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 私は朝食を職員寮の食堂でとる。私に出される食事は、護衛官専用と銘打ってあり、食材は陛下のお食事と同じだという。調味料や食器で差がつくので、陛下のお食事と同じ味とはいかないが、それでも、自炊する気がなくなるほどおいしい。
 寮の住人は8人、勤務シフトは別々だ。誰かと食事の時間が重なることは少ない。今朝も私は食堂にひとりだった。
 食べ終わり、お茶を飲みながら一息ついていたとき、
 「みーっけ」
と、後ろから、腕を首に回された。
 「美園さん、おはようござ――ぐ」
 美園は回した腕を関節技に使い、私の首を締め上げる。
 「ひかるさん、おはよう。同伴出勤しようか」
 そう言って腕を外すと、今度は私の手をとった。そのまま食堂の出口へとひっぱってゆこうとしたので、
 「お膳を戻さないと――」
 「松本さーん、急ぐから、お膳ここに置いとくよ、ごめーん」
 厨房から「あいよ」という返事がくる。
 ひっぱられるままに職員寮を出ると、私は訊ねた。
 「いったいどうしたんですか?」
 すると美園は立て板に水の調子でまくしたてた。
 「悩んでんの。まあ聞いてよ。
 ひさちゃんがクビだっていうじゃない? 万歳よ。といっても私は大人だからさ、ひさちゃんのこと好きなひかるさんの前では、残念そうな顔してあげてもいいよ。でも、まだ一週間経ってないからね。このあいだの屈辱、まだ忘れてないから、今日は万歳で許してよ。
 このあいだの屈辱のことだけど、あれで私は負けたと思ったの。陸子さまはひさちゃんをネタにして徹底的にひっぱって遊ぶんだろうなって思ったし、それだとひさちゃんをクビにするわけないでしょう。こんなクソガキが陸子さまに大ヒットするなんて、って思いながら顔つきあわせて働くわけ。まったくこりゃ屈辱よ! それをたった一週間で忘れてあげるっていうんだから、私って大人だよね。
 ええと、なんだっけ? ああ、そうだ。
 ひさちゃんがクビになるわけない、でもクビになった。どういうこと?
 もしかしてひかるさん、ひさちゃんとセックスしてみたら合わなくて嫌になって、それでひさちゃんがネタにならなくなってクビ? だったら最高なんだけど、まさかそんなんじゃないよね。
 考えてもわかんないから、いったいなにが起こってんの? って聞きたいわけなんだけど、まだ答えないでね。
 もしかしてこれ、私が事情を知っちゃうと、ヤバいことなんじゃない?
 根拠はないんだけど、ただの勘なんだけどね、なんかこれ、もし私が知ったら、それが影響して悪いほうに転がっていくんじゃない? ひかるさんと陸子さまとひさちゃんと、三人しか知らなければ大丈夫、っていうか、このままひさちゃんがクビになっただけで終わるのに、もし私が知っちゃったら、私までクビになったりとか、陸子さまのご威光に傷がついたりとかしない?
 そのへんよーく考えてから、答えて。いったいなにが起こってんの?」
 これだけ全部を一息に言われて、私は頭がぐらぐらした。そのせいか私は関係ないことを思いついて、口にした。
 「美園さんは本当に、平石さんのことが嫌いなんですか?」
 「あの子が私のいうこと聞くんなら、かわいがってもいいよ。かわいいところがあるってのは認める。でも今のひさちゃんだと嫌い。『私には陸子さまがついてるんだよ、あんたなんかにへいこらするかよ、へへーん』って顔してんだからさ」
 「それだと私も大差ないと思いますが」
 「ちがうね。ひかるさんは陸子さまのこと本当に好きでしょう。ひさちゃんは、いろいろ混じってる。強いものに媚びるみたいなところもあるし、陸子さまに見放されたら生活に困るっていう現実的な問題もあるし。そういうのは子供だからしょうがないけど、私がむかつくのもしょうがないのよ」
 強いものに媚びる――権力崇拝。私は護衛官として、人々のそういう感情を嫌というほど見てきた。緋沙子にもそれがあるのだろうか。
 生活問題。緋沙子は、自分の恋だけでなく、生活もかけて戦っている。『パパとママ、どっちが好き? ――ってことですか?』。その言葉が、改めて重い。
 「……私の知っている平石さんと、美園さんの知っている平石さんは、少し違うようですね」
 「え、私、ひさちゃんの悪口とか吹き込んでる? 吹き込んでるねえ。ほら私、ひさちゃんのこと嫌いだから、言っちゃうわけよ。できれば私だって、ひかるさんの見てるような、きらきら輝いてるひさちゃんを見たいもんだけど。
 そうだ、きょう会ったら、『うちの子にならないか』って誘ってみようかな? すごいツンデレかましてくれるかも? いいなあ。やらないけどさ。ダンナに無断で養子は取れないわ」
 通用門の詰所の警官が、私に敬礼した。私はつかまれていた右手を振りほどいて答礼する。その右手を、またすぐにつかまれる。
 そのころようやく考えがまとまってきた。
 「今回のことは、悪いことばかりではないと思うんです」
 「あら大人発言」
 美園の皮肉にはとりあわず、私は続けた。
 「平石さんは誰かが守ってあげるべきです。その役目を引き受けるおつもりが陛下にないのなら、いっそ離れてしまったほうがいいでしょう。でなければ平石さんは、いつまでも期待しつづけて、裏切られつづけるだけです」
 私の手をつかんでいる指の温度が、急に下がった。
 「――ひかるさん、私はなーんにも聞かなかった。聞こえなかった。
 さっきの養子のことだけど、けっこう真剣に考えてるの。あのひさちゃんが私にデレデレしまくるって思ったら、こりゃ、おいしいわ。私はひさちゃんを独占したいわけじゃないから、ほかに好きな人がいたって別にいい、っていうかそのほうが楽だ。
 ひさちゃんだって、お父さんが欲しいんじゃない? うちのダンナも出来はよくないけど、ひさちゃんに手を出す度胸はないね。お父さんだけじゃなくて、弟もいるし、おじいちゃんもいるし……
 ……もうちょっと、優しくしとけば、よかったな」
 自分が言っていることの現実味のなさに、嫌気がさしたのだろう。最後はひとりごとだった。



 朝のブリーフィングは、準備体操に似ている。
 担当の官房職員が決まりきったことを淡々と説明して、今日のスケジュールを配る。たまに近接警護班のリーダーが発言して終わる。難しい問題が持ちあがることはめったにない。雰囲気もたるんでいる。けれど、ここで調子をつけておかないと、あとでミスが出やすい。
 今日のスケジュールは、午後3時以降が空白になっている。
 「陛下のご意向により、午後3時からご休息です。以上です」
 緋沙子とのお別れに時間を割こうというお考えだろう。私は胸をなでおろした。
 もし今日、陛下とお話しする時間がなければ、私の権限で作るしかなかった。護衛官がスケジュールを変更させれば、そのことは陛下のお耳にも入る。そうなれば、今日は朝からぎくしゃくとして、いつもどおりの日を演じることはできなくなったはずだ。
 今日は朝一番から外出だった。出発までのわずかなあいだを、近接警護班と無駄話をして過ごす。時間がくると、玄関前の車回しに移動し、陛下のお出ましを並んで待つ。玄関にお姿が見えた瞬間、一日の仕事が始まる。
 「おはよー、ひかるちゃん。今日もカッコよくてきれいだよ」
 「おはようございます。私ごときがきれいなら、陛下は神々しくあらせられます」
 陛下の車中での過ごしかたには、TV録画の鑑賞(たいていアニメ)、TVゲーム、読書、睡眠、私との雑談、などがある。今日は、TV録画の鑑賞だった。助手席のシートに埋め込まれたモニターを、真剣なまなざしでご覧になる。
 私はそのお姿を、あまりまっすぐには見ないようにしながら、視界から外さない。仕事についたばかりのころは、こんなに長いことひとりの人間ばかり見ていたら頭がおかしくなるのでは、という気さえした。今では慣れてしまった。
 見慣れた道を通り、目的地の千葉市労働会館に着く。ここは警護のしやすいロケーションで、国王の出席する催しによく使われる。今日は、高ツ石油の投資説明会がここで開かれる。陛下ご自身が投資を検討なさっているわけではない。政府がこの件に大いに肩入れしていることを、投資家たちにアピールするためのご出席だ。
 国王を招くだけあって、千ロの政府からは副大臣クラスが出てきていた。ロシア語のスピーチには通訳がつく。私はロシア語がわかるので、こういう通訳は聞いていて面白い。陛下は、居眠りなさっていた。
 昼食は、財団理事の茅場氏と。地方党組織の割譲派のことが主な話題になった。茅場氏によれば、割譲派の内部に温度差が広がりつつある、とのこと。それに対して陛下は、割譲派という枠にとらわれず、具体的な人物とその人間関係に注目すべきではないか、と示唆なさった。
 午後は、袖ヶ浦市の図書館へ。この図書館は先月にオープンしたばかりで、今日は広報のためのご訪問だった。TVカメラが入るので、メイドの宮田さんが陛下のメイクをTV用に整える。陛下は館長とともに館内を一回りなさり、いくつか本をお手にとっては、TV映りのよさそうな適当なことをおっしゃった。陛下は、ラジオでは思うところをそのままおっしゃるが、TVではずいぶん手加減なさる。TVは編集の都合が厳しいため、お言葉は短く単純にまとめないと、ほとんど意味が通らないくらいに切り刻まれてしまう。陛下がTVよりもラジオを好まれるのには、こういう事情もあるだろう。
 今日の仕事はここまでだった。帰りがけに、陛下のご希望で、木更津駅近くのアニメショップに寄ってゆく。本社は東京にあるチェーン店で、陸子陛下のために財団が誘致したと噂されている。いつ行っても繁盛している様子がないのを見ると、そういう噂が立つのももっともなことだと思える。実際は、陛下のご贔屓をあてこんで開いた店らしい。ご贔屓だけは狙いどおりにいったが、国王が贔屓にする店だからといって繁盛するほど商売は甘くない。
 公邸に戻る。車中での陛下は、さきほどアニメショップでお求めになった雑誌をご覧になっていた。私はそのお姿を、視界の隅にとらえつづける。間違いなく私は、世界一、陛下のお姿を拝見している人間だ。
 陛下は雑誌のページを閉じると、私に話しかけてくださった。
 「月曜のネタのことなんだけどさ、大多喜町だよね。事典だと、なーんかしょぼいネタしかなかったんだけど」
 陛下のおっしゃる『月曜』というのは、月曜演説のことだ。聴衆の地元民を前にして、演説地のことを褒めなければならない。国王になにも考えがなくても、官房職員が適当に仕入れてくるが、それだけでよしとなさるような陛下ではない。
 「これといった名物がないのに無理をするよりは、イベントに絡めてはいかがでしょう。たとえば七五三の季節なら、子供を壇上に招かれてお祝いの言葉をおかけになれば、人々の気持ちを集めることができるでしょう」
 千葉には、七五三を盛大に祝う地方が多い。
 「そっか、イベントかー。来週のイベント…… うーん」
 「たしか、十五夜がもうすぐでしたか」
 「もしかして私、操られてる感じ?」
 そうするうちに公邸に着く。
 メイドたちが玄関に並んでいて、陛下をお迎えする。そのなかには緋沙子はいない。時計を見ると、緋沙子の出勤時間にはまだしばらく間があった。
 私は通用口へと回る。公邸の玄関から出入りするのは、国王、客、理事だけで、ほかは通用口を使うことになっている。公邸内にある護衛官のオフィスにゆき、書類仕事にとりかかる。
 護衛官はひとりで一個の省庁のようなものなので、御召車のガソリン代の伝票事務まで私がやることになっている(御召車は政府が提供している)。実際には、そういう事務は国王官房がやってくれていて、私は上がってきた書類に署名捺印するだけなのだが、それでも数が多いと馬鹿にならない手間だ。また、トラブルの報告などは、私自身が起草しなければならない。
 今日は定型書類だけだったので、すぐに終わった。届いていた郵便物を調べると、内務省発行の『テロ・ゲリラ活動月報』があった。さっそく目を通す。私の研修は、過去10年間の月報を読むことから始まった。教官は、白書のたぐいなど1ページも読んだことのなかった私に、内務省の文書に出てくる独特の言い回しとその意味合いを教えてくれた。たとえば、「懸念すべき状態にある」という表現には、責任回避の意味合いが強い。が、具体的な誰かが「懸念を表明した」となると、その誰かが何かをしようとしている、という意味になる。
 月報を読み始めてすぐに、携帯電話が鳴った。メイドの青木さんの携帯からだった。といっても、かけてきた相手は、おそらく青木さんではなく陛下だろう。陛下は携帯電話をお持ちでない。必要なときには、お側仕えの者から借りて済ませておられる。
 電話をとると、案の定だった。
 「ひかるちゃん、いまからこっち来れる?」
 「はい。すぐに参ります」
 「おねがーい」
 私は読みかけの月報を机に置き、しおりを挟もうとして――そのしおりが役に立つことはないのだと気づいた。
 私は、何秒間か、ぼんやりしていた。
 結局、しおりは挟まなかった。私は執務室を出た。



 お部屋の障子の外に座り、
 「陛下に申し上げます。設楽光が参りました」
 「どうぞー」
 障子を滑らせると――陛下のご様子に、緊張した。
 脇息の上に突っ伏しておられ、お顔が見えない。お体に障りがあるのだろうか。すると、私の心配をまるで察してくださったかのように、
 「ちょっと待って、いま悩んでるの」
と元気なお声で、陛下はおっしゃった。
 「私でよろしければ、お力になりたいと存じます」
 「どんな顔して始めればいいかなー、って。
 これから、ひかるちゃんのこと、泣かせるからね。私がにこにこしてたら、ひかるちゃんは泣きにくいでしょ?」
 私はお側に寄った。脇息をあいだに挟まないように横に、膝が触れるくらい近くに。
 「ご高配に痛み入ります。泣いていいとのお許しがあれば、なんの不都合もございません」
 陛下は初めてお顔を上げて、私を上目づかいにご覧になった。いつもの信頼のこもったお顔とは様子の違う、警戒を解かないお顔だった。
 陛下は低いお声でおっしゃった。
 「私は許さないけど、ひかるちゃんは泣いちゃうの」
 どう返事したものかわからずにいると、陛下は脇息を脇にやって、お膝を指で示された。
 「膝枕させて」
 それで私はジャケットを脱いだ。その途中に、
 「あ、そうだ、防弾チョッキも脱いで」
 ワイシャツも脱ぎ、防刃防弾チョッキを外す。チョッキの下は専用の下着になっている。
 私がワイシャツのボタンを外してゆくのを、陛下はしげしげと見つめておられた。まぶたの重そうな、あのまなざしで。恥ずかしくなって私は、
 「服を脱ぐのがそんなに珍しいでしょうか」
 「うん。ひさちゃんは脱がさなかったし」
 なんのためらいもなく緋沙子の名前が出たことに驚く。陛下にとって緋沙子はその程度の存在だったのだろうか。そうかもしれない。
 「スラックスも脱ぎましょうか」
 下半身はスラックスで上半身は下着というのは変な感じだ。
 「逆。ワイシャツ着て」
 私の仕事着は、ソックスとネクタイ以外はすべてテーラーメイドだ。ワイシャツは、防刃防弾チョッキを下に着た状態に合わせてできている。下着の上に着ると、胸回りが余って気持ちが悪い。胸の線が無防備に出てしまうのも気になる。心なしか陛下の視線も、胸のあたりに向いているような気がする。
 「お膝を拝借します」
 横になり、陛下のお膝に頭を乗せる。
 「さーて、ひかるちゃんに質問。これは、なんでしょう?」
 目の前に、竹の耳掻きが差し出された。
 「耳掻きのように見えます」
 「それじゃ見たまんまでしょ? 空想して。お話して」
 「昔むかしあるところに、でしょうか?」
 「そんなんじゃなくて。
 これを、ひかるちゃんの傷つきやすいところに、ふかーく差し込んで、かきまわすんだよ?」
 そのお言葉に、さまざまな感情が同時にあふれてきて、胸がいっぱいになった。
 羞恥――他愛ないと頭ではわかっていても、気持ちは止められない。反発――男性器の隠喩が私を苛立たせた。それは安易に強力で、微妙なニュアンスを吹き飛ばしてしまう。期待――私の身体を、短いあいだのほんの一部とはいえ、陛下の御手にすっかり委ねてしまう、その快楽に。
 そして、違和感。
 私は陛下にこんなことを求めているのだろうか。というより、私が陛下に捧げるべきことは、こんなことなのだろうか。
 もう決心を固めたから、そう感じるのかもしれない――いや、と思い直す。私は確かに、ずっと悔やんでいた。自分のいるべき場所、果たすべき役割を踏み越えてしまった、あの瞬間から、ずっと。
 悔やんでいる。けれど知っている。それは避けられなかった。
 「では、これは、小さな孫の手でございます。私はおばあちゃんで、陸子さまは私の孫」
 「なにそれ、おばあちゃんと孫娘なんて、マニアックすぎ。ついてけなーい。
 あーもうなんでもいいから、しちゃえ」
 陛下は私の耳を押さえて、耳掻きを差し込んでくださった。身体が小さく震えるのをこらえる。
 「ひかるちゃん、えっちな顔してる」
 横を向いている私は、陛下のお顔をうかがうことができない。見るかわりに、思い浮かべる。陛下の、少し嗜虐的な、まぶたの重そうなお顔を。



 「体を洗うときに、耳って半端だよね。
 髪も顔も首も、正しいやりかたみたいなのが、あるでしょう。正しいっていっても、どうせコスメ屋さんが売り込んでる奴だけどさ。でも耳って、あんまりそういうの聞かないよね。場所的には目立つのに」
 そうおっしゃると、耳掻きを抜き取り、私の耳たぶを口に含んで、試すように噛まれた。
 「なんかちょっとおいしそう」
 「陸子さまのお口に合うでしょうか。どうぞ、ほかのところもお試しください」
 「誘ってるー。いつそんなこと覚えたの?」
 「たぶん、陸子さまとご一緒しているときです」
 「恥ずかしがってるだけじゃなかったんだー。さすが、ひかるちゃんだね」
 陛下は私の首に御手を置き、軽く抑えつけるようにしてから、おっしゃった。
 「ひさちゃん、入って」
 私は起き上がろうとしたが、陛下の御手がそれを許さなかった。襖がすべる音と、衣ずれの音がした。緋沙子の気配を、背中で感じる。
 「たしか先日は、二人きりのほうがお好きとうかがいましたが」
 私はうんざりした――いや、しようとした。けれど、心が動くのを、止められない。
 「今日のお楽しみはそれじゃないの。
 ひかるちゃんが、わかってるかどうかの、テスト。わかってなかったら、お勉強。
 いい点取って、ひさちゃんを喜ばせてあげてね?」
 私は、無駄なこととは知りながら、かなり厳しい言葉を選んで、申し上げた。
 「恐れながら申し上げます。
 平石さんにどんな非があるにせよ、赦すも赦さないも、陛下のお考えひとつでございます。平石さんを放り出すような真似は、陛下の寛大なお心にふさわしいこととは思われません」
 この抵抗に苛立ったのか、陛下は、私の耳たぶを抓(つね)られた。
 「ひさちゃんは悪くない、って、この前も言ったよね? 忘れちゃった? でも、ひかるちゃんて、こういうの絶対忘れないと思うんだけどなー」
 私はなおも食い下がる。
 「平石さんに非がないのなら、その行いに正しく報いてくださいますよう、お願い申し上げます。陛下は我が国の人心の要でございます。正しい行いが正しく報いられる、そう信じることが――」
 おしまいまで言わせずに陛下は、私の口に手をかぶせて黙らせた。
 「ほんとはもう、とっくにわかってるんでしょ? ひさちゃんのために、がんばってるんだ? なんか私、すっごく、悪いことしてるって感じー。
 ぞくぞくするよ。
 やっぱり、こうでなくっちゃね。せっかく悪いことしてるんだから。ありがとうね、ひかるちゃん。
 ひさちゃんは、かばってもらえて、嬉しい?」
 返事は聞こえなかった。けれど、仕草か顔色で伝わったのだろう、低い声で陛下はおっしゃった。
 「でも、ひかるちゃんは、私のなんだよ」
 陛下の御手がのびて、私の脇腹を撫でさする。
 「恐れながら申し上げます。
 今度のことは、お戯れというには、度を越しているように存じます。きちんとお話を――」
 言いながら身を起こそうとすると、陛下は私の首を押さえつけ、身動きできないようになさった。
 「お説教? 別にいいよ。でも、ひさちゃんを助けるのは、お説教じゃ無理だよね。もうあきらめたんだ?
 それに、まだ答えてないよ。
 問題――ひさちゃんはどうしてクビになるのでしょうか? ただし、ひさちゃんは悪くありません」
 答えるわけにはいかなかった。
 「無礼をお赦しください」
 私の首を押さえつけている陛下の御手をつかんで、もぎはなそうとする。
 けれど陛下のほうが素早くあられた。一瞬のうちに、私は仰向けに転がされ、陛下に馬乗りに組み敷かれていた。
 「お説教でだめならケンカ? いいよ、ひさちゃんに見てもらお」
 暴力を振るうとき、陛下のなさりようには、一切のためらいがない。私は、お身体に触れることさえ恐れ多い。これではケンカにもならない。
 もう終わりだ、と決心した。ずるずると引き伸ばしても、なにも起こらない。
 決心したせいで、走馬灯もどきに思い出す。陛下に初めてお目通りしたときのこと、即位式、緋沙子に初めて会ったときのこと――
 私は決心を取り消した。もうひとつだけ、陛下に申し上げたいことがある。
 「お願い申し上げます。悪いことをなさるお相手には、平石さんではなく私をお選びください。
 陸子さまに苛(さいな)んでいただける平石さんが妬ましくて、いたたまれません」
 それは素直な気持ちだった。この期に及んでも、私は平石さんに嫉妬している。
 すると陛下は、得たりとばかりに微笑まれた。
 「ひかるちゃんのルールって、そういうのなんだよね」



 ルール。不安をかきたてる言葉だった。理由はわからない。
 「ひかるちゃんは、順番をつけてるの。一番目とか、二番目とか。ひさちゃんのこと、『私の一番大切な人ではありません』って、このあいだ言ったよね?
 もうひとつ。役割でものを考えてる。護衛官とか、国王とか。
 お仕事には、そういうのも必要だよね。ひかるちゃんに護衛官になってもらったのも、そういうところが欲しかったから、っていうのもあるし。ひかるちゃんが役割してくれないと、私なんて、うざったいガキにしか見えないよ。だからそれはいいんだけど。
 ひかるちゃんは、お仕事以外でも、役割でものを考えてる。
 役割と順番、ふたつあわせて――自分は本妻で、ひさちゃんは愛人、みたいに思ってるでしょ?
 でなきゃ、さっきみたいなセリフ、出てこないよ。ひさちゃんは愛人だから遊びだけにしといて、重たいことはみんな自分に、って思ってない?
 ひかるちゃんの、そういうとこ、いじめたくなるんだ」
 反論したかった。役割や順番は大切なことだと言いたかった。けれど、口をつぐむ。いまの私がすべきことは、緋沙子を助けることだ。
 これはチャンスだ。
 陛下が、ご自分の考えをおっしゃっている。陛下のお望みがはっきりすれば、それをかなえる方法もわかる。そのなかには、緋沙子をお側にとどめておける方法も、きっと見つかる。
 先日は、ひどく不躾にお尋ね申し上げてしまった。『ご自分を捨てた生みのお母様の立場に、ご自分を置かれることで――』。あのとき、陛下のお心を痛めてしまったことは、辛く恥ずかしい。けれど、悪いことをしたとは思わない。陛下がご自分の望みを見つめなおすきっかけになったはずだ。
 「私は陸子さまを縛るような身ではございません」
 「縛れないから、妬かない? 逆だよね」
 「私のことよりも、陸子さまの望みをおっしゃってください。私をどんな風にいじめてくださるのでしょう?」
 陛下のお顔が、愉悦をはらんで微笑む。
 「ひかるちゃんの考えてる、役割とか順番とか、そういうルール、壊しちゃう。
 このあいだ、ちょっと壊れちゃったよね、ひかるちゃんのルール――私の夏休みが明けて、実家にお迎えにきてくれたとき。
 ひかるちゃんが、あんな変態だったなんてねー。ひかるちゃんのルールじゃ、絶対いけないことでしょ?
 でも、ひかるちゃん、嬉しそうだったよ。こうしてほしいんだなーって、わかっちゃった」
 その物語に、惹き込まれそうになる。緋沙子のことを忘れて、その物語にひたりそうになる。けれど私は誘惑をふりほどいて、申し上げる。
 「私をそのようにしてくださって、そうすると陛下は、どんな望みをかなえられるのでしょう?」
 陛下は、二、三度、まばたきをなさった。
 そのあいだに、愉悦をはらんだ笑みが消え失せる。けれど、興をなくされたのではない。無表情というほかないけれど、なにか強い力を潜ませたお顔だった。たとえるなら、仏像のような。
 やがて陛下はおっしゃった。
 「登山家はどうして山に登るのでしょう? そこに山があるから、だね。
 じゃあ、どうして私はひかるちゃんの上にのっかるのでしょう? そこにひかるちゃんがいるから、だよ。
 ひかるちゃんは、望みをかなえるための手段じゃない。
 ひかるちゃんが、私の望み」



 緋沙子のことはあきらめよう、と思った。
 強い力だった。意志と情熱が、陛下のお心から流れ出て、見えない水路をたどり、私の心に注ぎ込まれる。
 私には自分の意志なんてないのかもしれない、と思った。
 私の背中には電線が生えていて、陛下が操作なさっているような気がする。私の決意も翻意も、陛下の思うがままで、陛下を楽しませているだけ――そんな妄想さえ浮かぶ。
 陛下とめぐりあうまで、私はまったく違う道を歩んでいた。
 まんがを描きたかった。アシスタント修行に明け暮れ、たくさんの友人と出会った。全世界の運命よりも、自分のネームのほうが重要だった。マーチン・ルーサー・キング牧師は言った。『(*1)もし道路掃除人になったなら、ミケランジェロが描いたように、ベートーベンが作曲したように、シェイクスピアが作詩したように、道路を掃除しよう。主がそこに立ち止まり、「ここには偉大な道路掃除人がいた」と言うほどに、道路を掃除しよう』。まさに私はそんな風にまんがを描きたかった。
 今でも、それがどうでもいいことだとは思わない。もしこれから先、なにかのめぐりあわせで、またまんがを描くようになれば、きっと同じように心血を注ぐだろう。
 けれど、今のところは、そういうめぐりあわせにはない。
 「陸子さま――」
 きっといま私はとても恥ずかしい顔をしているにちがいない、と思う。自分自身を客観的に見ようとする気持ちが、ほとんどなくなってしまっている。
 「なーに?」
 「私の望みも、陸子さまでございます」
 「望んで。うーんと」
 「陸子さまが、どんなに平石さんのことを気にかけておられるか、存じております」
 陛下のお顔が曇った。けれど私はかまわず申し上げた。その言葉は、自分でも意外で、しかも自然だった。
 「私が平石さんを引き取ります」

  *1:Facing the Challenge of a New Age, Address at the Institute of Non-violence and Social Change, Montgomery, Alabama, December 3, 1956.



 陛下は、ほとんど一瞬で、気持ちのありようを切り替えられた。私の意志をひと潰しにしようするかわりに、獲物を追うときのように、視野を広く、身を軽くなさった。
 気持ちが切り替わると、私の上からどいて、手をさしのべてくださる。私はその手をとった。けれど支えにはせず、自分で身を起こす。陛下が車からお降りになるとき、私の手をとるだけで、支えにはなさらないのと同じように。
 私が座布団の上に座りなおすと、陛下はそのたおやかな御手で、私の腰に触れてくださった。
 「ひかるちゃんのここ、ちょっと細くなったかなー?」
 そこはさっき陛下のおみ足に挟まれていたところだった。くすぐったさに、身体が小さく震える。
 「ではこれからは、細くなるように務めます」
 「ひさちゃんを引き取るっていうことは、実家で預かってもらうの?」
 「いえ、一緒に暮らします」
 耳のすぐそばで、陛下はかすかに笑い声を漏らされた。
 「ひかるちゃんは、私のことはわかってるみたいだけど。自分のことも、もうちょっと、わかんなきゃねー。
 私がひさちゃんのこと性的虐待してるっていうけど、それはひかるちゃんだって五十歩百歩なんだよ?」
 こんな見方があるとは夢にも思わなかった。言われてみると、反論できない。
 「誘ったのは私ですが――疑いを晴らす立場にないということは存じております」
 陛下は私の側を離れて、ご自分の座布団にお戻りになった。
 「でも自分は正しい、って思ってるでしょ? あぶないなー。
 ここって、私がなにしても筒抜けなの。かならずメイドさんの誰かが聞いてるし、そしたら橋本さんに報告がいくし、やばそうなことなら理事会までいくの。ひさちゃんのこと、そりゃちょっとはいじめるけど、もし本当にひどいことしたら、止めてもらえるようになってるの。
 でも、ひかるちゃんとひさちゃんの二人暮らしだったら、どう? 誰も止めてくれないよ」
 陛下が幼い日々を過ごされた、子供の家のことを思い起こす。
 陛下のように完全な捨て子としてやってくる子供は、あまりいない。たいていは、緋沙子のように親との関係に問題があるか、あるいは親の暮らしが破綻しているか、どちらかだ。そういう子供たちとつきあっていれば、止めてくれる人がいないことの恐ろしさを、身にしみて知るようになるのだろう。
 そんな世界に触れたことのない私には、思いもよらないことだった。私はぐらついた。
 そのとき背後から声がした。
 「恐れながら申し上げます。私はひかるさまを信じます」
 緋沙子だった。
 陛下の応対は鋭かった。
 「ひさちゃんは、信じるだけでいいんだもんね。ひかるちゃんには、責任があるんだよ」
 私は振り向いて、緋沙子に告げる、
 「――ありがとう」
 「なにもかも設楽さまの思うようになさってください」
 追い討ちをかけるように陛下は、
 「ひかるちゃんて、エッチなことだと、止まらないよね。服の匂いをかいだりとか。
 ひさちゃんのことも、そうなっちゃうんじゃない? 自分でもわけがわかんないけど、やめられないの、悪いこと」
 けれど私はもうぐらついてはいなかった。
 私の背中はきっと本当に、陛下のお心につながっている。陛下がなにを本当に求め願っておられるのか、まるで耳打ちされているようにわかる。その願いの強さが、私の力になる。
 「平石さんを傷つけないという自信はござません。恐れています。ですが、この恐れから逃れようとは思いません。
 私は護衛官として陸子さまのお命を預かっています。私の務めが至らず、陸子さまの身に万一のことが起こるのではないかと、恐れております。ですが、陸子さまが私を信じて、私に任せてくださるかぎり、この恐れから逃れようとは思いません。
 緋沙子が――」
 間違えて、二人のときのように名前で呼んでしまった。一瞬迷い、押し通すことにする。
 「――緋沙子が私を信じてくれるなら、私は逃げません。
 それに…… 憚りながらお尋ね申し上げます。
 たとえどんなに傷つけられることになっても、一緒にいたかった――そのようにお考えあそばしたことは、ございませんか?」
 陛下はすぐにその意を汲み取ってくださったようだった。たちまちお顔が気色ばみ、御手が脇息を強くつかむ。
 「……一緒にって、誰と?」
 「陸子さまをお産みになったお母様と」
 陛下のお身体がバネ仕掛けのように前に跳ね、風のように平手打ちが飛んできた。



 視界がぶれるほどの衝撃を感じながら、私は陶酔していた。
 皮膚の下よりも血管の奥よりも、さらに深いところ、陛下のお心の奥底に、じかに触れている。つながっている。
 ずっとこうなりたかった。
 首をつかまれて後ろに突き倒された。陛下はまた私の上に馬乗りになられた。昂ぶった手つきで私の耳たぶを握ると、私の頭を横に向かせて、畳に押しつける。
 「それって、ケンカ売ってるんだよね。それとも、ぼこぼこにされたいだけ? 感じてるんでしょ?――この変態。さっさとおしっこもらしていっちゃいなさいよ」
 陶酔しているのと同じくらい、私は覚めていた。緋沙子を誤解させるようなことを言わないでほしい、と覚めた意識で思う。私には、失禁するような癖も趣味もない。
 「いままで誰もこんなことを陸子さまに申し上げなかったのですね。寂しくはございませんでしたか?」
 「そういうひかるちゃんは、おまんこが寂しそうだよ? そんなに私の母親が気になるんなら、ひかるちゃんがなってみる? 手首までくらいしか入らないけどね」
 「それで私をそのように思っていただけるなら、どうぞなさってください」
 こんなときでも私は、口にする言葉を選んだ。陛下のようにありのままに言うのにはあこがれるけれど、そう急には自分は変えられない。
 「なーに、もしかしていつも自分で入れてるの? 勢いだけじゃ入らないよ?」
 「ですが、もし私がそのようになれたとしても、陸子さまご自身は、幼い子供にはなれないものと存じます」



 私は横目で陛下のお顔を見ている。
 表情は凍りついたように変わらない。厳しいまなざしで私を見下ろしておられる。
 そのかわり、私の耳たぶをつかんでいる御手が、お心をのぞかせる。御手の温度が下がってゆく。
 急に、私の目に涙があふれた。嫌だと思ったけれど、止まらなかった。なにも悲しくないのに――
 ちがう。私は悲しんでいる。
 陛下を傷つけてしまった。
 悲しいから、身体が涙を欲しがっている。昨日の緋沙子を思い出す。ひとしきり泣いてから、安らかに息をしていた緋沙子を。私もああなるのだ。
 あれはウソ泣きだと言い張った緋沙子の気持ちが、いまはわかる。涙を止めようと思えば、止められるような気がする。泣くのを自分に許しているような気がする。涙に誘惑されているような気がする。泣けば楽になるよ、と。それに、泣けば伝わるよ、と。
 「……ひかるちゃん、どうして泣いてるの?」
 「陸子さまを――ちゃんと――守ってあげられなくて――」
 頭が回らない。言葉づかいが敬語にできない。
 「ずるいよ」
 涙声になりかけていた。続けて陛下は、
 「ひさちゃん、外で待ってて。しばらく誰も通さないで」
 「かしこまりました」
 襖がすべり、閉じる音がする。
 「私ね、本当に悲しくて泣いたことなんて、ないの。だって泣いたら、本当に悲しいみたいじゃない。
 私は幸せになるって決めてるの。
 ひかるちゃんは、私のことだけ見てくれて、ずっとそばにいてくれるって、決めてるの。
 だったら、悲しいことなんて、なんにもないよ?」
 「ごめんなさい」
 「どうして謝るの? 変でしょ?
 ひかるちゃんに、いっぱいありがとうって言いたいの。いつも言ってるけど、ぜんぜん足りないよ。
 だからね、ひかるちゃんが心配することなんて、なんにもないんだよ? 昔のことなんて――」
 声が涙で途切れる。
 陛下は私の上からどいて、ティッシュをとり、鼻をかんで目をぬぐわれた。
 「――昔のことなんて関係ない。ひかるちゃんがいるんだから」
 「だったら、ひさちゃんをそばにいさせてあげて」
 私はその答を知っていた。
 「絶対に嫌。だって――」
 あとは言葉にならなかった。私は陛下を抱きしめた。