こんな姿をしているが、高校生だ。
少女まんが家・刑部真芯の描く主人公の姿は時として、年齢のわりにあまりに幼く、小さい。たとえば恋人の男と並ぶと、頭のてっぺんが男のウェストにやっと届く、というような。これは、客観的な外見を表現したものではない。作品の根源的な要請にもとづく、幻想的な表現だ。
同じ要請にもとづいて、藤島智佳子はこんな姿をしている。
心の切っ先が、痛々しいまでに鋭く。
傷つくことを恐れることを、恐れている。 |
|
ある種の作家は、幼い外見を、理想的なものとして描く。
刑部真芯は極端な例外に見えるかもしれない。では、清水玲子『月の子』のジミーは。妙齢の美女が真の姿、理想像で、地味な7歳の子供は仮の姿、みにくいあひるの子――そんな具合に割り切ってしまえるのか。私には、ジミーの二つの姿はそれぞれ、同じくらい重みのある理想を描いたもののように思える。
理想的といっても、どんな理想なのか。しかし、幼い外見にこめられた理想を言葉にすることは、作者の思いを裏切ることになるだろう。短い言葉では表現できないものを表現するためにこそ、物語が必要とされるのだから。
|