2004年08月11日

ギャルゲーと無葛藤理論

 『月は東に日は西に』の美琴ルートをクリアした。
 噂の「ワールド」は私には感じられなかった。私がイラク生まれのアフガン育ちだからといって、特にどうということはない。人間はどこにいても、食って、遊んで、死ぬようにできている。本作品の設定には、なんの驚きもなかった。驚異とは、「強姦されてハッピーエンド」のような不条理な因果関係から生じるものであり、設定からは生じない。
 むしろ私は、無葛藤理論をギャルゲー世界に展開したと思しき設定に注目した。
 無葛藤理論とは、「社会主義の実現にともない人間同士の葛藤はなくなった、これからは人間と自然との闘いを描くべきだ」という理論である。この理論にもとづく作品では、社会主義の実現過程は描かれず、実現後の世界から話が始まる。だから、予備知識なしでそうした作品に触れると、悪い冗談が延々と続いているかのような印象を受ける。
 私が本作品から受けた印象は、無葛藤理論の作品から受ける印象と、よく似ている。
 「他者=異性」という犯罪的イデオロギーはすでに歴史上のものになった。このイデオロギーに汚染された低劣な作品では、主人公にとって同性の仲間は、きわめて馴染み深いものであり、異質さがない。他者の異質さをまとめて異性に押し付けて、異質さのないホモソーシャルな関係性で癒されよう、というわけだ。
 このホモソーシャルな関係性の輪に、異性や性交渉まで取り込んでしまったのが、『月は東に日は西に』の世界である。
 「他者=異性」に比べれば、はるかに進歩的であり、いまは確かに21世紀なのだと思わせてくれる。が、他者の異質さがこれほど希薄な世界は、よいものなのか。
 異質さが希薄といっても、鈍感すぎて異質さを感じ取れないのだとしたら理解できる。まるで相手の話を聞いていない会話はよくある風景だ(こういう鈍感さは苦笑を誘うが、悪いものではない。ある種の共感は、深めようとした瞬間に崩壊する)。が、本作品に描かれる会話には、そのような鈍感さはみられない。
 それとも、私の見方のほうが、現代少女まんがや近代文学に染まりすぎているのかもしれない。本作品の登場人物は、近代文学よりも、西洋中世の物語に近いのかもしれない。だとすると他者など薬にもしたくないだろう。
 とりあえず、ギャルゲーユーザの多くが「人間同士の葛藤」に辟易しているのではないか、と疑ってみることにしよう。

Posted by hajime at 2004年08月11日 04:01
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