蕎麦が日本の専売特許ではないように、温泉も日本だけの名物ではない。
チェコやハンガリーの温泉に行きたいと思ってから、はや10年。なのに、スーパー銭湯にさえ行ったことがないのは、どういうわけだろう。
*
会議室にソファなどを入れた部屋が、控室にあてられていた。日曜日に連絡のあったとおり、衝立がやけに多い。窓だけでなく、出入り口まで二重に目隠ししている。かえって危険なので、いらない衝立を取り払わせた。
警護部職員は廊下を見張る。控室には陛下と私だけになる。
お茶をいれてさしあげ、一息ついてから、私は陛下に申し上げた。
「私の笑いかたが足りなかったようです。お詫び申し上げます」
「そーだそーだ。ひかるちゃんのせいなんだからね」
陛下はむくれておられた。といっても本気ではない。
「どこか痛むところはございませんか。お髪も整えねばなりません」
そういう私の髪も、シニヨンが崩れて、ひどいことになっている。
「腕が痛いなー。ひかるちゃんが乱暴にしたから」
「拝見します。お召し物を――」
言いかけて、気がつき、その先が言えなくなった。
「賜りたく?」
「腕を拝見するには、お召し物が邪魔でございます」
「そう? こっちのほうが気になるんじゃない?」
陛下はブラウスをつまんで示された。私はそれには構わず、陛下の前にひざまづいて、ブラウスのボタンに手をかけた。
そのとき、ノックの音がした。私はしぶしぶ迎えに出る。
ドアを開ける前に訊ねる、
「確認します」
「警護部の村田です。こちらの所長がご面会です」
私はドアを開けて、所長に告げた。
「護衛官の設楽と申します。さきほど警護のトラブルがあったため、いまはお通しできません。まことに勝手ですが、30分ほど後にお願いできませんか」
「その件もありまして参上しました」
所長のいうには、この市民ホールには温泉がある。今日は国王演説のため休業だったが、予定変更をきいて開けさせた。もちろん客は入れていない。ぜひ国王陛下にご入浴いただきたい――とのことだった。
「陛下にお伺いします。お待ちください」
と言うなり陛下は、
「入る!」
「――とのことです。ご好意にあずからせてください。
村田さん、経路の確保を」
その温泉というのは、小さな田舎町の市営施設としては豪華だったが、いわゆるスーパー銭湯と比べると、かなり見劣りした。壁が八犬伝のステンドグラスになっているのだけが物珍しい。湯は透明で匂いもない。
私は浴室の状況を確かめると、脱衣場の陛下にご報告申し上げた。
「安全を確認いたしました」
「はーい」
陛下はそうおっしゃったものの、お召し物を脱ごうとはなさらない。
すぐに私は気づいて、陛下のお召し物を脱がせてさしあげた。入浴のお世話をしたことはなかったので、一瞬わからなかった。
痛いとおっしゃっていた右腕は、目で見たかぎりでは、内出血などはなかった。それに、多少痛くても、こればかりは耐えていただくほかない。小銃弾に当たれば死を免れない。
「痛むのはどのあたりでしょうか?」
「ありがとう、もう大丈夫だよー。ひかるちゃんのおかげだね」
「光栄です」
下着の上までは、いつもお召し替えのお手伝いをしている。が、その先は初めてだった。
陛下が好んでお召しになるような華やかな下着は、手に触れるだけで、なにかが起こりそうな気がする。ショーツをカゴの中に入れたときには、爆弾を処理したような気分だった。
メイクを落とすのは陛下ご自身でなさる。私はその背後をお守りする。メイク落としが終わると、陛下は、
「ひかるちゃんも入るんでしょ?」
「私は――」
警護がある。
「入りなさい」
その、お声とまなざしに。緋沙子から聞かされた話を思い出して、私は思わず、身をすくめた。
陛下はすぐにそのまなざしを、優しい微笑みで隠された。
「命令しちゃった。ごめんね」
「かしこまりました」
私は携帯で本部にかけた。左手で携帯を操作しながら、ふとカゴの中の衣類が目に入る。何気なく、開いた右手でストッキングをとり、胸の前に持ってきた。
私も陛下に伴って入浴することを手短に告げ、電話を切り、顔を上げると――陛下はまだそこにおられた。一糸まとわぬお姿が目に入り、あわてて目を伏せる。
「ひかるちゃん、右手になに持ってるの?」
ご下問の意味がわからなかった。誰がどう見ても、陛下のストッキングに決まっている。
「陛下の――」
血の気が引いた。
「お許しください」
「ひかるちゃん、顔を上げて」
あの視線、いつもよりもまぶたの下がった目が、私を見つめている。
おかげで私はいくらか救われた気がした。私の醜態を、陛下は楽しんでくださっている。
「……たぶん、ひかるちゃんのそれって、直らないんじゃないかと思うの。
でも、悪いことしたんだから、おしおきしなきゃ、いけないよね。
それとも、しょうがないからって、あきらめてほしい?」
「いえ――」
「どうしてほしい?」
「どのようなお仕置きをくださっても、ありがたく励みにさせていただきます」
「……本当に、どんなおしおきでもいいの?」
「はい」
体が震える。冷や汗の出るような震えかたではなく、武者震いのような、いまにもはじけそうな。もし陛下の指が私の身体に触れたら――そう思うだけでまた震えがくる。
「そう?」
少し思案なさってから陛下は、
「譴責。今度は気をつけてね」
そうおっしゃって、すぐに浴室に入ってしまわれた。
私はまず拍子抜けして、それから、泣きたいような不安に襲われた。
私にまったく進歩がないので、それどころか悪くなっているので、あきれてしまわれたのだろうか。努力で取り戻せることなら、努力する。けれど、これは、努力でどうにかなるものなのだろうか。
涙はなにも解決しない。拳を握りしめて不安をこらえた。服を脱ぎ、化粧を落として、浴室に入る。
陛下は、湯舟の奥にある一段浅いところにおられた。半身浴の格好だ。私は陛下から3メートルほど離れたところで、肩まで湯に漬かる。
気まずいので視線をそらしていたかったが、護衛官には許されない。陛下はステンドグラスをご覧になっているので、視線の圧力を感じずに済んだ。
陛下は、あまり親密でない相手には積極的に声をおかけになるが、親しい相手からは話しかけられることを好まれる。この場合も、話しかけるのは私だ。
気まずいついでに、例の話題を切り出してみた。
「昨日、私の家を、平石さんに掃除してもらいました」
「知ってるよー」
「陛下が平石さんを選んでよこしてくださった、と聞きました」
「うん」
「それで私は不思議に思いました。どうして陛下は、せっかくの日曜日を、平石さんとご一緒に過ごされないのか、と。それとなく訊ねてみると、平石さんは、陛下のお顔を拝するのが辛そうな様子でございました」
嘘をついてしまった。けれど、こう言わないと、緋沙子が告げ口したかのように聞こえてしまう。
「……前置きはあとで聞くから、結論は?」
「恐れながら申し上げます。
もし平石さんの話が本当なら、陛下がなさっていることは、性的虐待です。たとえ陛下にはそんなおつもりはなくても、事実としては、平石さんの意に沿わないことを強いておられます。少なくとも私の耳には、強制があるように聞こえました。
平石さんは陛下のことをたいへん慕っておりますので、いますぐに問題になることはないでしょう。ですが陛下には、御身のお立場をわきまえてくださるよう、お願い申し上げます」
「ひかるちゃんは、ひさちゃんの味方なの?」
私は陛下のお顔をうかがった。いつもの陛下だった。表情が冷たかったりもしない。
「私は自分の信じたままを申し上げております」
「……性的虐待って、どんなところが?」
「平石さんに命じて、お身体を――胸などを触らせたことはございますか?」
「ひさちゃん、喜んでたよ?」
「そのような面もあるかと思います。平石さんの話を聞くかぎりでは、彼女の気持ちはもっと複雑のようでした」
「複雑って、どんな風に?」
私はゆだってきたので、湯舟のへりに腰かけた。
「陛下のお気持ちそのものは、嬉しく思っているようです。ただ、やりかたに問題があるようです。
事実に反した空想を共にすることを、彼女に強いておられる――そのように聞きました」
「ひかるちゃんの言ってること、難しくてわかんなーい。もっとやさしく言って」
陛下はまったく普段どおりであられた。
「空想というのは――」
そのとたん、陛下の視線が、まるでスポットライトのように、私に降りかかってきた。いつもよりまぶたの下がった、あのまなざしではない。いっぱいまで見開いた、興味津々、というまなざしだった。
私はその視線に身をすくめて、腰に腕を回した。
「私と平石さんが特に親しい、というものです。そういう設定を平石さんに押し付けて、その設定どおりに振舞うよう強いておられる――そのように聞きました」
「特に親しい、って?」
「……互いに身体を触れあって喜ぶような間柄、という意味です」
陛下は、なにか企みがありそうに微笑まれた。
「ひかるちゃんは、ひさちゃんが嘘ついてるかも、って思わなかった?」
「陛下は、嘘つきをお側に置くようなかたではございません」
「あーっ、今度は私のせいにするんだ。ずるーい」
それは鋭いところを突いていた。自分の信じたままを申し上げる、と啖呵を切った手前、こんな責任逃れはすべきではない。
「……陛下のおっしゃるとおりでした。お赦しください。
平石さんの言葉には、説得力がありました。ほかに説得力のある材料がないかぎり、彼女が嘘をついていると考えることはできません」
「ひさちゃんは嘘つきだよ――って言ったら、どう?」
「陛下のお言葉の説得力によっては、考えが変わるかもしれません」
「変えて。ひさちゃんは嘘つきなの」
いつもの陛下だった。苛立ちも、気負いもない。
私は絶望を感じた。陛下は、こんなかただったのだろうか。こんなに不誠実な、人を苦しめて悔やまないような。
そうかもしれない。先日の、外房のホテルでも、陛下はおっしゃった。『ま、そうなったら、ひさちゃんには辞めてもらうけどね』。
きっと私は、陛下の美しい面にばかり目を向けてきたのだ。
「出過ぎたことを申し上げました。お許しください」
「ひかるちゃんのはだかって、いままで見たことなかったなー」
唐突に話題が切り替わったので、一瞬、陛下がなにをおっしゃっているのか、わからなかった。
「ひかるちゃんは私のはだかなんて、しょっちゅう見てるのにね」
「――いまのお言葉は、平石さんから聞いたものと、そっくりです」
私の声は、自分でも驚くほど、低かった。けれど陛下は、唇の両端をつりあげて微笑まれ、おっしゃった。
「ひさちゃんは嘘つきなの」
「恐れながら陛下――」
「ひかるちゃんは、ひさちゃんの味方なの?」
さきほどと同じご下問だった。今度は、おっしゃることの意味が、逃れようもなく迫ってくる。
「はい。私は平石さんに肩入れしております。平石さんが事実を言っていると思うからです」
陛下はすぐにはなにもおっしゃらない。湯舟の中で立ち上がって歩まれ、私の隣に腰を降ろされた。
湯につかった肌の熱を、肩に感じる。長いこと湯舟のへりに腰かけていたせいで、私の肩はたうぶ冷えていた。
その熱に、衝動を呼び覚まされる。こんな時に。
「ひさちゃんは辞めないよ。ひかるちゃん以外の誰にも言わない。だから、ひさちゃんは嘘つきなの。わかる?」
「わかりかねます」
「嫌って言うだけで戦わない人は、嘘つきだよ。ひさちゃんは戦わない。弱いふりして、ひかるちゃんをたぶらかしてるだけ」
「平石さんは子供です!
それに、彼女が相談できる相手が、たまたま私しかいなかっただけです。私が責任ある立場の人間で、この件を慎重に扱うとわかっていたから、打ち明けてくれたのです。
それに、……恐れながらお願い申し上げます。どうか、平石さんのことを悪しざまにおっしゃるのは、おやめくださいますよう。彼女は私の友人です」
私が訴えているあいだに、陛下は湯舟から離れて、洗い場へと進まれた。私はそのあとにつき従う。
「シャンプーして」
仰せに従い、私は陛下のお髪を洗った。洗髪のお手伝いは初めてだった。肘まである長い髪を、毛先から根元へと泡立ててゆく。泡立つ様子は目にも楽しく、お世話をしている、という気分にひたれる。公邸でこの役を仰せつかっているメイドがうらやましい。
「……ひさちゃんはね、私のことが好きだって言ってくれたの」
「存じております」
「TVのあれだけじゃなくて、たくさん。
なのに、ひさちゃんを子供扱いして、いいのかな。私は、そんなことできない」
陛下はけっして中庸を知らないかたではない。お心をひかれない事柄にはいつも、バランスのとれた穏当なやりかたをなさる。ただ、いったんお心をひかれてしまうと、求めるものへとまっすぐに進んでしまわれる。
私はしばらく考えて、申し上げた。
「母親のするようなことを、平石さんにしてほしい――陛下のおっしゃったことです。では陛下も平石さんに、母親のするようになさってはいかがでしょう」
「したいなー。おっぱいあげたりとか」
緋沙子に授乳する陛下の図を思い浮かべて、私は言葉を失った。ありそうもないことなのに、生々しい。
「あ、ひかるちゃん、そういうの感じるんだ?」
「いえっ!」
声が半分裏返ってしまう。
「私はねー、感じるっていうより、あこがれるよ」
陛下は子供の家(孤児院)のお育ちであられる。それも、出生直後に捨てられていたという。
「…………」
あいにくお乳は出ませんが、もし私でよろしければ――と、喉まで出かかった。けれど、言えない。たとえ冗談でも、相手が私では、陛下の憧れを汚してしまうのではないか、と。
お髪のシャンプーを流し、コンディショナーをつけて流す。お髪を結わえ上げる。
公邸の慣習で、身体を洗うのはお手伝いしないと決まっている。私は申し上げた。
「これから私は自分の髪を洗いますので、しばらくご用を承れません。なにがございましたら――」
「ひかるちゃんの髪、洗わせて」
それで私と陛下は席を入れ替えた。
「ひとの髪にシャンプーするなんて、初めてだなー。ひかるちゃんは、どうだったの?」
「私も初めてでございました」
「面白いね、これ。自分の髪をシャンプーしてるときは、どんな風になってるのか見えないでしょう。あー、こうなってるのか、って」
「おっしゃるとおりです」
「そういえば――」
陛下は私の腰に腕を回して、へその近くの贅肉を、指でつままれた。私は飛びあがりそうになって、腕で腰を覆った。
「ひかるちゃんて、胸とかお尻じゃなくて、お腹を隠すよね。どうして?」
「存じません!」
私の腕の下で、陛下の指があいかわらず贅肉をつまんでいる。
「女の子って、一番自信のないところを隠すんだって。でも、ひかるちゃんのお腹って、スリムでいいなーって思うんだけど?」
今度は脇腹に指が触れて、また飛びあがりそうになる。
「存じません! お戯れはお止しください!」
「はーい」
陛下は洗髪の続きに戻られた。
「――あ、そうだ、ひかるちゃんのウエストって、スリムだけど、くびれてないんだね」
図星だった。
「ふっふー、私はウエスト55センチだよ」
「陛下のお姿さえ美しくあらせられれば、私は幸せです」
「そういう言い方って、愚痴っぽいよねー?」
「……では、陛下にお許しいただけるのなら、自分の体型も苦ではございません」
「許してほしいんじゃなくて、かわいがってほしい、でしょ?」
陛下のお手が、両の脇腹を撫でた。全身が、ぶるっ、と震える。
「それは望外の幸せでございます」
「そうそう、その感じ。そうでなくっちゃね」
会話が途切れた。シャンプーを流して、コンディショナーをつける。
「――ひかるちゃんの自信ないところ、わかっちゃったから、私の自信ないところ、教えるね。
私は、背が低いのが嫌」
それは、前々からなんとなく感じていたことだった。
どこがどう、と言えるような素振りは、なさったことがない。本当に、なんとなくだった。陛下は、表に出したくない感情を、ほとんど完璧に隠してしまわれるかただ。
「そのおかげで、私の細腕でも、陛下のお身体を抱き上げてさしあげられます」
警護対象を、肩に担いだりせず、両腕で抱え上げて移動できること。護衛官としての最低限の能力だ。
「腕で抱え上げるって、それ、お姫様抱っこ?」
「ええ」
「これ終わったら、湯舟まで運んで!」
「かしこまりました」
コンディショナーを流し、髪を結わえ上げていただく。
「陛下は座ったままでいらしてください」
大きく息を吸い込んで、気持ちを集中させる。両腕で、陛下のお身体を支える。気を失ってぐったりした身体よりはずっと楽だが、それでも大仕事だ。
ゆっくり、のしのしと歩くのは、かえって難しい。狭い歩幅で、素早く移動する。湯舟のなかにお身体を預けると、さっき地面にぶつけたばかりの背中が痛んだ。
そんな私の苦労をご覧になってか、陛下は、
「お姫様抱っこするのって、大変なんだね。知らなかった。ごめんね」
「いえ、貴重な経験をいたしました。訓練はしておりますが、陸子さまのお身体で試したことがございませんでしたので」
緊張が緩む。
ふと――どうしても、そうしたくなった。
私は湯舟に入り、陛下のお身体を抱きしめた。離れ際に、ごく短く、唇を重ねる。
「――不調法をお詫び申し上げます」
湯舟から上がろうとすると、
「……これで終わり?」
「いいえ。続きはいずれ、よい日を選んで、と考えております」
「ひさちゃんで練習してから?」
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