資本主義が崩壊して共産主義の至福千年が訪れた暁には、人々は、善と悪をよりわけるように、経済学と会計学をよりわけるようになるだろう。
いまはまだ、きわめて賢い人々でさえ、経済学と会計学の区別があまりついていない。たとえば「減価償却」という概念は会計学のものであって、経済学ではほとんど意味を持たない。が、きわめて賢い人々のなかにも、これがとっさにはわからない人々が多い。
原理的には、経済学と会計学の違いは明らかだ。会計学は金の動きを扱い、経済学は人間の生産・消費活動を扱う。だから会計学には「限界効用」という概念はない。それは金の動きではないからだ。
「不労所得」という概念はどうか。これは今でも議論のあるところだが、私見では、知的財産権によるものや宝くじのようなものを除けば、真の不労所得はほとんど存在しない(だから世界一の大金持ち(ビル・ゲイツ)の収入は知的財産権によって支えられているわけだ)。いわゆる「資産運用」なるものは、「資本+労働=生産」の図式にぴったりはまっている。
(ここには逆向きの罠もある。株の短期売買はずいぶんな労働に見えるが、実際はなんら労働ではなく、生産もない。知見を磨いて銘柄を選び長期保有するのは、間違いなく生産的なことなのだが、どういうわけか人は、こういう本物の知的労働よりも、他の馬鹿と度胸比べをするほうを好むものらしい)
労働に比して生産が大きすぎるように見える? その直感に、マルクスも惑わされた。が、21世紀の農業技術に支えられた農民は、中世の平凡な領主(けっして楽な仕事ではないが)よりも多くの富を生み出す。資産運用の収益を不労所得をみなすのは、経済格差のもたらすルサンチマンを帳簿に投影しているにすぎない。
「不労所得」に関するこのような見解は、いわゆるブルジョア経済学によるものであり、金持ちに都合のいいように偏向している、とも言われる。裏を返せば、金持ちはこういう理屈で不労所得を正当化するので、「資本+労働=生産」の図式を押し出すにきまっている。
さて本書である。
金持ち父さんの教育を通じて「金持ちの発想を教える」という体裁をとりながら、「不労所得」という概念を恥ずかしげもなく持ち出している。この言葉自体は出てこないが、著者のいう「資産」が「不労所得を生み出すもの」であることは明白だ。まぎれもなく貧乏人の発想である。なるほど、「47才で引退」などと馬鹿げた自慢をするわけだ。貧乏人の著者は知らないらしいが、金持ちは知っている――たいていの人間は、金があってもなくても働くものだし、それならば、よい仕事を長く続けるほうがいい。
貧乏人のルサンチマンを帳簿に投影するため、著者の発想は、経済学ではなく会計学にある。経済学は人間活動の全体をカバーする学問だが、会計学がカバーする範囲は金の動きに限られている。経済学に別のものを投影して嘘をつくのは難しいが、会計学ならそれが簡単にできてしまう。本書のいう「資産」のように。
「測定できないものは管理できない」という法則を覆せないかぎり、会計学はこの世に欠かせない。が、測定と管理の限界は、人間活動のすべてではない。そこを(おそらくは意図的に)ごまかすと、本書のようなルサンチマン・プロパガンダが生まれる。会計学の原理をきちんと理解していれば、このごまかしは自明なのだが、人々はまだ、会計学と経済学の違いをよく理解していない。同様の例として、ソーシャル・ダーウィニズムがある。明らかに馬鹿げたプロパガンダだが、70年前には影響力があった。
Googleで「金持ち父さん」を検索してみると、どういうわけか、マルチまがい商法の勧誘が数多くヒットする。まことに本書にふさわしい現象だ。