2006年03月13日

公野櫻子『ストロベリー・パニック!』1巻(メディアワークス)

 言うまでもなく、私は『ストロベリー・パニック!』を連載第1回から読んでいる。
 ストパニは、連載開始時の設定では、主人公=読者=兄だった。その後正義が行われて是正されたが、このような致命的な過ちは、そう簡単に拭いきれるものではない。私はいまだにストパニを疑いの目で見ている。また、この過ちの責任者と思しき公野櫻子のことは、特に厳重に警戒している。
 さて本書である。主人公=読者=兄を唱えたか、あるいは少なくとも容認した人物にふさわしく、イデオロギー上の問題が多々認められる。それらをいちいち糾弾してもいいのだが、読み返すのが辛いので、直接役に立つような教訓だけを以下に述べる。
・単純な攻(静馬、夜々)の心理描写は避けるべし
 そもそも百合においては、単純な攻は、その存在自体が問題を孕む。
 BLの受は、多かれ少なかれ、受であることを押し付けられる。最初から「私は受です」という自己認識をもって登場する受はほとんどいない。そのような受が主人公の話を想像してみてほしい。その話は、BLというよりは、ジェンダー問題の物語になるだろう。
 では百合においては、攻であることを攻に押し付ければいいのか。ある意味ではそのとおりだが、受であることを押し付けるほど単純なものではない。
 さらに、百合の受が受であることのなかにも、なんらかの押し付けの要素がある。もちろんこれはBLの攻も同様なのだが、基本的にBLは受の視点なので、避けて通りやすい。しかし百合ではこの問題は避けられない。
 というわけで、百合においては単純な攻は不可能だ。やろうとすれば、『サフィズムの舷窓』の杏里のような突き抜けたバカになるしかない。それができないのなら、単純な攻の心理描写を避け、含みを持たせて逃げるのが一番いい。
・誘い受の使いやすさを重視すべし
 百合では誘い受の使える幅が広い。あまりに広いので、複数の概念に分ける必要があるほどだ。「ブラック誘い受」「引き倒し誘い受」「天然誘い受」などなど。が、本書のノリでは、誘い受が使いづらい。天音と光莉は、光莉が誘い受パワーを発揮すべきところなのに、それが見えてこない。
・地味なキャラをハーレムの主にすべし
 『学園の五大スター』などと複数のスターを持ち上げてそれぞれにファンクラブがあったりする話では、スターの品行はやや抑え気味にして(一妻一婦は守る、など)、地味なキャラが何気にハーレムを持っていたりすると面白い。
 実例は思いつかないし、原理的な根拠があるわけでもないが、私の脳内国会において満場一致で可決された。7andy

Posted by hajime at 2006年03月13日 01:36
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