いつかどこかで誰かが、こんなことを書いていた。
「子供は幸せの国にいる。その国では、どんなに辛くても、幸せそうな顔をしていなければならない」
*
そのたたずまいが、すべてを物語っていた。緊張と葛藤、絶望と意思、そんな心の動きが、人のかたちになって立っているのが、いまの緋沙子だ。
立っている――それさえも不思議なくらいだった。姿勢や仕草が、ひどくアンバランスで、ちょっと風が吹いただけでも倒れてしまいそうだ。
自分のただならぬ雰囲気に、緋沙子は気づいていないようだった。
「こんな夜分に押しかけて――」
私を待つあいだ、使い慣れない言葉を、何度も頭の中でおさらいしたのだろう。もごもごと早口に詫び口上を述べ立てようとした。私はそれを遮って、
「ひさちゃんは、どうしたいの?」
緋沙子は大きく息を吸いこんだ。その音を聞くだけで、痛ましいほどの緊張が伝わってくる。
「――今日は、設楽さまを誘惑しにきました」
問いと微妙に噛みあわない返事。泣き顔と区別がつかないようなぎこちない笑顔。
私は、どうしようもなくて、微笑んだ。いまの緋沙子が誰かを口説こうとするのは、水を燃やそうとするようなものだ。馬鹿げている。けれど。
「設楽さまは本当は、陸子さまの護衛官でいれば満足なんです。恋のお相手なんかよりも、護衛官のほうが責任重大で、設楽さまはそういうのが好きなんです」
立っているのがやっとのはずなのに、緋沙子は戦いを始めた。陛下のお側に残るための戦いを。急所を見抜く目は曇っていない。けれど。
つい数時間前に、『もう身体の関係にはなりません』と陛下にお約束申し上げた。けれど。
私は緋沙子を抱きしめた。
「ひさちゃん、泣きたそうな顔してる」
「あ――」
無防備な声がひとつ漏れて、涙の堰が破れた。
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