王侯や貴族などの格は、どうやって測ればいいだろう。同じ国の貴族同士なら比較もできるが、国や時代が異なるもの同士で、格を比較することはできるだろうか。経済学的な測定方法を思いついたので、ここに提案する。
測定対象となる王侯貴族に仕える人々の、雇用条件をみればいい。民間の雇用条件と、どれくらい違うか。
もし民間より悪ければ、その王侯貴族に仕えることには、給与や待遇以外の価値(プレミアム)があると考えられる。「貴族すごい」という感情が、悪条件を埋め合わせるわけだ。
もし民間より良ければそれは、プレミアムがないことを示す。「貴族すごい」という感情を、金で買っているわけだ。
私の知るかぎり、いわゆる民度が低くて政情不安定な国・地域ほど、雇用条件が良くなる傾向にある。
*
脱衣所の安全を確認するため、私は先に浴室を出た。
壁にはコインロッカーと化粧台が並び、エクササイズマシンがいくつか置いてある。変わったことはなにもない――と一瞬思った。
お側仕えのメイドがいた。
美容副担当の宮田さん。警護用無線のイヤフォンをつけている。演説用のメイクを施すために遣わされたのが、私が脱衣所を空けてしまったので、警護の穴埋めに駆り出されたのだろう。
ぎこちなく肩をすくめながら、彼女は申し訳なさそうに笑った。
「設楽さま、お勤めご苦労様です」
「宮田さんもご苦労様です。いつからここにいらっしゃいましたか?」
「まあ、その…… 30分ほど前です」
すべて聞かれている。
「いろいろなことがお耳に入ったと思いますが――橋本さんに報告なさいますか?」
女中頭は公邸内の非公式な人間関係に責任を負っている。つまり、それに関する報告を部下から受ける。
「それも仕事ですので…… ご勘弁ください」
「宮田さんこそ、お気になさらず」
この会話は、陛下にも聞こえているはずだ。私は陛下に脱衣所の安全を告げた。陛下は何事もなかったように、すたすたと歩まれて、
「こんにちはー、宮田さん。今日もよろしくねー」
「陸子さまにあらせられては、本日もご機嫌うるわしう」
宮田さんはお髪を乾かしにかかった。私も自分の世話にかかる。
*
事の反応はしばらくなかった。
月曜日、火曜日と、公邸では橋本美園に会うこともなく、また緋沙子はそもそも出勤日ではなかった。陛下の私へのお振舞いもお変わりなかった。
水曜日の夜9時に、それはようやく忍び寄ってきた。
私は自宅で、少女まんが雑誌を読んでいた。私はまんが家くずれだが、まんがの読み方が人と違うということはない、と思う。ただ、かつてアシスタントをしていた作家の作品を読むと、背景やワク線に昔を思い出してしまう。
そこへ、なんの前触れもなく、玄関の呼び鈴が鳴った。
普通の家では呼び鈴は前触れなく鳴るが、この護衛官官舎ではそうではない。すべての通行は公邸周囲の検問で調べられ、もし用の相手が護衛官なら、確認の電話が先にくる(そして私が通販で買ったものは、この電話で許可を得たうえで、すべて開封され検査される)。それがないということは、訪問者は検問線の内側からきたか、あるいは検問をすりぬけてきたということだ。
玄関のモニターTVを見ると――緋沙子だった。なにやら両手に荷物を抱えている。
玄関を開けると、
「夜分に突然お邪魔して恐れいります。これだけはどうしても今日さしあげたくて参りました」
そういって緋沙子は花束を差し出した。薔薇やスミレのような有名な花ではない。花に疎い私には、その花の名前がわからなかった。
「先日のお礼です」
「…ありがとう」
「それと、こちらはお土産です。ヤクモのスイーツです」
これは私も知っている。高級な洋菓子だ。1個400円くらいする。
花束も安いものではない。中学生のときの自分の懐具合を思い出して、私は不安になった。
「お金、大丈夫なの?」
「いま時給4000円です」
お側仕えのメイドは新人でも年収1000万円近いという。
緋沙子を居間に通し、花を花瓶に生けて、紅茶をいれる。
そのティーポットを見ながら緋沙子は、
「設楽さまは、陸子さまにお茶をいれてさしあげることも、あるかと思いますが」
「あるよ」
緋沙子は目を細めて、
「楽しみです」
「なにが?」
「陸子さまが楽しまれるのと同じお茶ですから」
「……今日は、うまくいったみたいね」
「ええ。女中頭も親切にしてくれましたし」
その言葉に、洋菓子の箱を開ける手が、一瞬止まる。
「設楽さまのおかげなんだと思います。ありがとうございます」
『陛下を抱いたの』――と、危うく言いそうになった。わけのわからない衝動だった。
「陛下は相変わらず?」
「はい」
「相変わらず私のことを、……親しくなさるときの話題に?」
緋沙子は驚いたように目を丸くした。その反応を見て初めて、自分が言ったことの内容に気づく。
「……気になりますか?」
注意深そうに私のことを見つめながら、緋沙子は訊ねた。
「ええ」
どうしても自分が抑えられない。
「相変わらず、設楽さまのことをよくおっしゃいます」
「そう」
頬が緩むのを、抑えられない。
「ですから私も遠慮なく――」
緋沙子は言葉に詰まったようだった。すぐに頬が赤く染まる。私はその続きを促したりせず、黙って紅茶をカップに注ぐ。
「いただきましょう」
いかにも高級な洋菓子らしく、しっかりした味がする。食べると太りそうな――というのは錯覚で、実際には、二足三文のふにゃふにゃなお菓子を食べるほうが太る。精神的な満足感に欠けるので、だらだらと際限なく食べてしまうせいだ――と自分に言い聞かせて、味覚を楽しむ。
「ここのお菓子、よく食べるの? ……そりゃそうか。ここのは、スポンジの粉が面白いの。普通のお菓子屋さんって、そんなに何種類もスポンジの粉を使い分けたりしないんだけど、ここはケーキごとにぜんぜん違う」
「そうなんですか。私は、世の中にこんなにおいしいお菓子があるなんて、いま初めて知りました」
「陛下は間食なさらないしね」
あの体型を維持するため、というわけではなく、昔からの習慣であられるという。逆に、そういう習慣があの体型を保つのだろう。
「陸子さまもこういったお菓子はお好きなんでしょうか?」
「ええ。でも、差し上げようとしたりしないでね。陛下のお口に入るものは厳重にチェックしなきゃいけないの」
「それくらい知ってます。
……国王って不自由なんですね」
「長期休暇のあいだは緩くなるんだけどね。公邸におわすときは、財団のメンツがあるから」
そうして陛下や公邸のことを話しているうちに、プライベートの携帯電話が鳴った。
「ちょっと待ってて――」
言いかけて、携帯の画面を見て、息が止まる。かけてきたのは、橋本美園。あわてて居間を出て、緋沙子に声が聞こえないようにする。
「はい設楽」
「ひかるさん、そこに平石さんがいるでしょう!」
どうやら橋本美園は、話の前置きが長すぎるか、あるいはまったくないか、どちらかになる体質らしい。
「それが何か」
なぜ緋沙子の動向を橋本美園が知っているのか。おそらく、緋沙子が公邸を出たあと検問を通らないので、連絡が飛んだのだろう。
「慣れあってるでしょう」
「私は美園さんに報告する義務はないと思います。自分自身のことですし、そもそも私は美園さんの部下ではありません」
お側仕えのメイドは、公邸内の非公式な人間関係について見聞きしたことを、女中頭に報告しなければならない。しかし自分自身が当事者の場合は、その限りではない。
「こんなこと仕事で言ってると思うの? ひかるさん、この際平石さんにはっきり言ってやんなさい。陸子さまは自分の女だから、あんたは邪魔だ、って」
「ご忠告には感謝しますが、陛下にとって大切なかたは、私にとっても大切です」
「まーだそんな腑抜けた綺麗事を言ってんの! いい、陸子さまが、ほかの女と乳くりあってんのよ、その平石緋沙子と。どう思うわけ?
知ってるでしょうけど、陸子さまはそういうところでサドだよ。ひかるさんが苦しんでるのを見て感じるタイプ。ひかるさんが行動しなきゃ事態はよくならないの。わかる?」
「私はそういうところでマゾですから問題ありません」
携帯の向こうで、橋本美園が大きく息を吸い込むのが聞こえた。
「決めた。ひかるさんをさらってく」
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