旅にしろ書物にしろ、見聞を広めてゆくと、自分には理解できないものに出会う。その出会いこそが、見聞を広めることの魅力だ。
『自分には理解できないもの』というだけなら、見聞を広めるまでもなく、そのへんにいくらでもある。ただ、日常生活のなかでは、そういうものに気づくことが難しい。
たとえば20世紀初頭まで人類は、太陽のエネルギー源を知らなかった。だが、太陽を見上げて、「理解できない」と感じ続けるのは難しかっただろう。いつか、太陽のエネルギー源についての科学史を調べてみたい。
理解できないものは、いわば世界の窓だ。窓が開くかどうか――理解できるかどうかは、それほど大きな問題ではない。窓が存在する、ということが重要だ。窓は、世界の広さを教えてくれる。
最近の私のヒットは、「寝取られ」である。
これはどうにも理解できない。理屈はあれこれ聞いたが、理解できない。資質がないのだろう。
*
「…だから?」
確かに、嫌われているわけではない。散歩につきあってほしいと頼まれるくらいには、いい感情を持たれている。けれど、それが、なんなのだろう。
「その、慕うというのは、恋愛感情という意味です」
なるほど。私はため息をついた。
陛下は独占欲が強い。あまりに強いので、ときどき、やりきれない思いにさせられる。
私が友達から猫を預かったときのことだ。アーネストという名前で、珍しい種類の猫だった。世間話の折りに、その猫のかわいさについて申し上げた。私の留守中になにもなければよいのですが、とも。そのあと陛下は、事あるごとに、『アーネストのことが気になる?』とお尋ねになった。
陛下は私の関心をひとりじめなさりたかったのだ。私が何度、陛下のことが最優先と申し上げても、ご下問はやまなかった。猫が飼い主のもとに戻るまで、それは続いた。
「そういうの、私もやられたことがある。友達から猫を預かって――」
私は猫のことを話して聞かせた。けれど緋沙子は、暗く答えた。
「その程度のことでしたら、設楽さまを煩わせません。設楽さまを避ければ済むことなら、そうします」
「――今日ここにきたのは、陛下のお言いつけ、だったよね」
独占欲だとしたら、矛盾している。
「はい。
陸子さまのお考えでは、私は、……設楽さまを、気持ちのうえで慕っているだけでなく、……身体の結びつきもあるはずだ――ということになっています」
「それは、本気でそう思ってる? つまり、頭のおかしい人みたい?」
もし精神疾患なら、それ相応に対処しなければならない。
「いいえ。
私が事実を申し上げると、陸子さまはおっしゃいます。『そりゃわかってるけど、想像してみて』。そうして、設楽さまの魅力を滔々と語ってくださいます。
そのあとで、お尋ねになります。設楽さまについて、――きわめてプライベートなことを。身体の結びつきがある間柄でなければ、知りえないようなことを」
「……背中にいくつホクロがあるか、とか?」
緋沙子は、私を見下したように顔を後ろにそらせ、眉を寄せた。陛下のお言葉が思い出された。『ひさちゃんなんか露骨だよ』。こういうことか、と思う。
「それよりも数段、口に出すのが憚られるようなことです」
その言いように私は挑発されてしまった。
「私が信用できないなら、打ち明け話なんかしないでちょうだい」
「では、申し上げます。
陸子さまは私の手をお取りになって、ご自分の胸やお尻に持っていって、そこを触るようにとおっしゃいます。
そうして、お尋ねになります。『ひかるちゃんのここは、どうだった?』。私が事実を申し上げると、『想像するの。私はいっつも』――」
緋沙子は、ぱたっと口をつぐんだ。しまった、という顔だった。
「陛下への気遣いは、私がします。緋沙子さんは、自分のことだけ考えて決めて。言うべきかどうか」
「では、申し上げます。
『私はいっつも想像してるよー? 私、ひかるちゃんの裸も見たことないの。ひかるちゃんは私の裸なんて、しょっちゅう見てるのにねー。ひさちゃんはぜんぶ見たんでしょ? いいなー。どうやってひかるちゃんをかわいがってるの?』。
――陸子さまは、こういったことをおっしゃいます」
彼女の話は、私の心臓に響いた。頬が赤くなるのを、どうしようもない。
自分の体の反応に気づかないようなふりをして、私は、
「……教えてくれて、ありがとう。
できるだけ緋沙子さんの望みがかなうようにします。どうしたい? やめたいわけじゃ、ないんでしょう?」
「私よりも設楽さまのほうが、陸子さまのことをよくご存じだと思います。陸子さまにいいようにしてください。
ただ私は個人的に……その――」
緋沙子の頬が染まった。おかげで、自分の頬の赤さが、あまり気にならなくなった。
「いまさら遠慮するようなことなんてないでしょう。なんでも言って」
「――陸子さまのお申しつけくださるように、設楽さまの不埒なありさまを想像しても、よろしいで……」
「そこで恥ずかしがらないで! プレッシャーかかるじゃない。
だいたい緋沙子さん、私にこんな話きかせて、どうしてほしいの? 陛下とのトラブルは橋本さんに言うことでしょう? 想像なんて、私に黙ってすればいいじゃない、陛下だってそうなさってるんだから。
私は――」
しまった、と思った。
緋沙子の、いまにも泣き出しそうな瞳。
それは頬につたう涙よりも涙らしいと思う。
「――そういえば私、ひさちゃんのこと、なんにも知らないな。
ひさちゃんは頑張ってるから、大人に見える。私よりも大人じゃないかって思うこともある。尊敬してる。陛下がひさちゃんのこと好きなのも、当たり前だと思う。
ひさちゃんが大人に見えるから、つい、甘えちゃった。いけなかったね。ごめん」
緋沙子はうつむいてハンカチを目にあてた。
私は、その顔を見てはいけないような気がした。席を立ち、彼女の後ろにゆく。
両腕を、彼女の胸に回す。
しばらくして、ハンカチをポケットに戻すと、緋沙子は私の手を握って、
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「……設楽さまはさきほど女中頭のことをおっしゃいましたが、女中頭は私をやめさせたがっています。こんなことは打ち明けられません。
陸子さまのなさったことが、国王という立場に照らして許されるものかどうか、私にはわかりません。もしまずければ、陸子さまにとっていいようになさってください。
もし許されるものなら、私はこのまま陸子さまにお仕えしたいです。ああいう……親密なお振る舞いには、とまどうこともありますが、嬉しく思います。
ただ、設楽さまのことを、隠れてあんな風に……ダシにするのは、気が……とがめました。設楽さまはこんなによくしてくださるのに。でも、そういう問題ではないんですね。
……でも結局は、話を……話を、きいてほしかっただけです。誰にも言えないのが……辛かっただけです」
「公邸に戻りたくなった?」
「……はい」
迷いが、声に出ていた。
「仕事の帰りにいつでも、うちに寄っていって。話相手が私でよかったらね」
「ありがとうございます」
その日の夜は、緋沙子はやってこなかった。
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