ある有名な小説に、こんな場面がある。
ある男が、爆弾を仕掛けたあと、走り去ろうとする。爆発までの時間がごく短いので、走って逃げなければ、彼自身も爆発に巻きこまれてしまう。
走ろうとした瞬間、彼は考えた。『走る』というのは、どういう足の動きだっただろう? その途端、彼の足は、走ることを忘れてしまった。
*
私は考えた。考えようとした。
まず、内容の乏しいことを言って、時間をかせぐ。
「私は、陛下と言い争いをする身ではございません。どうか、お気持ちをおっしゃってください。私は陛下のお気持ちが安らかになるようにいたします」
「私の気持ち? 安らかだよー? ひかるちゃんのおかげだね」
どう応じるべきか、まだわからない。私はなにか月並みなことを言おうとして、馬鹿げたことを言ってしまう。
「光栄です。では恐れながら申し上げます。
私と平石さんのあいだには、陛下が想像なさっているような関係は一切ございません。そのようなお疑いで陛下のお心を曇らせたのは、私の不徳の致すところと――」
「曇ってないよ? 楽しいよ?」
これで時間稼ぎは品切れになった。私は、思ったままを言おうとした。
「平石さんは私の――」
言いかけて、きのう自分で言ったことを思い出す。『想像なんて、私に黙ってすればいいじゃない』。
取り消したかった。緋沙子は、私への友情のために、想像することを拒んだのだ。私がいま、拒もうとしたように。
「ひかるちゃんの、なに?」
「――友人です。いかに陛下をお慰めするためとはいえ、友人をだしにするような真似はいたしかねます」
そのとき陛下が凍りついた、ように思えた。
普段どおりのお顔のままで、ただ、その動きだけが止んだ。
時間にして、3秒か、10秒か。
そして陛下は奇妙に微笑まれた。
「もし私が、すごくて悪い独裁者だったらね。ひかるちゃんを、薬漬けにして、洗脳しちゃうかも。ひかるちゃんが逆らわなくなるように」
そうおっしゃって陛下はお顔をそらされた。
「そんなこと、したくないんだけどね。でも、しちゃうかもしれない。できなくて、よかったなー」
そのお言葉に私は――欲情した。
くちづける。深く吸う。
「……そのようなご想像なら、ぜひご一緒しとうございます」
陛下は腰を上げて、湯舟のへりにお座りになった。私の手をとって導き、命じられた。
「いかせて」
私は仰せに従った。
事を果たしたあと、唇を重ねて、離す。
「――ひかるちゃん、――」
ため息で紡がれたような言葉を切って、陛下は、私の目をじっとご覧になる。
「はい」
「――続きはいずれ、よい日を選んで、ね」
私の腕の中で寛いでおられたお身体が、しなやかに張り、私の腕のなかからするりと抜け出す。陛下はそのまま洗い場へとゆかれた。
私は、ぽかんとして、ただお姿を目で追っていた。
そのうちに、疑問が湧き起こり、心をふさぐ。
陛下のお心は安らかであられるだろうか?
陛下をお慰めすることができたのは嬉しい。けれど私は、慰めよりもよいものを、陛下に楽しんでいただくべきではなかったのか。
もし私が、あの異常な癖を、隠し通せていたら。この入浴はもっと、気の置けない、安らかなものになったのではないか。
「ひかるちゃん、背中流して」
「はい」
その疑問を、私は捨ててしまう。行動中にしてはいけないことの第一は、反省だ。
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