呂は、天井がガラス張りになっていて、空が見えるという。あいにく私は見たことがない。お側仕えの者は、職員用のシャワーが別にあるので、それを使う。
 私が服を着ても、陛下はなにもお召しにならない。
 「散歩のとき汗かいたから、もう着たくない」
とのこと。
 岩崎さんが来て、お風呂の用意ができたことを告げる。岩崎さんに導かれて、陛下は一糸まとわぬお姿で、離れへとゆかれる。私はそのあとについてゆく。脱衣所の前には、美容副担当の宮田さんが待っていた。
 「またあとでね」
 私は職員用のシャワーを使う。
 陛下のお部屋に戻って、お帰りを待つ。緋沙子のことを申し上げるために。
 ほどなくして、
 「ただいまー」
 「お帰りなさいませ」
 私の表情を見ただけで、陛下は何事かをお察しくださったようだった。緩んでいたお顔が、鋭くなる。
 「公邸内のことで、お耳に入れたい件がございます」
 美園が持っていた写真のことから申し上げていった。緋沙子とのつきあい、美園への弱腰、そして日曜日の一部始終。陛下は、脇息に両腕を置いて身を乗り出しながら、熱心にお耳を傾けてくださった。
 話が終わると、陛下は二、三度、小首を傾げて、おっしゃった。
 「詳しく聞きたいところがいっぱいあるけど、お楽しみはあとにとっておくとして。
 橋本さんの処分は、どうするのがいいと思う?」
 「公にする必要はないと思います。そのかわり、陛下から一言いただければと」
 陛下はかすかに笑い声を漏らされ、
 「ひかるちゃん、いんらーん。
 ――って、お楽しみはとっておかなきゃね。あとでたっぷり、とっちめてあげるからねー。
 ひさちゃんは、どうする?」
 「友達づきあいは続けますが、もう身体の関係にはなりません。平石さんは、私の一番大切な人ではありませんので」
 「ふーん。ひさちゃん、首」



 この反応は予想していた。
 「恐れながら申し上げます。平石さんは思いを抱いていただけです。具体的な行動に誘ったのは私です。どうか私をお叱りください」
 「ひさちゃんが悪いなんて言ってないよ? あ、もしかして、わかってないんだ? いまから、お楽しみ、しちゃおうかなー。
 でも、もうすぐひさちゃんが来ちゃうのか」
 時計は4時近くを指している。
 「しょうがないなー。ひかるちゃんがわかるまでは、首にしないよ」
 「恐れながら――」
と私が言いかけると、
 「ひかるちゃんて、3人でするのとか好き? 私は嫌いだからパスね」
 お言葉の真意をはかりかねていると、
 「橋本さんて、きっとそういうの好きでしょう。あの人、根性ないからねー。私と一対一になるのが嫌なの。ま、かわいいけどね。なんか言ってきても、泣かせといて。
 そういえば橋本さんって脱いだら――って、お楽しみはあとあと」
 私はだんだんわかってきた。
 「……いなくなる人のことを気にしても仕方ない、橋本さんのことを考えなさい、と?」
 「まーね」
 そのとき稲妻のようにひとつの考えが降りてきた。
 「恐れながら申し上げます。
 陸子さまは捨て子にあらせられるので、平石さんを捨てることに執着しておられるのではないでしょうか。ご自分を捨てた生みのお母様の立場に、ご自分を置かれることで――」
 終わりまで言わせず、陛下は私の頬を平手打ちなさった。



 平手打ちは初めてだった。けれど陛下の暴力は初めてではない。こづく程度のことはよくなさる。痣になるほどきつく蹴られたこともある。
 思えば陛下は、私などよりもずっと、暴力になじんでおられる。私はいままで、陛下のほかの誰にも、ぶたれたことがない。それどころか、実物の平手打ちを見たことさえない。だから私は、誰かを黙らせたいときに、平手打ちしようと思いつくことはないだろう。
 陛下はいつどこで暴力になじまれたのか。あのお優しそうなご両親が実はそうなのだろうか。けれど、子供の家のほうが、ありそうなことだ。捨て子であられた陛下に与えられた運命。それはいわば、生みのお母様が陛下に与えた、唯一のもの。
 私は落ち着いていると思う。お顔をうかがったかぎりでは、陛下も平静であられる。ただ、どうにも、気まずかった。
 こんなとき陛下はいつも素早くなさる。私のほうが先に気をきかせるべきなのに、いつも陛下は先んじてしまわれる。
 「ごめんね。痛かったよね? ――痛くしたからね」
 「出過ぎたことを申し上げました。お赦しください」
 「でも、ひかるちゃんだって、そうだよね? 痛くするつもりで、言ったんだよね?
 ひかるちゃんの言ったことって、そういうことだよ。
 殴られたら痛いよね。正義とか関係なくて痛いよね。ひかるちゃんの言ったことも、そうだよ。正しいとか間違ってるとか関係なくて痛いの」
 陛下の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 「お赦しください」
 下を向いている私の顔を、陛下は、手のひらで包んで、正面を向かせられた。
 「ひかるちゃんなら、痛くしても、いいよ。
 ケンカ、したことないよね。しよっか。
 ――でも、これも、あとのお楽しみだね」
と、陛下は時計のほうをご覧になった。
 「私がこれ以上ここにおりますと、きりがなさそうです。いまのうちに下がりましょうか」
 「うん、そうして。またあとでね」
 今日は夕方から外出がある。
 私はいったん立ちあがってから、両膝をつき、陛下の御手をとって、申し上げた。
 「お慕い申し上げております、陸子さま」
 「ひかるちゃん、大好きだよ」
 目を見交わす。陛下の視線は、いつになく、弱く陰っているように思えた。



 陛下の御召車を中心として、前後に1台ずつ、3台の車列。これに加えて、交通量の多い道路では、警察の車両が少し離れて前を走る。
 要人の陸路輸送は目立つので、お国柄の話題になりやすい。要人車両が信号待ちに陥らないよう、信号を操作する国がある。都市部の幹線道路に、要人車両専用車線を設ける国がある。逆方向の極端には、国王が毎日のように路面電車に乗る国がある。
 たいていの場合、安全は決定的な要素ではない。権威づけや利便性のほうが先に立つ。多少の能力のあるテロ組織が、陸路輸送中の暗殺をたくらむなら、現場で食い止められる可能性はほとんどない。諜報活動で安全が確保されていると信じるからこそ、陸路輸送ができる。
 この諜報活動には、護衛官はまったく関われない。護衛官というと、国王警護のうえで最も重要なポストのように思われている。実際には、陛下をお守りする盾の厚さが100ミリとしたら、私のぶんはアルミ箔くらいの厚さしかない。陛下の安全のほとんどは、財団保安部と内務省の手に委ねられている。
 けれどこのアルミ箔は、盾の一番内側にあって、陛下のお身体に触れている。
 陛下を公邸へとお運びする車列は、公邸の外側の検問線を素通りして、内側の線で停止する。前後を囲んでいた2台はそのまま走り去り、別の11台がやって来て、残りわずかな道のりを先導する。
 内外2つの検問線を通るたび、警官の敬礼に答礼する。交代車両の運転手と職員に、仕草で挨拶する。公邸に着くと、警護部職員、運転手、私の順で車から降りる。いままで何百回となく繰り返してきた手順。
 私が車のドアを開ける。陛下がおみ足を地面に降ろし、私の手をお取りになる。この手はすぐに離れてしまう。もともと飾りのようなもので、本当にお身体の支えとしてくださったことはない。
 陛下は私に向きあい、今日一日の労をねぎらってくださる。
 「今日は、すっごーく、楽しかったよ! ひかるちゃんのおかげだね。すっごーく、ありがとう、だね。
 あしたは、私がひかるちゃんを楽しくしてあげたいなー。ひかるちゃんみたいに上手にはできないけど、みててね」
 「そのお言葉だけでもう、私などの身には余るほど、楽しゅうございます」
 そして、いつもどおり私は一歩下がり、一礼しようとした。けれど今日の陛下は、私が下がると、一歩前に出てこられた。
 とまどう私に向かって、陛下は背伸びなさる。内緒話を耳打ちしてくださるときの仕草だ。私は反射的にかがんだ。
 いつのまにか陛下の腕が背中に回り、唇が重なっていた。
 「今度からは、ひかるちゃんから、してね。おやすみ」
 「――おやすみなさいませ」
 陛下が一歩下がってくださり、私は一礼した。
 続いて陛下は、警護部職員たちと運転手を軽くねぎらってから、邸内にお入りになった。遅番のメイドたち3人が玄関に並び、「お帰りなさいませ、陸子さま」と唱和してお迎えする。
 私の仕事はここで終わりだ。時計を見ると、10時近い。お風呂とベッドが頭に浮かぶ。
 警護部職員と運転手は車でいったん離れにゆき、そこから家に帰るが、私だけはここから官舎まで歩いて帰る。「お疲れ様でした」と言い交わして、ゆこうとすると、警護部職員のひとりに言われた。
 「式には呼んでくださいね」
 「立ち見でよかったら。そのかわり祭事手当が出ますよ」
 つまり、仕事だ。笑い声があがる。
 夜道をぶらぶらと歩きながら、さっき冗談めかして言われたこと――結婚について考える。
 一緒に過ごす時間でいえば、護衛官と国王はきわめて近い関係にある。警護中はほぼ常に2メートル以内にいる。話し相手を務めることも多く、私の場合、平均で一日2時間くらいはしゃべっている。
 護衛官の責任は重い。ある海外の報道雑誌が、千葉王位の歴史をもとに、国王の身の危険を計算したことがある。それによれば、国王が即位の8年後まで生きている確率は、半分以下だ。
 関係の公的性格も婚姻以上といえる。護衛官の就任式は、国王の即位式の前座として行われ、TVで流れる。私の就任式の視聴率は40%を超えた。
 結婚は余計なことのように思える。
 私は、王妃よりも護衛官でありたい。婚姻という結びつきが、護衛官の職よりも重いとは、どうしても思えない。
 そんなことを考えながら、官舎の前に着いたときだった。
 「設楽さま」
 門の横に、緋沙子がいた。



 そのたたずまいが、すべてを物語っていた。緊張と葛藤、絶望と意思、そんな心の動きが、人のかたちになって立っているのが、いまの緋沙子だ。
 立っている――それさえも不思議なくらいだった。姿勢や仕草が、ひどくアンバランスで、ちょっと風が吹いただけでも倒れてしまいそうだ。
 自分のただならぬ雰囲気に、緋沙子は気づいていないようだった。
 「こんな夜分に押しかけて――」
 私を待つあいだ、使い慣れない言葉を、何度も頭の中でおさらいしたのだろう。もごもごと早口に詫び口上を述べ立てようとした。私はそれを遮って、
 「ひさちゃんは、どうしたいの?」
 緋沙子は大きく息を吸いこんだ。その音を聞くだけで、痛ましいほどの緊張が伝わってくる。
 「――今日は、設楽さまを誘惑しにきました」
 問いと微妙に噛みあわない返事。泣き顔と区別がつかないようなぎこちない笑顔。
 私は、どうしようもなくて、微笑んだ。いまの緋沙子が誰かを口説こうとするのは、水を燃やそうとするようなものだ。馬鹿げている。けれど。
 「設楽さまは本当は、陸子さまの護衛官でいれば満足なんです。恋のお相手なんかよりも、護衛官のほうが責任重大で、設楽さまはそういうのが好きなんです」
 立っているのがやっとのはずなのに、緋沙子は戦いを始めた。陛下のお側に残るための戦いを。急所を見抜く目は曇っていない。けれど。
 つい数時間前に、『もう身体の関係にはなりません』と陛下にお約束申し上げた。けれど。
 私は緋沙子を抱きしめた。
 「ひさちゃん、泣きたそうな顔してる」
 「あ――」
 無防備な声がひとつ漏れて、涙の堰が破れた。



 涙は、いったん流れてしまえば、それほど長くは続かない。涙をこらえている時間に比べれば、ほんの一瞬だ。
 居間に通してソファに座らせたころには、緋沙子はもうほとんど泣きやんでいた。さっきまでの緊張はすっかり解けて、いまは、昼寝中の飼い犬のように、静かに息をしている。
 私はその隣に座って、手を握っている。
 初めは、緋沙子を抱こうと覚悟していた。私にできることはそれくらいしかない。けれど、緋沙子がすぐに落ち着いたのを見て、覚悟を取り消した。欲しいと思わないときに抱くのは、緋沙子のプライドを傷つけるだろう。
 沈黙を破ったのは緋沙子だった。低い声で、ぽつりと、
 「すごい自己嫌悪です」
 「ひさちゃんは、なにか悪いことしたの?」
 「ウソ泣きしておねだりするなんて、カッコ悪すぎます」
 「ウソ泣きなんて、いつしたの?」
 「さっきです」
 どうやら緋沙子は、さっきの涙を、ウソ泣きと言い張ることにしたらしい。
 「でも、おねだりは、するんでしょう?」
と私が意地悪を言うと、緋沙子は気色ばんで、
 「しません!」
 「そうだったね。ひさちゃんは私を口説きにきたんだっけ」
 緋沙子は口をへの字にして、目をそらした。そして、
 「はい。でも、調子が出ないから、もう帰ります」
 そう言って腰を浮かせた緋沙子に、
 「自信がないから、もうしたくない?」
 私はいつかのセリフを持ち出した。緋沙子はすぐに気づいて、頬を赤らめ、
 「――はい。こう見えても繊細なんです」
と、いつかと同じセリフで応じて、腰をソファに沈めた。
 私はいったんその場を離れてキッチンに行き、やかんを火にかけた。居間に戻って、遠くから声をかける。相手があまり近くにいると、話しづらいこともある。
 「さっきも訊いたけど、もう一回訊くよ。
 ひさちゃんは、どうしたいの?」
 「陸子さまにお仕えしていたいです」
 「私とは会えなくなってもいい?」



 言うまではわからなかった。
 言った瞬間に、わかった。
 私はなにか重大なことを言った。たとえ緋沙子がその重大さをわからなくても、わかっているのが私ひとりだけでも、それは重大なことだった。
 愛の大きさは比較することができない。それがわかっているのに、愛の大きさを比較させようとするのは、いったいどういうことなのか。
 緋沙子は最初、いぶかるように、わずかに目を細めて私の様子をうかがっていた。そしてすぐに、その表情が微笑みに変わる。
 「パパとママ、どっちが好き? ――ってことですか?」
 どうにも答えにくい質問だった。緋沙子は母親と死に別れ、父親から性的虐待を受けて、子供の家(孤児院)に送られた。そんな人の口から出る『パパとママ』には、冗談にならない重い響きがある。
 それで私はごまかした。
 「ひさちゃん、やっと笑った」
 言われると、緋沙子は笑顔をひっこめて、仏頂面になろうとした。
 「私を口説くつもりなら、笑ってるほうがいいんじゃない?」
 すると今度は、さっきの無防備な笑顔のかわりに、気取った笑顔を出してきた。
 「設楽さま、はぐらかしたって、わかります」
 私はなにか重大なことを言った。それは緋沙子にもわかったようだった。
 「私は、陛下に申し上げちゃった。ひさちゃんは、私の一番大切な人ではありません、って」
 「おかげで私はクビです」
 その口ぶりは、緋沙子の歩く姿を連想させた。背筋をまっすぐにして、ぴんと胸を張った姿。孤独に押し潰されないように、戦う人の姿。
 
 比較することのできない愛の大きさを、比較させようとするのは。『パパとママ、どっちが好き?』と子供に訊ねるのは。
 愛されなくても悲しまず、愛されても怯まない、その徴。
 つまり、愛していることの証。
 
 愛の大きさの大小を、口にのぼせるのは。『一番大切な人ではありません』と私が言ったのは。
 嘘をついている徴。
 誰かを愛していないことを、愛の小ささにすりかえて、言い訳しているか。
 あるいは。誰かを愛していることを、小さく見せかけて、ごまかそうとしているか。
 『一番大切な人ではありません』と私が言ったのは、『陛下を愛するように愛しています』という意味。
 
 「ごめん」
 緋沙子は微笑んだ。今度は、気取ってもいなければ、無防備でもない。弓がたわんでいるように、楽しい秘密を知っている人のように、なにかの力を秘めて輝いている。
 「ね、いま、調子が出てきました――」
 そのとき、火にかけていたやかんが鳴りだした。私はキッチンにゆき、紅茶をいれる。居間に戻り、さっきよりは少し離れて座って、
 「なんだっけ、調子が出てきたの?」
 「……もういいです」
 「ごめん」
 「私は謝りません」
 「そりゃ、ひさちゃんは悪いことしてないもの」
 「いいえ。設楽さまに辛い思いをさせてます。悪いことです。
 でも謝りません。
 これからも、設楽さまに辛い思いをさせるつもりです」
 ゆっくりと、なにかを確かめるように、緋沙子は言った。
 声は静かだったけれど、心はたかぶっているのだろう。頬には赤みがさし、目は潤んでいる。
 美しい。
 あまりに美しくて、私は目をつぶった。
 「――名前で呼んで。ひかる、って」
 「ひかるさま、――」
 緋沙子が身体を近づける気配がした。
 抱きしめられる、と思っていた。けれど緋沙子は私の手をとると、その甲に軽くくちづけた。
 目を開けると、緋沙子は私の手をとったまま、落ち着かなさそうにしていた。私の視線に気づくと、その手も離して、
 「……お茶は、まだしばらく時間がかかるんですね」
 「やっぱり今日は、調子が出ない?」
 「はい。泣き落としなんて、カッコ悪すぎて、できません」
 「それもそうか」
 「でも、手ぶらで帰るのも嫌ですから、これからずっと、『ひかるさま』ってお呼びします」
 そのあとは、以前と同じように、おしゃべりを楽しんだ。
 このあいだの食器の話の続きをした。この週末に、緋沙子の家を訪ねる約束をした。
 公邸の噂話をした。大沢さんは、お召し物にゴスロリを入れようと何度も企んでは、そのたびに陛下に跳ねつけられているとか。
 陛下のことを話した。
 『ひさちゃんはひかるちゃんが好きで、でもひかるちゃんは気がつかない、っていうのが理想だったんだけど』
 『ひさちゃんがいなくなって、落ち込んでるひかるちゃんが、見たいんだー』
 そんなことをおっしゃったという。
 今日は私の帰りが遅かったので、話せる時間はあまりなかった。緋沙子をバス停まで送ってゆき、バスが来るまで、ずっと話していた。
 「またね」
 「はい。土曜日、楽しみにしてますから」
 明後日にまた会うのに、私は、バスの窓に向かって手を振り、緋沙子も振り返した。
 自分の気持ちが、痛いほどわかる。私は緋沙子が好きだ。



 繰り返すこと。
 親に虐待されて育った人は、自分の子を虐待するようになりやすい、と言われる。陛下がなさっていることも、そのようなものかもしれない。
 ――そう考えて私は、自分の頬を、手で覆った。陛下に平手打ちされたことを思い出して。
 こうして物事は、よいことも悪いことも、繰り返すのかもしれない。それが文化とか、階級とか、民族になるのかもしれない。
 でも、同じことを繰り返すのではない。カール・マルクスいわく、『歴史は繰り返す。ただし、一度目は悲劇として、二度目は茶番として』。一度起こったのと同じことは、二度と起こらない。
 陛下がなさっていることも、陛下ご自身が受けた仕打ちと同じようでいて、実はまったく違う。
 生まれて間もないうちに捨てられた陛下は、自分が捨てられたことを体験なさっていない。陛下は、事が終わってしまったあとで育ち、物心がつき、自分の生い立ちを知り、そしておそらくは、捨てられるという体験を、空想なさった。
 その空想はどんな色をしていただろう。
 いまはごく現実的な陛下も、幼いころには、生みの母親のことを優しく美しく思い描かれたのだろうか。ご自分が捨てられたことも、その優しさゆえの悲劇として、薔薇色に空想なさったのだろうか。
 気持ちの沈んでいる日には、わざわざ憎むまでもないような下劣で愚鈍な女を、思い描かれたかもしれない。自分が捨てられたことも、ごくつまらない灰色の出来事だったと、自分自身に言い聞かせておられたかもしれない。
 よほど薔薇色の空想でも、いまの緋沙子の現実ほどきらびやかではない。
 母親を演じるのは、美しく賢い千葉国王。陸子陛下ほど豪華な母親を思いつくのは難しい。緋沙子を捨てるのは、けちな愚かさや運命のせいではなく、自分の欲望のため。その緋沙子も、哀れまれるだけの無力な赤ん坊ではなく、悲劇の主人公にふさわしい強さと気高さを備えている。
 そして、緋沙子が捨てられても、結局はそれほどひどいことにはならない。緋沙子には、赤ん坊とちがって、ひとりで生きていけるだけの力がある。陛下も金銭面では緋沙子を支えてくださるだろう。緋沙子は、赤ん坊とちがって、自分というものを持っている。それはこの悲劇のあとも、さほど傷つかずに残るだろう。
 陛下がどういう事情で捨てられることになったのか、私には知る由もない。けれど、どんな事情だったにせよ、これだけは間違いない――いまの緋沙子の現実のほうが、ずっといい。
 
 繰り返すこと。
 陛下は、生みの母親にされた仕打ちを、緋沙子に向かって繰り返している。けれど、繰り返しているのは同じことではない。それは一度目とは比較にならないくらい、美しく、鮮やかで、甘い。
 
 私はできればよい人間でありたい。けれど私は天使のようになりたいとは思わない。自分のだめなところをすべて切り捨てて、完璧な人間になりたいとは思わない。私は美しい姿でありたいから化粧をする。けれど自分の顔を、天使の顔と取り替えてしまいたいとは思わない。それと同じことだ。
 自分の顔を取り替えたくないように、陛下のお顔が天使のようであってほしいとも思わない。
 陛下のお顔と同じく、お心も天使のようではなく、緋沙子を捨てようとなさる。
 
 繰り返すこと。
 自分がされたことを人にしてしまうとき、一度目よりも、甘く美しくする。
 陛下のなさっていることは、悪い。けれどそこには、人間の素晴らしい力が発揮されている。天使ではなく、よい人間であるための力、悪いけれど、よいものが。
 
 もし陛下のなさることが本当に間違っていれば、私は必ずお止めする。私にはそれができる。陛下をお守りすることが私の役目なのだから、陛下ご自身の過ちからも、お守りする。
 緋沙子を捨てることのなかにある、悪いけれど、よいものが、私をそこまでゆかせない。陛下にとって悪いことだと、心の底から信じることができない。これでは、陛下をお止めできない。
 なら、心の底から信じることをしよう。
 信じること――私が緋沙子を守る。
 私が陛下のかわりになれるはずもないから、私なりのやりかたで、緋沙子を守る。そんなことができるのかどうかも知らない。けれど、決意することは、信じることだ。
 
 繰り返すこと。
 『私とは会えなくなってもいい?』
 それは一度目よりも甘く美しいだろうか。おそらく、きっと。
 けれど。