2005年05月17日

単純な人々

 エレーナ・ボンネル『サハロフ博士と共に』を読んだ。

 もう20年も昔のことを、誰が覚えているだろう。ソ連の水爆研究を指導した物理学者アンドレイ・サハロフは、水爆実験の成功から約10年後、核軍拡に反対して平和活動に乗り出した。さらには「民主化」というあの永遠のテーマに触れ、党の敵対者となった。

 高度な機密情報と高い地位を併せ持つサハロフを、あっさり殺そうとしなかったのは、ソ連が飛躍的に進歩したことの証明だった。ソ連は、民主的な政府を持つところまではたどり着けなかったが、殺人をためらうところまでは行けたのだ。

 殺人をためらうことはあっても、人権侵害にはなんの躊躇もない。サハロフは、24時間年中無休でKGBに干渉(「監視」というのはあまりに穏やかな表現だ)されて過ごすことになった。サハロフの妻エレーナ・ボンネルも、サハロフと運命を共にした。干渉下に置かれただけでなく、サハロフ・バッシングのための道具としても使われた。

 本書は1986年、サハロフが干渉から解放される直前、ボンネルが心臓等の手術のため西側に出国した際に書かれた。滞在期間のわりに厚い本で、構想ゼロでとにかく書いたという様子が、文章からもありありと窺える。

 しかし本書の最大の見所は、KGBでもなく民主化闘争でもない。168ページから引用する。長くなるが、どうか目を通していただきたい。

 こうしたアメリカ人の多くは、軍縮や戦争と平和などの問題について率直に意見を言う。核の冬、スターウォーズ、公害について話す。人類を待ち受けるあらゆる恐怖について。みな、それぞれの分野で有能だ。あるいは、自分が無能だと感じる私たちなどから見ると、有能に見える。けれども実際、会ってみると分かるが、彼らの本当の関心は生活にある。もちろん、その他の問題にも関心をひかれている。彼らは未来について――それが自分個人のであろうと、人類全体のであろうと――何の恐れも抱いていない。こうした人々は、核戦争に異議を唱える医師でもなく。軍縮について非政府レベルでの話し合いを続ける科学者でもなく、大勢いる専門家でもなんでもないのだ。彼らはこうした恐怖についてひっきりなしにしゃべり、書く。ほとんどプロといってもいいようなやり方で、ときには、本来の仕事を忘れてまで。だが日常生活においては、自分たちの話すことにちっとも頭を悩ませたりはしていない。きちんと仕事を持ち、ずっと先の休暇プランを立てている。家の購入や改装、税金が控除になるような新しい保険といったこと。家での朝食、ビジネスランチ、奥さんや友人との夕食。彼らの生き方が私は好きだ。

 それに彼らは、ぐっすりとよく眠る。自分たちが何百万人という他人の眠りを妨げ、破壊していることに気づいていない。その意味では医師は特に興味深い存在だ。彼ら自身が何と言っているかは知らないが、世の中には不眠症や神経症、そうした病気すれすれの症状が蔓延している。医師たちは、そういった症状を作り出したとはいわないまでも、その活動は確かにそういう状況を支えている。ゴーリキーで、郵便局で働くある女性が私に言ったことがある(まだ私たちが人々に話しかけることを許されていた時代だ)。彼女は自分のワンルームのアパートを改装し、新しいじゅうたんを買おうと思っていると。だがしばらくして彼女は、「でもそうする甲斐があるかどうか分からない、もうすぐ戦争が起きるというから……」。

 もしかしたら、ここアメリカでは、いわゆる単純な人々は(彼らのどこが単純なのだろうか、と私は不思議に思うが)、あの女性と同じように、じゅうたんを買っても意味がないと思うかもしれないが、インテリはそうは考えないことは確かだ。面白い現象だが、これを理解しようとするのは私の仕事ではない。

 確かにそれは、エレーナ・ボンネルの仕事ではない。私の仕事だ。

 「じゅうたんを買っても意味がない」という思い。そのような思いがあったという歴史的事実は、もうなかば忘れられている。もう誰も、そんな思いをかきたてようとはしないからだ。冷戦を知らない子供たちには、この思いを真剣なものとして捉えることは絶対にできない。おそらく今から100年も過ぎれば、カルトが使うあのおなじみのパターン、「世界は滅亡するが義人(=私たち)だけは救われる」パターンと混同されてしまい、「じゅうたんを買っても意味がない」という思いの内実は永久に失われてしまうだろう。

 私は、命あるかぎり、「じゅうたんを買っても意味がない」という思いの側に立つ。私は冷戦の最後の生き残りだ。

Posted by hajime at 2005年05月17日 01:34
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