自分の家のお隣さんは、できれば常識的な善人であってほしい。少なくとも、トラブルメーカーであってほしいと願う人はいないだろう。
同じくらい確かなこととして、フィクションの登場人物は、できれば悪人であってほしい。
しかし小説では、主人公を悪人にするのが難しい。悪人のほうが考えることが複雑なので、文字にすると長ったらしくなる。この点、まんがやアニメがうらやましい。
*
「――お側仕えの者が勤務中にカメラを持つことは禁止されているはずですが」
「だから、この写真は偽物と?」
橋本美園の自信には、確かな裏づけがあった。
それは、私を写した写真だった。陛下のお召し物を、胸の前に掲げ、かがみこむような姿勢で下を向いている図。顔は微笑んでいる。
一枚ではない。背景とお召し物とアングルはそれぞれ違う、ただ私の姿勢はどれも同じ写真が、3枚。
写真から目を離せないでいると、いつのまにか橋本美園は私のすぐそばまで近づいていた。
「橋本さんは、この写真を利用することはできないはず――」
私が言い終わらないうちに、彼女は私の肩をつかんで回し、テーブルに仰向けに押し倒した。身をよじる私の上に覆い被さり、唇を重ねる。
「どうか私のことは、美園、とお呼びください。呼んでくださるまで、何度でもこういたします」
また、唇を重ねられる。私は抵抗する気力も失せかけていた。
「美園さん、どうか――」
「『さん』や敬語はご無用に願います」
今度は、舌が唇を割って入ってきて、前歯の先端に触れる。
「美園、やめて」
「無礼をお赦しください」
橋本美園は覆い被さるのをやめて、私が身体を起こすのを助けた。足で地面に立つと、ぐらぐら揺れているような気がする。テーブルに片手をついて身体を支える。
少し落ち着いてから私は、
「……お話がこれだけとは――」
「敬語はご無用に願います」
そうして、くちづけられる。私は逃れようとはしなかった。
私はたどたどしく、敬語でない言葉を紡ぐ。
「……話は……ほかにも、あるんじゃ、ない?」
感触の記憶が、唇から離れない。指でそれをぬぐおうとしかけた。けれど、橋本美園の視線が、それをさせない。もしぬぐったりしたら、また深々と刻まれるのではないか、と。
「ええ、ございます。少々お待ちください」
彼女は自分のエプロンの下に手を入れ、胸のあたりをちょっと探った。それに続いて、背中に手をやり、ワンピースのファスナーを途中まで降ろした。そうしながら、
「ひかるさまにぜひご記憶いただきたいものがございます。――こちらです」
私の顔の前に、布を差し出す。ブラジャーだった。
「これの、匂いを」
彼女はいつのまにか私の腰に右腕を回していた。その腕に力をこめながら、ブラジャーを私の鼻に、軽く押し当てる。橋本美園の健康な汗の匂いが、鼻孔に広がる。
逃れようと思えば、できないことはない。けれど、逃れて、どうすればいいのだろう。
私が逃れようとしないのをみると、腕の力が弱まり、腰から外れた。
その手の指先が、私の下腹部を、そっとなぞる。
「やめて」
私は橋本美園を突き飛ばした。全力で押したはずなのに、彼女はちょっとよろけただけだった。力が入らない。
「どうか無礼をお赦しください」
「……こんな話ばっかりなら、……帰る」
「この写真はどうなさいますか?」
「美園の、好きにすれば」
「かしこまりました」
橋本美園は写真をポケットに戻した。
あれは最後の手段だ。橋本美園との関係が完全に破綻しないかぎり、使われることはない。
「どうぞ、おかけください」
私は言われるままに椅子に腰かけた。
橋本美園は、電気ポットや急須などの茶道具を、部屋の隅に用意していた。それでお茶の用意をしながら、
「ひかるさまが素直にしてくださらないので、思いあまって無礼を働いてしまいましたけれど――」
思いあまって? 見え透いた嘘を、と思った。私が部屋に入った瞬間の、あの意思に満ちたまなざしは、忘れようとしても忘れられるものではない――
「――陸子さまは、なにもしてくださらないでしょう?」
「私は、暴力を振るわれて喜ぶような趣味は、ないの」
敬語を禁じられていると、まるで下着姿をさらしているような心細さがある。
橋本美園は、茶道具の次はメイクボックスを取り出した。
「お化粧が崩れていらっしゃいます。お直しいたします」
私は橋本美園のなすがままにさせた。
「陸子さまは、ひかるさまのお身体に触れてくださらないでしょう?」
唇のあたりをいじられているので、返事をすることができない。
「抱きしめてくださらないでしょう? くちづけてくださらないでしょう? ひかるさまがそうするように仕向けるだけでしょう?」
かなり詳しく聞き出したらしい。私は口でなじるかわりに、眉を険しくした。
「陸子さまは、貪欲であられます。ひかるさまのような女らしいかたを相手にしても、女の喜びを求めてやまないかたです」
それに嗜虐的なところもあられます、と付け加えたかった。
「ひかるさまのお身体だって、人一倍、女の喜びを求めておられますのに」
下唇のふちをいじる橋本美園の指に、陛下が触れてくださった感触が重なる。その指を払いのけたい衝動がわきあがり、こらえる。もしそんなことをしたら、ここが私の弱点だと思われるだろう。
「私は悪い人さらいでございます。悪者でございますので、恐れながら、ひかるさまを脅すようなこともいたします。でも、それだけでひかるさまをさらってゆけると思うような、虫のいい考えは持っておりません。
ひかるさまのお身体が求めておられるものを、満たしてさしあげます。この人さらいの手で」
それまでメイクに使っていなかった右手の小指が、唇を割って、前歯に届く。私は顔をそらしてその指から逃れた。
「また最初からお直しいたしましょうか?」
私は、橋本美園の小指に、なすがままにさせた。前歯に沿って動き、唇の内側を撫でまわす。
「ひかるさまは、少しずつ許してくださるのですね。いずれ、お身体のすみずみまで、すっかり許してくださるのでしょうね。――待ちきれません」
橋本美園は空いていた左手で、私の右手を取ると、小指の先を噛んだ。抑えようとしたけれど、身体がぶるっと震える。
「私のは噛んでくだいませんの?」
私は応じなかった。
けれど橋本美園は、手を離すと、私の拒絶などなかったかのように、
「お直しが終わりました」
と告げると、急須に手を伸ばした。そうして私にお茶を出すと、今度は自分のメイクを直しはじめた。
「……美園の、気持ちは、わかった」
「ありがとうございます。でも、せっかくですが、その必要はございません。私の気持ちよりも、私の身体を、どうか受け入れてくださいますよう」
そう言って橋本美園は、右手の小指を立てて、自分の鼻に近づけ、目を細めた。右手の小指――さっき私の唇の内側を撫でまわした指。
その仕草に、記憶を呼び覚まされる。寒気をこらえるように背中が丸くなる。
「美園は、おうちで、うまくいってないの? 旦那さんとか、家族とかと」
「理想的な家庭とは申しかねますが、それなりにうまくいっていると思います。
でも、私は悪者でございます。悪者はおのれの悪事にすべてを捧げます。私の悪事は、ひかるさまをさらってゆくこと」
「さらってゆく、って、よく意味がわからない。美園にさらわれたら、私はどうなるの?」
「私と同じ、悪者になります。護衛官のお仕事も、陸子さまへの愛も、悪事のために捧げておしまいになります」
その悪事とは――聞きたくなかった。
「でも美園は、本当にそうなってほしいわけじゃ、ないんでしょう? 私がだめだから、見てられなくて、なんとかしたいんでしょう?」
美園は困ったように笑い、
「まだ私の気持ちをお疑いでしたか。私の行いが至りませんでした。お赦しください」
と言って、席を立ち、私の背後にきた。
「――いけません、ひかるさま。私のような悪者に背後を取らせては」
美園は私の喉首を手のひらで包んだ。
「いまからひとつ、私とひかるさまで、力くらべをいたしましょうか。私は、ひかるさまのお召し物を、すべて脱がしてさしあげます。ひかるさまは、それに抗います」
本当にやりかねない、と直感した。
美園のほうが私より身長は高いものの、女中頭になって力仕事を離れてから長い。こちらはトレーニングを欠かしていない。本気でやれば、勝てる。けれど。
私は、喉首を包む美園の手を握り、口のそばまで運んだ。小指を選び出し、口に含んで、軽く歯を立てる。
「また、許してくださいましたね」
「……私、帰る」
私が立ちあがったところを、美園は抱きしめた。帰すまい、というのではなく、味わうように。
「ひかるさま、どうか、私の匂いをご記憶にとどめてくださいますよう。お身体のどこを許してくださるよりも、ひかるさまに嗅いでいただくほうが、満たされる思いがいたします」
とたんに嗅覚が鋭くなり、匂いを嗅ぎはじめてしまう。石鹸やシャンプーや化粧品のかすかな匂いのなかから、美園の匂いを嗅ぎあててしまう。さっき、ブラジャーを鼻に押し当てられたときの、健康な汗の匂い。私の鼻は、美園の匂いを、もう覚えていた。
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