突然でもないが私はいま東京にいる。
ロンドンの美術館である。とにかく広い。値の張りそうな西洋絵画が、腐るほど置いてある。あまり値の張りそうにない作品も多いが、そういうのはよく見ると、イギリスの画家だったりする。Nationalというわけだ。
ルーベンスの作品も大量に置いてあった。聞くところによれば、ルーベンスというのは絵を産業的に大量生産した画家であるという。どう産業的なのかというと、分業をやったのだ。とはいえ分業なしの作品もあり、National Galleryにもいくつか置いてあった。
分業ルーベンスと、完全ルーベンスを見比べた私は――分業ルーベンスの絵が、エロゲー臭いことに気づいた。あるいは、エロゲーの絵は分業ルーベンス臭い、というべきか。
私の見るところ、ルーベンス本人は構図を、アシスタントは塗りを担当していたらしい。構図はひとつ作れば何度でも写して使えるが、絵の具を塗る作業のほうは作品ごとにやる必要があるので、もっとも力量のある人員(ルーベンス本人)が構図を担当するのが道理である。
エロゲーの制作システムでは、力量があるからといって構図を担当するわけでもないし(構図を何度も使えない以上は、ここに希少なリソースをあてる理由がない)、分業ルーベンスのような必然性にもとづくものでもないが、ともあれ、原画・塗り・色彩設計という分業形態が一般にみられる。これに加えて、原画と構図のあいだにも分業がみられるとも聞く。色と形のあいだで分業を行うという点で、分業ルーベンスの分業形態と重なる。
だから、同じ臭いを発していること自体は不思議ではない。だが、油彩とCG、近代西洋絵画とアニメ・まんが、貴族・豪商とオタク文化層のあいだにある距離を越えてなお、まっさきに同じ臭いを感じさせるとしたら、それは分業形態の反映というよりも、人間の感受性の反映である。
エロゲー臭い、という感覚――これは、色と形のあいだの不調和が、一般に想像されるより深刻なものであることを示唆しているように思える。
まんがは基本的にはモノクロの世界だ。アニメは色と形のあいだでの分業が行われており、オタク文化はその強い影響下にある。このような条件が、色と形のあいだの不調和を、軽く見積もらせる原因になっているのではないか。
現在のエロゲーの分業形態は、おそらくルーベンスではなく、アニメをもとにしている。アニメでは色と形を分業することが避けられないが、果たしてエロゲーでは、そこまでの必然性はあるのか。この問題は一考に値すると思う。
Posted by hajime at 2004年03月02日 01:19