馬鹿につける薬がないことは古くから知られている。そのため、馬鹿は治すべきものではなく、識別し回避すべきものとして考えられている。
馬鹿を識別する方法は数多いが、このごろ特によく効く方法がある――自分以外の人間を強いものだと仮定しているのは、馬鹿のしるしだ。
「マッチョ」というと、ヒーロー願望のでしゃばりな性格が思い浮かぶ。マッチョにとっては、自分をヒーローにしてくれる守るべき対象=弱いものがぜひとも必要だ。もし世界中の正義の人がすべて、知略や行動力や時の運に優れたスーパーマンだったなら、マッチョはむしろ悪でありたいと願うだろう。だからマッチョは、自分以外の人間を弱いものだと仮定している。
このようなマッチョを、ちょうど逆さにしたような性格がある。
世界中の正義の人がすべてスーパーマンだと仮定し、だから世界は正義に満ちている、と考える人々。このような考えは、ふたつの点で、マッチョより楽なものだ。第一に、自分にはなんの行動も求められていない、なにもすべきでない、と信じることができる。第二に、正義を思う必要がない。正義とは、この世界で日常的に起こっていることであり、逸脱はあくまで例外にすぎない。
このような性格のことを、「負のマッチョ」と呼びたい。
もしかすると、弱い人間がマッチョになるのかもしれない。人間は弱いものだという仮定のなかには、自分自身の弱さへの認識が含まれているはずだ。たとえば、学校教師志望の学生には、「子供たちのすさんだ心を癒してあげたい」というような志望動機を口にするものがいる。こういう学生は、見るからにして、本人が癒されたがっているのだと知れるという。
自分自身の弱さを認識できない馬鹿が、負のマッチョになる。人間の弱さの証拠を、どれだけ積み上げてみせても、負のマッチョには理解できない。馬鹿だからでもある。だがそれ以上に、人間の弱さへの理解は、当人の性格に、価値観に、つまり当人のもっとも切実な利益に反するからだ。どんな証拠も、例外として片付けるか、あるいは正義の実現として見ようとする。
このような馬鹿の行動パターンを観察するのに適した例を挙げよう。
20世紀に存在した強制収容所の数々――特にソ連とナチスドイツ――は、正義の人がスーパーマンでないことをもっとも確実に証明している例だ。アウシュビッツには常時1万人を越える囚人が収容されていたが、囚人蜂起は一度も起こらなかった。少なくとも150万人が黙々と、正義のかけらも実現できずに、殺された。ソ連のラーゲリの歴史もまた同様に暗いものだ。
これほど目立つ、これほど確実な証明をみせつけられては、挑まずにはいられないのかもしれない。小は「ガス室はなかった」から、大は「ユダヤ人は悪でホロコーストは正しかった」に至る、負のマッチョの見事なグラデーション。