ジョージ・オーウェルがH. G. ウェルズを批判したエッセイがある。
ウェルズはヒトラーの指導力をみくびっている。それは知識や観察が間違っているからではなく、彼自身の性格のためだ。ウェルズは、「祖国」や「名誉」のような算盤にあわない情熱を憎んでおり、理性の優位を信じている。情熱に突き動かされる世界は屑であり、理性の支配する世界こそ素晴らしいと信じている。そのため、ヒトラーがふりまく邪悪な熱狂の力を過小評価している――大要このような論旨である。
オーウェルはこのエッセイのなかで、ウェルズが憎むものを、一言で表現している。「人生の壮士的な面」、と。
*
四つん這いで歩かされるのは、思ったほど辛くはなかった。
「この床は、さきほどお掃除したばかりでございます」
あとはなにも言わず、のそのそと歩く私に、後ろからついてくる。ただしその手には、私の首輪の綱が握られている。
トイレにたどりつくと、私の身体を抱え起こして、便座に座らせてくれた。手を伸ばせず、足も棒が邪魔なので、ひとりではなかなか起き上がれない。そして、さっきつけた条件のとおりに、トイレのドアを閉めて、私をひとりにしてくれる。
下腹部を被うものはないので脱ぐ必要もなく、そのまま用を足す。
用を足して――気づく。どうやって拭けばいいのだろう。
口枷の下からうなり声をあげて、呼ぶ。
「ご用はお済みでしょうか?」
私がうなずかないのを見て、微笑んだ。どうやら予想していたことらしかった。
「ひかるさまがお許しくだされば、私が拭いてさしあげます」
ほかにどうしようもなかった。
拭く手つきは、必要以上に丁寧でゆっくりしていた。目をつぶって耐える。
「枷を解いてさしあげるまでのあいだ、どのお部屋で過ごされますか? 寝室がよろしいでしょうか? ……では、居間がよろしいでしょうか?」
寝室では、今夜眠るときに、思い出してしまいそうで嫌だった。
「……居間でよろしゅうございますね。ひかるさまに寛いでいただけるよう、お部屋を整えてまいります。少々お待ちください」
すぐに戻ってきて、私を床に降ろし、首輪の綱をとる。
居間はカーテンが閉められ、毛布が敷かれていた。クッションもある。毛布の上に身体を丸めて横たえると、口枷が外された。
「お口に異状はございませんか?」
「ない」
「では、しばらくお預かりします」
美園は、口枷のボールに唇をつけて、息を吸った。一体なにをしているのか一瞬わからず――私の唾液を啜っているのだと気づいて、目を逸らす。自分の口を吸われているような気がした。
「ひかるさまの体液を求めない、とは約束いたしませんでした」
私はうなずいた。
寒くはございませんか? 眠たくはございませんか? 姿勢は? クッションの位置は? かゆいところは? 際限なく尋ねてきた。
「もういい。答えるの面倒」
「かしこまりました。こちらを、どうぞ」
差し出されたボールを口にくわえると、沈黙が訪れた。
美園はすぐそばに正座して、コルセットやお尻に片手を、肩や頬にもう片方の手を置いている。ときどき、肌をなでる。指先がわずかに触れるくらいに。あるいは、肌の下にある骨や筋肉を探るように。
話し合いのときには美園は、私の肌にできるだけ広く触れることを望んだ。『胸に触れない』という条件はずいぶん不本意だったらしく、何度も蒸し返された。なのに、こんなにおずおずとした触れかたをされたのは、拍子抜けだった。
「……ひかるさま、」
耳に心地よい、穏やかな声だった。
「こんな真似をしでかしたあとで申し上げるのは卑怯と思いますが、……私にとっては、なにもかも初めてのことです。誰かに枷をはめるのも、……女の子と、肌を重ねるようなお付き合いをするのも。
私はひかるさまとちがって、女の子にもてたことなどございませんし、……陸子さまとちがって、興味を抱いたこともございません。……こういった道具を使うことには、興味だけはございましたが。
今日のことは、ずいぶんあれこれと考えてきました。もし事が計画どおりに運んだら、あれをしよう、これをしよう、……たくさん考えてきたのですけれど」
ため息の音がきこえる。
「いま、こうなってみると、さっぱり思い出せません。……しょせんは付け焼き刃なのでしょうか。
でも、こうして、ひかるさまを撫でているだけで、……幸せです。
……つまらないことをお耳に入れてしまいました。どうかお聞き捨てください」
しばらくすると今度は、私のあちこちを撫ではじめた。
拘束具のために閉じることのできない内股を撫でる。反射的に腰が逃げようとするのを見て、
「まるで猫でございますね。飼い猫をなでると、ちょうどこんな風に逃げようとすることがございます」
子供を褒めるように、頭を撫でる。
「そうやって素直になさっていると、お召し物がよくお似合いです。可愛らしゅう、……愛しゅうございます」
手のひらを指でなぞる。
「思い出しました。皮膚がふやけて白くなるまで、お指をしゃぶりたい、と考えていたのですが…… お許しいただけないようですね」
そのうち、撫でることから、私の身体を観察することへと、比重が移ってゆく。
下腹部を見つめながら、
「上の生え際がとても整って見えますが、なにかお手入れをなさっていますか? ……私のはもっと複雑なラインになっております。ご覧になりますか?」
足の裏をさすって、
「細いおみ足でございますね。輸入物の靴がよくお似合いでしょう。いつか、私を踏みつけてくださいませ」
見るべきところがなくなると、私の身体を起こして、背中から抱きしめた。胸に触れないよう、コルセットに覆われた腰に腕を回して。
お互いの頬が触れあう。
しばらくそのままでいてから、美園は、私の口枷を外した。
「お口に異状はございませんか?」
「……ない」
「では、お口が休まれたころにお返しいたします」
さっきと同じように、口枷に残った唾液を啜る。
それを見ても、もうあまり動揺はない。私はだんだん自分のペースを取り戻しつつあった。
「――陛下が何年も前から、平石さんを手助けなさっていた、っていう話はどうなったの?」
「解けてしまえば興ざめな謎でございます。お暇するときに申し上げます」
どうやら今日は、前置きが長すぎるほうらしい。
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