コピーライターに
なりたい。

2003年9月8日公開

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過去のコピー:

 コピーライターになりたい。
 いや、本当は、なりたくない。もしなったとしら、私は毎日、地獄の底をさまよう羽目になるだろう。
 なにしろ彼らは、一晩に百も二百も、コピーを書くという。プレゼンテーションで自信たっぷりに、「このコピーはなぜ素晴らしいか」を説明するという。どちらも、怖気の立つ話だ。
 一晩に百、と言うのはたやすい。しかし計算してみよう。正味6時間のあいだ考えるとして(こんなに長いこと考えられるだけでも超人的だが)360分。ひとつのコピー当たり3.6分、216秒。簡単、簡単――ゴミのような代物でよければ。
 もしかすると私の頭がまったくコピーライター向きでなくて、世の中の人はみなもっとマシな頭をしているのかもしれないが、ともあれ私の場合、ひとつの商品についてすらすらとネタが出てくるのは、多くても10個かそこらまで。そこから先は、頭を壁に打ちつけるがごとき光景が展開される。百のコピーを書くということは、おおよそ90回は頭を打ちつける、ということだ。打つだけですぐに出てくるならまだ救われる。が、ひとつのネタを出すのに、一時間かかることも珍しくない。
 とはいえ、「一晩に百」という数字だけなら、ゴミで作ることもできる。いいネタを目立つところに入れておけば、ちゃんと仕事をしたことにもなる。プレゼンテーションはそうはいかない。
 このコピーが素晴らしい理由――「いえ全然よくないです」などと謙遜することはできない。しかし言葉というのは不思議なもので、謙遜したほうが偉そうに見える。そして、言葉が偉そうに見えるなら、それは本当に偉い言葉だ。なにしろ言葉には、本人とか、実体とか、中の人とか、そういうものは一切ない、見かけしかない。ちなみに謙遜ゼロの駄文の典型が大日本帝国憲法である。丸谷才一のいうように、「大日本帝国」という5文字からしてすでに失笑ものだ。
 だいたい、本当に優れたコピーなら、読んだ瞬間にそれと知れるはずだ。もしクライアントがロクに日本語のわからない馬鹿なら、日本語で説明したところで無駄なはずだ。コンペに勝つ、あるいは了承を得ようとして、日本語以外のなにかを使って妙な誤解を抱かせるなら、それはコピーを書く能力とはまったく別のものだ。私は、コピーを書く能力以上に、この種の能力を欠いている。
 こんなわけで、私はコピーライターにはなりたくない。
 では、なにゆえこのページは「コピーライターになりたい。」などと銘打っているのか。
 ごく簡単に答えるなら――このタイトルも、コピーだからだ。コピーである以上、この程度の嘘は大目に見ていただきたい。コピーを書いていないわけではないのだから。
 ごく難しく答えるなら――単なるひっかけである(と書いても、おそらく意味は通じないだろう。なにしろ難しいのだから)。