2004年04月08日

クンデラの「存在の耐えられない軽さ」

 スターリンの長男ヤコフの死については数多くの伝説がある。
 ドイツ側の発表では、彼は1941年7月に捕虜になり、1943年に捕虜収容所を囲む鉄条網を越えようとして自殺同然に死んだとされている。これはスターリンが「私にはヤコフなどという息子はいない」(日本と同様、ソ連でも捕虜になることは禁じられていた)と述べたのを知ったためだとも言われる。また、パウルス元帥との捕虜交換をドイツ側から打診されて、「元帥と兵卒ではお話にならない」と返答したのを知ったためだとも言われる。
 「存在の耐えられない軽さ」のなかでは珍説が紹介されている。捕虜収容所で、便所の使い方をめぐって他の捕虜とトラブルを起こし、そのために自殺したのだ、と。
 が、これは私の知るなかでは、もっとも信憑性に欠ける説である。
 ヤコフが捕虜になったというのはドイツ側の宣伝工作で、実際には彼は死体で発見され、その遺品を使って捕虜になったかのように見せかけた――という説が現在有力視されている。その根拠のひとつが、ヤコフを個人的に知っていた捕虜が見つからない、という点だ。ヤコフがこれほど数奇な死に方をしたのなら、ヤコフ捕虜でっちあげ説は成立しない。
 なお、この説によれば、「元帥と兵卒ではお話にならない」というスターリンの返答はソ連の宣伝工作とされる。ヤコフがすでに死んでいることを察知した上で、「息子の運命に胸を痛めつつ職務に忠実である父」を演出しようとした、というわけだ。敵の手口を逆手に取るのは、情報機関のもっとも好む手口であり、そのため私はこの説にかなりの信憑性を感じる。

 それはさておき、感想をいえば――ギャルゲーのような印象が残った。
 主人公が無類の女たらしだから、というのは少しは関係があるかもしれない。が、もっとも重要なのはやはり、「Es muss sein!(そうでなければならない)」のモチーフと、「ピッチを塗った籠に入れられて川を流れてきた赤子」という隠喩だ。「Es muss sein!」は選択にかかわる問題であり、隠喩は、ギャルゲーキャラにとってはキャラデザと同じくらい本質的だ。
 とはいえ、主人公が「Es muss sein!」と感じるだけでは、まだ十分にギャルゲー的ではない。「Es muss sein!」と感じると同時にそこから逃げ出そうとする、この構造がまさにギャルゲーそのものだ。「Es muss sein!」が事実によって追い付かれたとき、つまり「人間は呼吸をしなければならない」のような馬鹿げた命題になったときには、もはや「Es muss sein!」と感じることはできない。
 この構造はちょうど、乃絵美のような非攻略対象の妹キャラと裏返しの関係にある。攻略不可能であることと、「Es muss sein!」が事実によって追い付かれていることは一体不可分であり、非攻略妹の魅力の核心をなしている。非攻略妹は、ギャルゲーの反対側にあり、それゆえギャルゲーのなかでは特に輝いて見える。(だからシスプリは何重にもねじれた代物だ)

 ところで私は、「君が望む永遠」の水月ルートをひとつも見ていない(あゆと茜は見た)。私の「Es muss sein!」というわけだ。どうやら私は、あまりギャルゲー的な人間ではないらしい。

Posted by hajime at 2004年04月08日 04:06
Comments