ネタ切れのため設定の話をする。設楽ひかるが仕事中につけている腕時計について。
ブランド指向のかたには悪しからずだが、オーデュマ・ピゲだのパテック・フィリップだのではなく、日本製のソーラー電波だ。アナログ3針、レディースサイズ、ガワとベルトはステンレス。つけている腕は左腕、フェイスは内側に向けている。
全身バリタチ風味な支度のなかで、髪と腕時計だけがフェミニン、という趣向である。
*
私は朝食を職員寮の食堂でとる。私に出される食事は、護衛官専用と銘打ってあり、食材は陛下のお食事と同じだという。調味料や食器で差がつくので、陛下のお食事と同じ味とはいかないが、それでも、自炊する気がなくなるほどおいしい。
寮の住人は8人、勤務シフトは別々だ。誰かと食事の時間が重なることは少ない。今朝も私は食堂にひとりだった。
食べ終わり、お茶を飲みながら一息ついていたとき、
「みーっけ」
と、後ろから、腕を首に回された。
「美園さん、おはようござ――ぐ」
美園は回した腕を関節技に使い、私の首を締め上げる。
「ひかるさん、おはよう。同伴出勤しようか」
そう言って腕を外すと、今度は私の手をとった。そのまま食堂の出口へとひっぱってゆこうとしたので、
「お膳を戻さないと――」
「松本さーん、急ぐから、お膳ここに置いとくよ、ごめーん」
厨房から「あいよ」という返事がくる。
ひっぱられるままに職員寮を出ると、私は訊ねた。
「いったいどうしたんですか?」
すると美園は立て板に水の調子でまくしたてた。
「悩んでんの。まあ聞いてよ。
ひさちゃんがクビだっていうじゃない? 万歳よ。といっても私は大人だからさ、ひさちゃんのこと好きなひかるさんの前では、残念そうな顔してあげてもいいよ。でも、まだ一週間経ってないからね。このあいだの屈辱、まだ忘れてないから、今日は万歳で許してよ。
このあいだの屈辱のことだけど、あれで私は負けたと思ったの。陸子さまはひさちゃんをネタにして徹底的にひっぱって遊ぶんだろうなって思ったし、それだとひさちゃんをクビにするわけないでしょう。こんなクソガキが陸子さまに大ヒットするなんて、って思いながら顔つきあわせて働くわけ。まったくこりゃ屈辱よ! それをたった一週間で忘れてあげるっていうんだから、私って大人だよね。
ええと、なんだっけ? ああ、そうだ。
ひさちゃんがクビになるわけない、でもクビになった。どういうこと?
もしかしてひかるさん、ひさちゃんとセックスしてみたら合わなくて嫌になって、それでひさちゃんがネタにならなくなってクビ? だったら最高なんだけど、まさかそんなんじゃないよね。
考えてもわかんないから、いったいなにが起こってんの? って聞きたいわけなんだけど、まだ答えないでね。
もしかしてこれ、私が事情を知っちゃうと、ヤバいことなんじゃない?
根拠はないんだけど、ただの勘なんだけどね、なんかこれ、もし私が知ったら、それが影響して悪いほうに転がっていくんじゃない? ひかるさんと陸子さまとひさちゃんと、三人しか知らなければ大丈夫、っていうか、このままひさちゃんがクビになっただけで終わるのに、もし私が知っちゃったら、私までクビになったりとか、陸子さまのご威光に傷がついたりとかしない?
そのへんよーく考えてから、答えて。いったいなにが起こってんの?」
これだけ全部を一息に言われて、私は頭がぐらぐらした。そのせいか私は関係ないことを思いついて、口にした。
「美園さんは本当に、平石さんのことが嫌いなんですか?」
「あの子が私のいうこと聞くんなら、かわいがってもいいよ。かわいいところがあるってのは認める。でも今のひさちゃんだと嫌い。『私には陸子さまがついてるんだよ、あんたなんかにへいこらするかよ、へへーん』って顔してんだからさ」
「それだと私も大差ないと思いますが」
「ちがうね。ひかるさんは陸子さまのこと本当に好きでしょう。ひさちゃんは、いろいろ混じってる。強いものに媚びるみたいなところもあるし、陸子さまに見放されたら生活に困るっていう現実的な問題もあるし。そういうのは子供だからしょうがないけど、私がむかつくのもしょうがないのよ」
強いものに媚びる――権力崇拝。私は護衛官として、人々のそういう感情を嫌というほど見てきた。緋沙子にもそれがあるのだろうか。
生活問題。緋沙子は、自分の恋だけでなく、生活もかけて戦っている。『パパとママ、どっちが好き? ――ってことですか?』。その言葉が、改めて重い。
「……私の知っている平石さんと、美園さんの知っている平石さんは、少し違うようですね」
「え、私、ひさちゃんの悪口とか吹き込んでる? 吹き込んでるねえ。ほら私、ひさちゃんのこと嫌いだから、言っちゃうわけよ。できれば私だって、ひかるさんの見てるような、きらきら輝いてるひさちゃんを見たいもんだけど。
そうだ、きょう会ったら、『うちの子にならないか』って誘ってみようかな? すごいツンデレかましてくれるかも? いいなあ。やらないけどさ。ダンナに無断で養子は取れないわ」
通用門の詰所の警官が、私に敬礼した。私はつかまれていた右手を振りほどいて答礼する。その右手を、またすぐにつかまれる。
そのころようやく考えがまとまってきた。
「今回のことは、悪いことばかりではないと思うんです」
「あら大人発言」
美園の皮肉にはとりあわず、私は続けた。
「平石さんは誰かが守ってあげるべきです。その役目を引き受けるおつもりが陛下にないのなら、いっそ離れてしまったほうがいいでしょう。でなければ平石さんは、いつまでも期待しつづけて、裏切られつづけるだけです」
私の手をつかんでいる指の温度が、急に下がった。
「――ひかるさん、私はなーんにも聞かなかった。聞こえなかった。
さっきの養子のことだけど、けっこう真剣に考えてるの。あのひさちゃんが私にデレデレしまくるって思ったら、こりゃ、おいしいわ。私はひさちゃんを独占したいわけじゃないから、ほかに好きな人がいたって別にいい、っていうかそのほうが楽だ。
ひさちゃんだって、お父さんが欲しいんじゃない? うちのダンナも出来はよくないけど、ひさちゃんに手を出す度胸はないね。お父さんだけじゃなくて、弟もいるし、おじいちゃんもいるし……
……もうちょっと、優しくしとけば、よかったな」
自分が言っていることの現実味のなさに、嫌気がさしたのだろう。最後はひとりごとだった。
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