ティーンズハートを置いている本屋がめっきり少なくなった。廃刊間際の学研レモン文庫といった趣だ。発行点数はまだそこまでひどくはないが、隔月刊である。詳しくはこちらをご覧いただきたい。賞の募集ページ(巻末)にも投げやり感が漂う。「原稿がよければ随時」というのは、定期的に賞を出せるほどの原稿が集まらない、という意味としか取れない。
原稿が集まらないのが先か、それとも、本屋でのプレゼンスが低下したのが先か。花井愛子と折原みとの全盛期からすでに、新人作家の登場しない・長続きしないレーベルだったので、原稿が集まらないのが先だと思える。
それはともかく内容について。
文章を書くときにはいつも、「描写」というモデルのよしあしを考える。「個性」「事実」といった固有の実体がまず存在し、その実体に対応して任意の「描写」がある――というモデルは、文章としてどうなのか。どうなのか、といつも考えつつ、結局いつも結論を出せずにいる。
この本を読みながら考え、今度もまた結論が出ない。
文章技術としては、実体―描写モデルはクソだ。上手な文章は、「なにを書くか」と「どう書くか」を区別できない。理想的には、上手な文章とは、「ここで作者が表現しているのは~」などという議論が成り立たないものだ。聖書がそうであるように、文章そのものが固有の実体として扱われる(聖書が上手な文章かどうかはともかく)。
皆川ゆかは、逆をいく。描写される実体があるかのように書く。
当然の結果として、文章がしばしばわかりにくい。実体―描写モデルは、いわば絵を立体に起こすようなもので、ものによっては、「この顔の一体どこが観鈴ちん?」ということになる。複数の主観からの描写がある部分、それも同時進行する部分など最悪だ。
が、実体―描写モデルには、小さからぬメリットがある。
文章が長くなると、「実体」なるものを想定するほうが、わかりやすくなるのだ。文章を、文章それ自体よりはるかに単純な「実体」へと非可逆圧縮してしまうわけだ。本作『運命のタロット』のような大長編では、このような非可逆圧縮は避けがたい。
実体―描写モデルは大長編専用、で終わるなら話が早いが、それで終わらないからこそ考える値打ちがある。
実体―描写モデルが適切な範囲には、上限があるのではないか。その上限とは、「実体」の複雑性によって決定されるのではないか。本作『運命のタロット』は、その上限を超えてはいないか。
ようやく本題である――
実体の複雑性に対応しようとして、実体を不可逆圧縮した「根源」なるものを想定し、根源―実体―描写の三段構えのモデルをとったとき、そこにはなにかひどく不吉なものが現れはしないか。
言い換えれば、一段階の不可逆圧縮と、多段階の不可逆圧縮のあいだには、きわめて重大な落差があるのではないか。
もしあるとしたら、それは何か。
答はまだ出ていない。そして、もしかすると、この答そのものが、忌まわしい多段階の不可逆圧縮であるかもしれない。
…………というような議論を超能力バトルで展開する話、それが『運命のタロット』です(大嘘)。