ずっと昔、こんな文章を読んだ。「歳をとると、誰もが誰かに似て見えるようになる」。そのときは、理屈ではわかったが、なんの実感もなかった。
後年、クンデラ『不滅』を読んだとき、同じような描写に出くわした。今度は実感がわき――そして前述の文章を思い出したというのは、なんの皮肉だろう。人間にそっくりさんがいるのだから、文章はなおさらだ。
だが私はいま、もう一歩先のことに気づいた。
観察に頼るほど、人間は類型的に見える。
考察を重ねるほど、人間はそれぞれ違って見える。
観察の絶対量に比例して類型性を強く感じるようになる、のではない。観察に比して考察が足りないとき、類型性を強く感じるようになるのだ。
観察によって新たに得られた経験はまず、既存の枠組みに照らし合わせて理解される。このとき、もし深く理解したなら、既存の枠組みはなんらかの発展を迫られるはずだ。だが、深く理解する労力(考察)を惜しむと、既存の枠組みに押し込めただけで終わる。こうなると人間が類型的に見えてくる。
これだけなら、「もっと考察しよう」で済む話だ。
しかし、ある種の経験には、なにかしら考察を抑制するような作用がある。「考察が足りない」と頭ではわかっているのに、既存の枠組みへと、類型性へと引きずられる、そういう経験がある。
このエントリは、引きずられつつある私が、引きずる力に抵抗しようとしている真っ最中に、書かれている。
引きずる力の中身は、ごく簡単に言い表せる。
物事を楽しめていないときに、その楽しめない状態から短絡的に逃れようとしているとき、人は引きずられる。
物事を楽しめないのは、そこから逃れる方法がよくわからないからだ。「ピンチから巧みに逃れる主人公」として自分自身を思い描けるなら、それだけでもう楽しい。
逃れる方法がよくわからないのは、たいていの場合、既存の枠組みがヘナチョコだからだ。なにをなすべきかを示せないような枠組みは、論理的にはどんなに完璧でも、ヘナチョコだ。
ではヘナチョコな枠組みを叩き直そう――というところまでゆきつければ、なにをなすべきかは明瞭だ。しかし、そこまでゆきつく気持ちの余裕がないとき、人は短絡的になる。
つまり、気持ちの余裕がないとき、誰もが誰かに似て見えるようになる。
ここから脱出するには、どうすればいいか。
1. 「この世には、しなければならないことなど何もないのだよ、関口君」と唱える。
2. 忘却力を発動して、あらゆる義務を忘却する。
3. 自分が楽しくなるようにすることだけを考える。つまり、遊ぶ。
今もう一度、かすかな記憶を呼び起こしてみる。「歳をとると、誰もが誰かに似て見えるようになる」という文章と、クンデラ『不滅』の例のくだりを。
確かに、同じことを書いている。でも、その筆づかいは、ずいぶん違うではないか。
筆づかいを思い出す余裕がなかった自分自身を恥じ――はしないが、思い出すことのできた今の自分のほうが、ずっといい。