いわゆる「萌え不可能性論」について。
エロゲー等によくあるパターンに、「姉と妹に同時に手を出す」というものがある。いわゆる姉妹どんぶりだ。親族関係は姉妹間にだけあればよく、主人公は他人でいい。ここでは他人として話を進める。
このパターンを百合的に読み替えれば、「姉妹間の性愛が禁じられているので、主人公を媒介に使っている」となる。姉と妹がお互いに主人公を奪い合う、あるいは共有することを通じて、禁じられた感情が形を変えて表出している、と解釈するわけだ。もちろん姉と妹はどちらも、自分自身の禁じられた感情を自覚しないまま、その感情に振り回されている。
この百合的な読み替えに従えば、物語の最後には、禁じられた感情がなんらかの形で表面化することになる。たとえば、「禁じられた感情を自覚して性愛にたどりつく」というオチだ。短絡的だがインパクトはある。
しかし私の趣味としては、もう少し上品にいきたい。「願望は実現すればOK」というのでは、エロゲーの存在意義そのものが否定されてしまう。というわけで私は昔、以下のようなオチを考えた。
主人公を奪い合った結果、姉と妹の関係は決定的に破綻する。片方が死亡するなどの、もう二度と会えないくらいの破綻である。主人公を得た姉(または妹)は、妹(または姉)を完全に失ったあとで、自分自身の禁じられた感情を自覚する。というのも、その願望はもはや実現できないので、自覚しても安全だからだ。姉は妹を犯すことを妄想するようになり、主人公にその妄想を話して聞かせるようになる。
このオチでは、禁じられた感情の禁止のメカニズムが、内的な抑制から外的な不可能へと変化する。また主人公による媒介のメカニズムも変化する。それでいて、「姉妹間の性愛が禁じられているので、主人公を媒介に使っている」という構図は保存される。
実現できないので安全――これは萌え不可能性論と重なり合っている。だが、上記のオチには、「萌え」ではすまない何かがある。不可能性は萌えより広いのだ。
「願望は実現すればOK」を否定したついでに、もうひとつ。「あえて実現しない」ことにも、生活の知恵以上のものがある。
たとえば上記のパターンとオチで、もし妹が最初から自分自身の感情を自覚していたとしたら、どうか。姉への性欲を自覚したうえで、主人公を媒介に使い、最後には姉と決別したのだとしたら。この筋書きは、妹が単純に姉を口説くなり犯すなりするよりも、面白い。
願望を、その目指す対象だけで認識するのは、視野狭窄だ。願望は、世界を秩序づける法則のひとつとして認識しよう。その法則はきっと世界を面白くするのに役立つ。
役立てる方法がわからない? ではまずその方法を考えよう。きっと面白い問題のはずだ。