だがしかし、少なくとも闇市のような世界では、そのもう一つ底に、「日本人の野郎め」「朝鮮人のくせに」という意識を突き抜けた、両者とも「どっこい生きている」、要は力と意地の張り合いだという、ある種「健康」な裸の個と集団の対抗意識があったのではなかろうか。(21ページ)
こういう単純な生命力を、著者は称揚する。本書で描かれる二人の人物、万年東一と金天海も、このような生命力の観点から描かれている。
が、本書を読みながら私は、クンデラ『存在の耐えられない軽さ』のラストを思い出していた。トマーシュの墓碑銘「神の王国を地上にも」に、なんの反対も起こらず、ということはつまり、トマーシュはそのようなものになってしまった――というラストを。
たとえ何百ページを費やそうとも、書かれたものは必ず、「神の王国を地上にも」のバリエーションになる。このような変容は、単純な生命力からもっとも遠いものを作り出す。そのことに著者はどれだけ自覚的なのだろうか。アウトローの世界にいて、任侠神話を流通させる当事者でもあった著者には、もうそんなことは目に入らないのかもしれない。
「だが、この世界では、そうした歴史的事実よりも、それを物語化し勲を綿々と語っていく神話的事実のほうが、ずっと重きをなすのである」(56ページ)。私の見方はこれとは逆である。物語化されることのない細部、不確実さの闇へと消えてゆく端々のなかに、共感すべきものが潜んでいる。