2004年09月07日

史実の肩の上で

 いわゆる偉人伝のたぐいから、野口英世はすっかり姿を消してしまった。
 いうまでもなく、野口英世の業績のほとんどは、よくて間違い、おそらくは捏造だ。新千円札は、虚栄心にこりかたまった彼の魂を、大いになぐさめてくれることだろう。
 しかしかつては、こうした事実は、野口が偉人伝の主人公になることを妨げなかった。
 講談では清水次郎長は、カタギに迷惑をかけるどころか、身を挺して助けるということになっていた。このとき聴衆が、「現実の次郎長」なるものと区別された「講談の次郎長」を思い描いていた、と考えるべきではない。講談の聴衆にとって、「現実の次郎長」は存在しなかった。ありうべき次郎長だけが次郎長であり、「現実の次郎長」なるものを想定する意義はなかった。古い常套句にたとえれば、「現実と空想の区別がつかない」のではなく、そんな区別をつけることがナンセンスだった。
 このような精神のもとでは、野口が偉人伝の主人公であっても、なんの不都合もない。実際、多くの野口伝が、このような精神にのっとって書かれたはずだ。
 むしろ問題は、なぜこのような精神が失われたのか、という点にある。
 義理人情を謳いあげる感動的な講談の次郎長に背を向け、くだらない悪党だった「現実の次郎長」なるものを優先する(そしてその結果、次郎長の物語が無意味になり失われる)ようになったのはなぜか。なにが人々をそのように変えたのか。
 答は単純ではないだろうが、もしこの傾向が続くとしたら、50年後の日本文化は様変わりしているはずだ。
 たとえば、忠臣蔵は清水次郎長と同じ運命をたどるだろう。史実を物語に優先させるのなら、「徳川綱吉を討つべきだった」という評価から逃れることはできない(だから歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』では、このへんの経緯をすっかり創作している)。しかも忠臣蔵は自爆テロリスト賛美という点でも問題がある。
 ちなみに私は、清水次郎長も忠臣蔵も野口英世も大嫌いなので、こういう変化は大歓迎である。世の中は年々よくなっている。

Posted by hajime at 2004年09月07日 09:01
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