二十世紀初頭のモスクワでは、反政府活動で逮捕された学生を非難するような人は少なく、同情と共感をもって迎えられたという。戦後の日本で、チャタレイ事件や「悪徳の栄え」事件の被告人がけっして孤独でなかったのと同じく、彼らは孤独ではなかった。 賢明なる読者諸氏には、司法判断に注目しているような、ずれた人はいないと信じたい(国益のために「電気は物だ」と言い切り、さらにはそれに合わせて法律のほうを変えてしまうお国柄である)。47氏をどう迎えるか――これは、ただそれだけの問題だ。