とっくの昔にお忘れかもしれないが実はこれはSSなので、この欄だけでもSSらしくしてみたい。
緋沙子「道を誤ったのだよ。貴様のような攻めキャラのなりそこないは粛清される運命なのだ、わかるか!」
陸子「まだだ、まだ終わらんよ! 」
これでだいぶSSらしくなったと思う。
(なにか誤解があるらしい)
*
繰り返すこと。
親に虐待されて育った人は、自分の子を虐待するようになりやすい、と言われる。陛下がなさっていることも、そのようなものかもしれない。
――そう考えて私は、自分の頬を、手で覆った。陛下に平手打ちされたことを思い出して。
こうして物事は、よいことも悪いことも、繰り返すのかもしれない。それが文化とか、階級とか、民族になるのかもしれない。
でも、同じことを繰り返すのではない。カール・マルクスいわく、『歴史は繰り返す。ただし、一度目は悲劇として、二度目は茶番として』。一度起こったのと同じことは、二度と起こらない。
陛下がなさっていることも、陛下ご自身が受けた仕打ちと同じようでいて、実はまったく違う。
生まれて間もないうちに捨てられた陛下は、自分が捨てられたことを体験なさっていない。陛下は、事が終わってしまったあとで育ち、物心がつき、自分の生い立ちを知り、そしておそらくは、捨てられるという体験を、空想なさった。
その空想はどんな色をしていただろう。
いまはごく現実的な陛下も、幼いころには、生みの母親のことを優しく美しく思い描かれたのだろうか。ご自分が捨てられたことも、その優しさゆえの悲劇として、薔薇色に空想なさったのだろうか。
気持ちの沈んでいる日には、わざわざ憎むまでもないような下劣で愚鈍な女を、思い描かれたかもしれない。自分が捨てられたことも、ごくつまらない灰色の出来事だったと、自分自身に言い聞かせておられたかもしれない。
よほど薔薇色の空想でも、いまの緋沙子の現実ほどきらびやかではない。
母親を演じるのは、美しく賢い千葉国王。陸子陛下ほど豪華な母親を思いつくのは難しい。緋沙子を捨てるのは、けちな愚かさや運命のせいではなく、自分の欲望のため。その緋沙子も、哀れまれるだけの無力な赤ん坊ではなく、悲劇の主人公にふさわしい強さと気高さを備えている。
そして、緋沙子が捨てられても、結局はそれほどひどいことにはならない。緋沙子には、赤ん坊とちがって、ひとりで生きていけるだけの力がある。陛下も金銭面では緋沙子を支えてくださるだろう。緋沙子は、赤ん坊とちがって、自分というものを持っている。それはこの悲劇のあとも、さほど傷つかずに残るだろう。
陛下がどういう事情で捨てられることになったのか、私には知る由もない。けれど、どんな事情だったにせよ、これだけは間違いない――いまの緋沙子の現実のほうが、ずっといい。
繰り返すこと。
陛下は、生みの母親にされた仕打ちを、緋沙子に向かって繰り返している。けれど、繰り返しているのは同じことではない。それは一度目とは比較にならないくらい、美しく、鮮やかで、甘い。
私はできればよい人間でありたい。けれど私は天使のようになりたいとは思わない。自分のだめなところをすべて切り捨てて、完璧な人間になりたいとは思わない。私は美しい姿でありたいから化粧をする。けれど自分の顔を、天使の顔と取り替えてしまいたいとは思わない。それと同じことだ。
自分の顔を取り替えたくないように、陛下のお顔が天使のようであってほしいとも思わない。
陛下のお顔と同じく、お心も天使のようではなく、緋沙子を捨てようとなさる。
繰り返すこと。
自分がされたことを人にしてしまうとき、一度目よりも、甘く美しくする。
陛下のなさっていることは、悪い。けれどそこには、人間の素晴らしい力が発揮されている。天使ではなく、よい人間であるための力、悪いけれど、よいものが。
もし陛下のなさることが本当に間違っていれば、私は必ずお止めする。私にはそれができる。陛下をお守りすることが私の役目なのだから、陛下ご自身の過ちからも、お守りする。
緋沙子を捨てることのなかにある、悪いけれど、よいものが、私をそこまでゆかせない。陛下にとって悪いことだと、心の底から信じることができない。これでは、陛下をお止めできない。
なら、心の底から信じることをしよう。
信じること――私が緋沙子を守る。
私が陛下のかわりになれるはずもないから、私なりのやりかたで、緋沙子を守る。そんなことができるのかどうかも知らない。けれど、決意することは、信じることだ。
繰り返すこと。
『私とは会えなくなってもいい?』
それは一度目よりも甘く美しいだろうか。おそらく、きっと。
けれど。
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